プロローグ1
逃げていた。
四本の足で、雨上がりの道路を蹴っていた。
僕の足じゃない。
僕の体でもない。
でも、息が苦しいことだけは分かった。
胸の奥が熱くて、喉の奥がひゅうひゅう鳴っている。
背中の毛が逆立って、尻尾が勝手に丸まっていた。
後ろから、足音がする。
自分と同じ猫だった。
黒っぽくて、大きい。
路地裏で目が合った瞬間、低く唸られた。
そのまま近づかれて、僕は逃げた。
理由なんて、それだけで十分だった。
猫の体は軽い。
でも、思ったより自由には動かない。
濡れた地面で足が滑る。
狭い路地の壁に肩がぶつかる。
ゴミ袋の横をすり抜けたとき、腐ったようなにおいが鼻の奥に刺さった。
僕は前だけを見てひたすら走った。
後ろの猫の気配が、まだ近い。
だから、路地を抜けた先に大きな道路があると分かったときも、止まれなかった。
危ない。
そう思った。
でも、左右は見なかった。
次の瞬間、目の前が白くなった。
ライトだった。
低い音が近づいてくる。
濡れたアスファルトをタイヤが削る音がした。
体が勝手に止まろうとする。
でも、間に合わない。
腹のあたりに、硬くて重いものがぶつかった。
骨が折れた。
たぶん。
音がした気がしたけれど、それが本当に骨の音だったのか、道路に叩きつけられた音だったのかは分からなかった。
世界が一回、横に回った。
空。
電線。
街灯。
車の下側。
濡れた道路。
順番に見えた。
それから、何かに強く叩きつけられた。
胸が苦しい。
息ができなかった。
いや、息をするための体が、もうちゃんと残っていなかったのかもしれない。
車の音が遠ざかっていく。
誰かが短く声を上げる。
さっきまで追いかけてきていた猫の気配は、もうどこかへ消えていた。
僕は道路の上にいた。
動こうとした。
でも、足の感覚がなかった。
前足も、後ろ足も、どこにあるのか分からない。
腹の奥から、熱いものが流れていく感覚だけがあった。
ああ、これは駄目だな。
そう思った。
僕のみる夢は、いつも助からない。
そしてこの感じは、もう終わりだろう。
僕は自分の体を見た。
少し離れたところに、小さな猫の体が転がっていた。
腹が裂けていた。
中にあるはずのものが、外に出ていた。
赤黒いものが、雨水と混ざって、道路のくぼみにゆっくり広がっている。
見慣れている。
そう思った。
虫でも、魚でも、鳥でも、犬でも、人間でも。
死ぬときは、だいたい体のどこかが壊れる。
中にあるものが外に出ることもある。
形が変わることもある。
だから、驚きはしなかった。
ただ、気持ちの悪い感触だけが今日も残っていた。
自分のものではないはずなのに、腹の中が空になっていく感覚。
体の熱が、道路に吸われていく感覚。
雨水と一緒に、自分だったものが流れていく感覚。
それが、いつものように僕の中へ入ってくる。
よく見ると、体は思ったより遠くにあった。
じゃあ、今、僕はどこから見ているんだろう。
そう考えて、ようやく気づいた。
道路に転がっている体には、頭がなかった。
首のあたりで途切れている。
毛に覆われた小さな体だけが、雨に濡れたアスファルトの上に残っていた。
なるほど。
そう思った。
だから、足の感覚がないのか。
だから、息ができないのか。
だから、体が少し離れたところに見えるのか。
今、僕が見ている場所は、体から離れた首の先なのだと分かった。
視界の片側が、変にぼやけている。
道路の冷たさが、頬のあたりに直接触れている。
口の中には、血と雨水が混ざったような味がした。
まばたきをしようとしても、うまくできなかった。視界も紅く濁っている。
たぶん、片方の目はもう駄目になっている。
そこまで分かって、やっと納得した。
首から上だけが、体と離れていた。
それか今の、僕だった。
納得したところで、だんだん音が遠くなっていった。
車の音。
人の声。
雨水が流れる音。
街灯の下で、何かが小さく跳ねる音。
全部が、厚い布の向こう側にあるみたいにぼやけていく。
視界も暗くなっていった。
最後まで見えていたのは、道路に広がる赤黒い跡だった。
あれが僕だったものだ。
そう思った。
そして、意識が沈んだ。
目が覚めた。
白い天井が見えた。
僕の部屋の天井だった。
僕はしばらく動かなかった。
首はつながっている。
腹も裂けていない。
目も、ちゃんとある。
確認しなくても分かっていたけれど、一応、指で首に触った。
次に腹を触った。
布団の中で足を少し動かした。
全部、僕のものだった。
でも、体の奥にはまだ残っている。
車にぶつかったときの重さ。
道路に叩きつけられた冷たさ。
腹の中身が外にこぼれていく感触。
少し離れたところから、自分の体を見ていた変な感じ。
またか。
左右はちゃんと確認しろよ……
僕は天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
今日もまた、死んだ。




