プロローグ4
放課後になると、教室の空気が少しだけ軽くなる。
帰るやつは帰る。
部活に行くやつは鞄を持って教室を出ていく。
廊下には、運動部の声や、楽器の音や、誰かの笑い声が混ざっていた。
僕は鞄を持って、教室を出た。
家には帰らない。
正確には、まだ帰りたくなかった。
家が嫌いなわけじゃない。
母さんが嫌いなわけでもない。
父さんも、姉さんも、桜も、別に嫌いじゃない。
ただ、家に帰ると、そのあとは早い。
夕飯を食べる。
風呂に入る。
部屋に戻る。
布団に入る。
そこまで行けば、あとは眠るだけだ。
眠れば、また何かになる。
何かになって、どこかで死ぬ。
だから僕は、できるだけ学校に残ることにしていた。
夏に入ってから、部活に入った。
百人一首クラブ。
正直、何でもよかった。
走らなくていい。
大声を出さなくていい。
誰かと無理に仲良くしなくてもいい。
それで、できるだけ遅くまで学校にいられるなら、何でもよかった。
だから百人一首を選んだ。
別に好きだったわけじゃない。
最初は、札の意味もほとんど分からなかった。
誰が誰を思って詠んだ歌なのかも知らなかった。
上の句も下の句も、似たような言葉にしか見えなかった。
でも、毎日来ているうちに、だいたい覚えてしまった。
クラブは毎日あるわけじゃない。
週に何回かだけ。
部長や副部長が来る日もあれば、誰も来ない日もある。
それでも、僕は毎日部室に行った。
活動日じゃない日も、顧問の先生に鍵を借りて、畳の部屋に入る。
読み札と取り札を分ける。
百枚の取り札を畳に並べる。
自分で読み札をめくって、下の句を探す。
一人で百人一首をやる。
たぶん、周りから見れば変だと思う。
よっぽど百人一首が好きなやつ。
一人で遊んでいる寂しいやつ。
友達がいないやつ。
そんなふうに思われているかもしれない。
でも、そのくらいならまだいい。
札を取る音が、畳の上に響く。
ぱん、と乾いた音がする。
その音は少しだけ苦手だった。
何かを叩いた音に似ている。
手のひらが壁に当たる音。
新聞紙が床を打つ音。
小さな体が潰れる音。
そういうものを思い出すことがある。
でも、ここは静かだった。
腐ったにおいもしない。
血のにおいもしない。
誰かが死ぬ音もしない。
読み札の文字だけがある。
畳のにおいだけがある。
窓の外に、夕方の光がある。
それだけで、少し楽だった。
「宍戸、また一人でやってるの?」
部長にそう言われたことがある。
「はい」
僕が答えると、部長は感心したように笑った。
「真面目だね」
真面目。
そう言われると、少し困る。
僕は真面目なわけじゃない。
ただ、帰りたくないだけだ。
でも、それを言うわけにはいかなかった。
「別に」
僕はそう答えた。
副部長にも、前に褒められた。
「宍戸くん、覚えるの早いよね。大会出られるんじゃない?」
「出ません」
「なんで?」
「別に」
副部長は少し困った顔をして、それでも笑った。
「もったいないな」
もったいない。
何がもったいないのか、僕にはよく分からなかった。
でも、褒められるのは嫌ではなかった。
この学校で、僕が何かをして褒められることはほとんどない。
変だと言われる。
暗いと言われる。
何を考えているか分からないと言われる。
それに比べれば、百人一首が少しできるくらいで褒められるのは、悪くなかった。
救い、と言うほど大げさなものではない。
でも、何もないよりはましだった。
部室には、だいたい最後まで僕が残る。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。
校庭の声が減っていく。
運動部の足音も遠くなる。
廊下を歩く生徒の数も少なくなる。
六時になると、学校を出なければいけない。
部室の時計の針が六時に近づくたびに、胸の奥が少し重くなる。
それでも時間は止まらない。
僕は札を集めた。
取り札を束にして、箱に戻す。
読み札もそろえる。
畳の上に残った札がないか確認する。
窓を閉める。
電気を消す。
部室の鍵をかける。
何度もやっているから、もう慣れていた。
鍵を職員室に返すと、先生が言った。
「宍戸、今日も最後か」
「はい」
「気をつけて帰れよ」
「はい」
返事だけして、僕は昇降口へ向かった。
外に出ると、空はもう暗くなりかけていた。
夕方と夜の間の色だった。
この時間が、一番嫌いかもしれない。
まだ夜ではない。
でも、もう昼でもない。
どれだけ学校に残っても、結局、夜は近づいてくる。
僕は歩き出した。
家までの道は、そんなに遠くない。
遠くないことが、嫌だった。
もっと遠ければいいのに、と思う。
家に帰るまでに一時間も二時間もかかればいい。
そうすれば、夜は少しだけ遅くなる。
でも、現実はそんなに都合よくできていない。
歩けば家に着く。
家に着けば夕飯がある。
夕飯を食べれば風呂に入る。
風呂に入れば、あとはもう寝るだけだ。
眠りたくなかった。
毎晩そう思う。
でも、人間は眠らないと生きていけない。
誰がそんなふうに作ったんだろう。
神様が決めたのなら、文句を言いたかった。
どうして僕だけ、眠るたびに死ななきゃいけないんですか。
僕が何をしたんですか。
何か恨みでもあるんですか。
もし本当に神様がいるなら、直接聞いてみたい。
でも、そんな相手はどこにもいない。
空を見ても、電線しかない。
夕方の雲が、暗い色に変わっていくだけだ。
結局、夜は来る。
僕は家に帰る。
夕飯を食べる。
風呂に入る。
布団に入る。
そしてまた、何かになる。
何かになって、どこかで死ぬ。
僕は鞄を持ち直して、暗くなり始めた道を歩いた。
できるだけゆっくり歩いた。
それでも、家は少しずつ近づいてきた。




