プロローグ3
学校に着いても、僕の中にはまだ猫の死に方が残っていた。
車にぶつかったときの重さ。
道路に叩きつけられたときの冷たさ。
少し離れたところから、自分の体を見ていた変な感じ。
教室に入って、席に座る。
黒板を見る。
机に鞄を置く。
教科書を出す。
そういう普通のことをしている間も、体の奥にはまだ、さっきまで死んでいた感覚が残っている。
でも、そんなものは言葉どころか、顔にも出さない。どうせ誰も分かってくれないし、出したところで、気味悪がられるだけだ。
教室に入ると、何人かが僕の方を見た。
すぐに目をそらすやつもいれば、最初から見ていないふりをするやつもいる。
僕が何かをしたわけじゃない。
ただ、僕はこのクラスでは少し変わったやつだと思われている。
あまり笑わない。
あまり怒らない。
驚かない。
休み時間に騒がない。
誰かがふざけても、うまく乗れない。
面白みのないやつ。
たぶん、そんなふうに思われている。
別に、それでよかった。
面白いと思われたいわけじゃない。
仲良くなりたいわけでもない。
僕が何を見ているのか、何を覚えているのか、誰にも知られなければそれでいい。
一時間目が終わって、休み時間になった。
教室の中が少しだけ騒がしくなる。
男子が廊下へ出ていき、女子が机を寄せて話し始める。
僕は席に座ったまま、窓の外を見ていた。
校庭の端で、何人かの男子がしゃがみ込んでいた。
何をしているのかと思って見ていると、一人が木の枝を持っていた。
もう一人は、飲みかけのペットボトルを持っている。
その下に、黒い小さな点がいくつも動いていた。
蟻の巣だった。
男子の一人が、枝を地面に突き刺した。
土が崩れる。
小さな黒い粒が、ばらばらに散った。
「うわ、出てきた」
「きも」
「もっとやったらどうなるんだろ」
そう言って、別の男子がペットボトルを傾けた。
水が、蟻の巣の穴に流れ込んでいく。
僕は立ち上がっていた。
考えるより先に、足が動いていた。
「やめろよ」
自分でも、思ったより低い声が出た。
男子たちが振り返る。
「は?」
「何、宍戸」
「別によくね? 蟻だし」
「暇つぶしだって」
暇つぶし。
その言葉を聞いて、少しだけ嫌な感じがした。
暇だから壊す。
暇だから流す。
暇だから、死ぬまで見ている。
たぶん、こいつらにとってはそれだけだった。
「子供っぽい」
僕は言った。
男子たちは一瞬だけ黙った。
それから、一人が笑った。
「虫にマジになってる方が子供っぽくね?」
「つーか、蟻だぞ?」
「宍戸って変なとこで急に来るよな」
僕は何も言い返さなかった。
言い返したところで、説明できない。
蟻だからいい。
虫だからいい。
小さいからいい。
気持ち悪いからいい。
たぶん、みんなはそう思っている。
でも、僕は知っている。
小さくても、死ぬときは死ぬ。
潰されれば潰れる。
水を流されれば溺れる。
巣を壊されれば、逃げ場をなくして、わけも分からないまま死ぬ。
それが夜になって、僕の中に入ってくることがある。
足がばらばらに動かなくなる感覚。
水の中で息ができなくなる感覚。
硬いものに押し潰されて、体の形がなくなる感覚。
そんなものを、わざわざ増やさないでほしい。
「もういいだろ」
僕がそう言うと、男子の一人がつまらなそうに枝を投げた。
「はいはい」
「蟻の味方かよ」
「きも」
そう言って、笑いながら離れていった。
僕は何も言い返さなかった。
こんなところで死なれて、夜に夢に出てこられても困る。
そう言ったら、余計に気味悪がられるだけだ。
崩れた土の上で、蟻たちがまだ動いていた。
行き場を失ったみたいに、同じところをぐるぐる回っている。
僕は枝を拾って、崩れた土を少しだけ戻した。
巣が元通りになるわけじゃない。
水を流された穴の奥では、もう何匹か死んでいるかもしれない。
それでも、何もしないよりはましだと思った。
「宍戸くんって、優しいんだね」
後ろから声がした。
振り返ると、佐倉和枝が立っていた。
同じクラスの女子だ。
誰にでも普通に話しかけるし、たぶん僕のことも、まだそこまで気味悪がってはいない。
「蟻、助けてたんでしょ?」
佐倉はそう言って、少し笑った。
僕は答えに困った。
優しい。
そう言われると、いつも少し困る。
僕は優しいわけじゃない。
命を大切にしている、というのとも少し違う気がする。
ただ、殺したくないだけだ。
見たくないだけだ。
眠ったあとに、そいつらの最後が自分の中へ入ってくるのが嫌なだけだ。
僕は蚊も殺せない。
寝ているときに耳元で飛ばれると、うるさいとは思う。
刺されればかゆい。
でも、手で叩き潰そうとは思わない。
一度、蚊として死んだことがある。
巨大な手が近づいてきて、逃げようとした瞬間、体が平たく潰れた。
羽も足も腹も、全部まとめて壁に押しつけられた。
痛いというより、体が一瞬で自分の形を失う感じだった。
あれは、かなり嫌な感覚だった。
ゴキブリも同じだ。
母さんは見つけるとすぐに殺そうとする。
スプレーを探したり、新聞紙を丸めたりする。
だから僕は、母さんに見つかる前に、できるだけ外へ逃がしてやる。
前に一度、台所に出たゴキブリを紙に乗せて窓から逃がしたら、母さんにすごく怒られた。
「なんで逃がすのよ!」
そう言われた。
理由は言えなかった。
ゴキブリが、母さんに潰された夢を見たことがあるから、とは言えなかった。
腹側から押し潰されて、足がばらばらに動き続ける感覚が気持ち悪かったから、とは言えなかった。
ムカデを逃がしたときも、同じだった。
あれはさすがに自分でも気持ち悪かった。
細い足が何本も動いていて、見ているだけで鳥肌が立った。
それでも殺せなかった。
殺したら、また見るかもしれない。
そう思うと、どうしてもできなかった。
「別に、優しくない」
僕は小さく言った。
佐倉は不思議そうに首を傾げた。
「でも、止めたじゃん」
「なんとなく」
「なんとなくで?」
「うん」
それ以上は言えなかった。
佐倉はまだ何か言いたそうだったけれど、予鈴が鳴った。
僕は教室へ戻った。
席に座ると、さっきの男子たちがこちらを見て、何かを笑っていた。
たぶん、また変なやつだと言っている。
僕は窓の外を見た。
校庭の端で、蟻たちはまだ動いていた。
助けたわけじゃない。
きっと、何匹かは死んだ。
巣も壊れた。
元には戻らない。
それでも、僕は何もできなかったわけじゃない。
いや。
本当は、何もできていないのかもしれない。
死ぬものは死ぬ。
僕が止めても、止めなくても、どこかで何かは死んでいる。
虫も、魚も、鳥も、犬も、猫も、人間でさえも。
そして夜になると、そのどれかが僕の中へ入ってくる。
逃げても、避けても、眠ればまた死ぬ。
僕の毎日は、出口のない場所を歩いているみたいだった。




