第1話 羽音
空を飛んでいた。
最初にそう思った。
体が軽い。
風が体の下を抜けていく。
目に映る景色が、いつもの人間の高さではなかった。
地面が遠い。
いや、鳥みたいに高いわけじゃない。
人間の膝より少し上。
塀。
ゴミ捨て場のフェンス。
そういうものが、やけに大きく見える高さだった。
羽の音がしていた。
ぶうん。
低くて、細かい音。
耳で聞いているというより、自分の体そのものが細かく震えているみたいだった。
昆虫だ。
たぶん、そうだと思った。
こういう夢は、目が覚めるまで自分が何になっているのか分からないことがある。
猫ならまだ分かりやすい。
魚も分かる。
犬や鳥も、少しすればだいたい見当がつく。
でも、虫は分かりづらい。
足が何本あるのか。
目がどう見えているのか。
口がどう動くのか。
そういうことを考えようとすると、余計に気持ち悪くなる。
僕は飛んでいた。
飛びたいから飛んでいるわけじゃない。
この虫の体が、そうしたがっているだけだった。
夢の中では、僕の意識はそこにある。
でも、体を動かしているのは僕じゃない。
その生き物が見たものを見る。
感じたものを感じる。
食べたものを味わう。
そして死ぬまで、僕はそこにいる。
そういう夢だった。
虫の体は、ゴミ捨て場の方へ向かっていった。
近づく前から、においがした。
腐った野菜。
濡れた紙。
古い油。
何日も前に捨てられた肉。
人間の鼻なら、顔をしかめて息を止めるようなにおいだった。
でも、この体は違った。
嫌がっていない。
むしろ、においの強い方へ自分から向かっていく。
やばいな。
そう思った。
こういう夢は、死ぬ瞬間より、その前の方がきついことがある。
虫の体が、黒いゴミ袋の破れ目に止まった。
中から汁がにじんでいる。
茶色く濁った、粘り気のある汁。
腐った葉っぱ。
魚の骨。
何かの肉片。
その上には、白っぽい脂が膜になって浮いていた。
肉の表面はところどころ黒ずみ、柔らかく崩れている。
僕なら絶対に近づかない。
でも、この体は迷わなかった。
口のあたりが動く。
何かを吐き出している。
ぬるい液体が、腐った肉の表面へ広がった。
消化液。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
虫の中には、食べ物を外で溶かしてから吸うものがいる。
たしか、どこかで聞いたことがあった。
今、この体がやっているのも、それだった。
肉の表面がさらに柔らかくなる。
繊維が崩れる。
脂と汁が混ざり、どろどろになっていく。
それを。
吸った。
僕の意識ごと。
口の中に、味とは呼びたくないものが広がった。
すえたにおい。
腐った脂のぬるさ。
酸っぱさ。
苦さ。
妙な甘さ。
舌の奥へ張りつくような、生臭い味。
全部が腐って、混ざっていた。
吐きたい。
喉の奥までせり上がるような気持ち悪さがあった。
でも、虫の体は吐かない。
それどころか、もっと吸おうとしている。
柔らかくなった肉へ口を押しつける。
ぬるい汁を吸う。
腹の中へ流し込む。
僕の口じゃない。
僕の舌でもない。
それなのに、味だけは僕の中へ直接入ってくる。
腐った肉を溶かして。
吸っている。
分かっているのに、やめられない。
早く目が覚めればいい。
そう思った。
でも、こういう時に限って夢は終わらない。
虫の体は食べ続けた。
腐った汁を吸う。
肉だったものを溶かす。
吸う。
また溶かす。
腹の中へ入れていく。
汁の奥で、白っぽいものが動いた。
細いものが何本も、肉の隙間を這っている。
幼虫だった。
何匹いるのか分からない。
半透明の体が折れ曲がり、腐った肉の中へ潜っていく。
見たくなかった。
でも、目を閉じることもできない。
そのすぐ横へ、この体の口が伸びた。
やめろ。
そう思った。
当然、止まらない。
腐った肉と一緒に、何か柔らかいものが口元へ触れた。
潰れたのか。
避けたのか。
分からなかった。
分かりたくもなかった。
ただ、ぬるいものを吸う感触だけが続いた。
死ぬよりまし。
そう言えるのかもしれない。
でも、僕にとってはたぶん違った。
潰されるのも嫌だ。
刺されるのも嫌だ。
車に轢かれるのも、もちろん嫌だ。
でも、腐ったものを食べ続ける夢は、それとは別の場所できつい。
痛みじゃない。
怖さでもない。
気持ち悪さが、ずっと続く。
しかも、この体はそれを嫌がっていない。
むしろ喜んで食べている。
しばらくすると、腹が満たされたのか、体に力が戻ったような感じがした。
羽がまた動く。
ぶうん。
振動が強くなる。
体がゴミ袋から離れた。
空中に浮かぶ。
虫にとっては、普通のことなんだろう。
でも、僕にはその羽音がうるさかった。
高速で動く何かが背中にくっついていて、骨もない体の中までずっと揺らされている。
自分のものじゃない羽が、自分の神経を直接叩いているみたいだった。
気を失いたかった。
でも夢の中では、そう都合よく気を失えない。
僕はこの虫が死ぬまで、ここにいなければいけない。
朝になっても、何も食べられないかもしれない。
そんなことを考えた。
腐った脂の味が、まだ口の奥に残っている。
朝ごはんに何が出ても、きっと思い出す。
卵でも。
パンでも。
味噌汁でも。
少しでも似たにおいがしたら、今日のこれが戻ってくる。
最悪だ。
そう思いながら飛んでいた。
その時。
前に何かが見えた。
小さい。
でも、今の僕から見れば大きい。
こちらへ向かってくる。
速い。
羽ばたき方が違う。
曲がり方も。
距離の詰め方も。
こっちとは比べものにならない。
小鳥だ。
そう思った時には、もう遅かった。
逃げようとした。
虫の体が急に進路を変える。
羽音が乱れる。
視界が揺れる。
でも。
相手の方が速い。
空気が大きく動いた。
影が上からかぶさる。
次の瞬間。
硬いものに挟まれた。
くちばし。
そう分かった。
体の真ん中に、とんでもない力がかかった。
潰れる。
片方の羽が根元から折れた。
何本かの足が、勝手にばらばらと動く。
腹が押し潰される。
体の中に入っていたものが、一気に逆流するような感覚がした。
痛い。
逃げたい。
でも、もう羽が動かない。
小鳥が僕をくわえたまま、首を振った。
体が揺さぶられる。
そして一度、くちばしが開いた。
ほんの一瞬だけ体が浮き。
すぐに、もっと深い位置で噛み直された。
ばり。
今度は、はっきり聞こえた。
体の硬い部分が割れた。
腹が潰れた。
中身が押し出される。
さっき吸った腐った汁が、裂けた腹の中から逆流した。
自分の中身と。
さっきまで食べていたものが。
混ざった。
潰された体の内側で、ぬるいものが広がる。
それでも足の何本かだけは動いていた。
勝手に。
意味もなく。
空を掻くみたいに。
やめてほしかった。
もう動かないでほしかった。
自分の体なのに、止めることもできなかった。
小鳥の舌が触れた。
ぬるい。
くちばしが、また閉じる。
体がさらに小さく折り畳まれる。
羽。
足。
腹。
どこがどこなのか分からなくなった。
そして。
奥へ送られた。
暗い。
喉だった。
ぬるくて、狭い。
周りの肉が動くたび、壊れた体が締めつけられる。
押される。
さらに奥へ。
羽だったものが体に貼りつく。
潰れた腹が擦れる。
もう息をしているのかどうかも分からない。
それでも、感覚だけが残っていた。
狭い。
気持ち悪い。
出たい。
戻りたい。
でも、喉の壁がもう一度収縮した。
体が奥へ押し流される。
ああ。
今回は。
こういう終わり方か。
最後にそう思った。
そして。
意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
目が覚めた。
白い天井が見えた。僕の部屋だった。
しばらく何もせず、そのまま横になっていた。
まず、口を閉じる。ゆっくり息を吸ってみる。
鼻から普通の空気が入ってくる。腐ったにおいはしない。
喉も、何かに締めつけられていない。
僕は舌で口の中を確かめた。何もない。
変な汁も、腐った脂も、肉の味もしない。
それでも、喉の奥にまだ残っている気がした。
腐った肉を溶かして吸った感覚。ぬるくて、どろどろしたものが腹の中へ入っていった感触。
白い幼虫が動いていた光景まで、頭に残っている。
僕は布団の中で腹へ手を置いた。潰れていない。
当然だった。
次に肩や背中へ手を回す。
羽もない。足も二本だけだった。
全部、人間の体だ。
分かっている。
それでも、さっきまで高速で動いていた羽の振動が、背中の奥にまだ残っているような気がした。
最後にくちばしへ挟まれた時の感触も覚えている。
腹を圧し潰されて、中身が押し出された感じ。何本もあった足が勝手に動き続けていた感じ。
ぬるい喉の奥へ押し込まれた感覚。
全部、まだ残っている気がした。
窓の外はもう明るい。朝だった。
たぶん下へ行けば、朝ごはんがある。
何が出るんだろう。
卵だったら。
肉だったら。
少しでも脂っぽいにおいがしたら。
また思い出す気がした。
僕は天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「気分悪い……」
本当に吐きそうなわけじゃない。僕の胃に腐ったものが入っているわけでもない。
それくらいは分かっていた。
でも、分かっていても気持ち悪いものは気持ち悪かった。
口の中に何もないことを確かめるように、もう一度唾を飲み込んだ。
普通だった。
それでも。
しばらく朝ごはんを食べられる気はしなかった。
最悪な朝だった。




