プロローグ2
朝ごはんには、焼いたウインナーと卵が出ていた。
僕は席に座ったまま、しばらく皿を見ていた。
ウインナーの皮が、少し裂けている。
そこから油がにじんでいた。
それを見た瞬間、さっきの夢が戻ってきた。
雨に濡れた道路。
赤黒く広がっていくもの。
腹の中にあるはずだったものが、外にこぼれていく感触。
僕は箸を持ったまま、手を止めた。
「耀、早く食べなさい。遅刻するわよ」
母さんが台所から言った。
僕は「うん」とだけ答えた。
食べたくなかった。
朝から自分が死ぬ夢を見たあとに、何かを口に入れるのは、あまり気分のいいものじゃない。
たとえそれがいつもの朝ごはんでも、目の前の食べ物が、さっき見た死体と少しでも似ていると、体が勝手に拒む。
でも、食べないわけにはいかなかった。
僕の体は生きている。
生きている体は、何かを食べないと動かない。
それが、何かの死んだあとの形だったとしても。
僕はウインナーを小さく切った。
断面を見ないようにして、口に入れる。
噛むと、皮が歯の間でぷつんと切れた。
味はよく分からなかった。
向かいの席では、姉さんがトーストをかじっていた。
姉さんの名前は、響。
高校の制服を着て、片手でスマホをいじりながら、もう片方の手で牛乳のコップを持っている。
「耀、今日も顔色悪いね」
姉さんが、画面から目を離さないまま言った。
「そう?」
「そう。朝から死人みたいな顔してる」
死人。
その言葉に、僕は少しだけ箸を止めた。
姉さんに悪気はない。
ただ見たままを言っているだけだ。
たぶん、僕は本当にそういう顔をしているんだと思う。
隣では、小学三年生の妹が卵を箸でつついていた。
「お兄ちゃん、また怖い夢見たの?」
妹が言った。
食卓の空気が、ほんの少しだけ止まった。
母さんの手も、台所で一瞬だけ止まった気がした。
姉さんはスマホから顔を上げて、桜をちらっと見た。
父さんは新聞をめくる手を止めなかった。
僕は卵を見ながら答えた。
「別に」
「でも、顔こわいよ」
「元から、こんな顔」
僕がそう言うと、妹は少し笑った。
姉さんも鼻で笑った。
母さんだけは笑わなかった。
「ほら、早く食べなさい。遅刻するわよ」
母さんはさっきと同じことを言った。
それで話は終わった。
いつもそうだった。
僕の夢の話は、この家では長く続かない。
僕は、毎晩のように死ぬ。
もちろん、本当に僕の体が死ぬわけじゃない。
朝になれば、こうして起きる。
首もつながっているし、腹も裂けていない。
目も、ちゃんと顔についている。
でも、夢の中では違う。
僕は猫にもなる。
魚にもなる。
虫にもなる。
鳥にもなる。
知らない誰かになることもある。
刺される。
潰される。
溺れる。
焼かれる。
切られる。
踏まれる。
食べられる。
死に方は、その日によって違う。
小さいころは、それを普通に話していた。
昨日は猫になって車に轢かれた。
今日は魚になって包丁で切られた。
虫になって、人間の手で潰された。
そう言うと、最初のうちは母さんも父さんも心配してくれた。
怖い夢を見たんだね、と言われた。
病院にも連れていかれた。
先生の前で、どんな夢を見るのか、どれくらい怖いのか、眠れているのか、何度も聞かれた。
僕は聞かれた通りに答えた。
でも、話せば話すほど、大人たちの顔は変わっていった。
母さんは困ったように笑うようになった。
父さんは黙ることが増えた。
先生は優しい声で話していたけれど、目だけは少し違っていた。
学校でも同じだった。
夢の話をすると、最初はみんな笑った。
変な夢だな、と言われた。
でも、僕が何度も死ぬ夢の話をすると、そのうち誰も笑わなくなった。
気味悪い。
誰かがそう言った。
それから僕は、夢の話をやめた。
どうせ言っても誰も分からない。
言えば変な顔をされる。
説明しても気味悪がられるだけ。
だったら最初から言わない。
どんな死に方をしても、朝になれば普通の顔をする。
何かあったのかと聞かれても、別に、と答える。
そうしているうちに、僕はあまり驚かない子供になった。
あまり笑わない子供。
あまり怒らない子供。
何を考えているのか分からない子供。
父さんは一度だけ、僕のことを「感情の起伏が少ない子だ」と言った。
たぶん、間違ってはいない。
姉さんは僕を、つまらない弟だと思っている。
母さんは僕を、少し扱いづらい息子だと思っている。
父さんは僕を、何を考えているか分からない子供だと思っている。
桜だけは、まだよく分かっていない。
だから時々、平気で聞いてくる。
「お兄ちゃん、また変な夢見たの?」
そのたびに、家の中の空気が少しだけ固まる。
僕はその空気が嫌いだった。
でも、桜が悪いわけじゃない。
桜はたぶん、本当に心配しているだけだ。
それは少しだけ、ありがたいと思う。
少しだけ。
だから、僕は桜に怒らない。
何も言わないだけだ。
何も感じていないわけじゃない。
感じても、どうせ言えないだけだ。
僕は卵を口に運んだ。
黄身が少し崩れて、皿の上に広がった。
それを見て、また道路の赤黒い跡を思い出した。
僕はなるべく何も考えないようにして、飲み込んだ。
「耀、今日、体育あるんでしょ?」
母さんが言った。
「うん」
「ちゃんと食べないと倒れるわよ」
「分かってる」
「ほんとに分かってる?」
姉さんが言った。
「耀、すぐ食べるの遅くなるじゃん」
「朝は眠いから」
「いつも眠そうだけど」
姉さんはそう言って、またスマホに目を戻した。
妹がランドセルの横で、給食袋を探しながら言った。
「お兄ちゃん、今日も死にそうな顔してる」
「縁起でもないこと言わないの」
母さんがすぐに注意した。
妹は「はーい」と返事をした。
僕は何も言わなかった。
死にそうな顔。
たぶん、それも間違っていない。
実際、僕はついさっきまで死んでいた。
ただ、それを言っても誰も笑わない。
誰も信じない。
母さんがまた困った顔をするだけだ。
僕はもう一切れウインナーを口に入れた。
分かっている。
生きているなら、食べなきゃいけない。
食べなきゃ、体が動かない。
体が動かなければ、学校にも行けない。
だから無理してでも食べる。
たとえ、朝からまた死んだあとでも。
僕は皿の上を見ないようにして、朝ごはんを飲み込んだ。




