第6話 出荷
腹が減っていた。
最初に思ったのは、それだった。
ひどく腹が減っている。
胃の中が空っぽで、体の奥から何かを求めている。
何でもいい。
口に入るものなら何でもいい。
噛めるものなら、飲み込めるものなら、今すぐ食べたかった。
魚だと思っていた。
眠る前、夕飯に出た魚の骨が頭に残っていたからだ。
焼けた皮。
崩れた身。
細い骨。
だから、今夜は魚になるのかもしれないと思っていた。
でも違った。
水の中ではなかった。
空気がある。
床がある。
体が重い。
そして、臭いがした。
獣の臭い。
汗の臭い。
汚れた床の臭い。
何匹もの生き物が、狭い場所に押し込められている臭い。
体が動いている感覚はあった。
でも、それは僕が動かしているわけではない。
この体は、この生き物のものだった。
僕はその中で、見ているだけだ。
感じているだけだ。
同じ感覚を、同じ場所から受け取っているだけだった。
ただ、この体自身も、思うようには動けていなかった。
具合が悪いわけではない。
体が壊れているわけでもない。
狭すぎるのだ。
右にも左にも、別の体がある。
前へ進もうとしても、鼻先が何かにぶつかる。
後ろへ下がろうとしても、別の体に押される。
この体は生きている。
意識もある。
でも、自由には動けない。
僕は、その窮屈さまで一緒に感じていた。
低かった。
人間の体より、ずっと低い。
でも、虫や猫とは比べものにならないくらい大きい。
重いというより、ぎっしりしている。
肉と骨と腹の重さが、床の近くに固まっている。
その体が、狭い場所に押し込められていた。
足がある。
四本。
太くて、短くて、重い足。
周りを見る。
豚がいた。
一匹ではない。
右にも左にも、前にも後ろにも、豚がいた。
同じような体。
同じような鼻。
同じような目。
同じように荒い息。
僕も、その中の一匹だった。
豚。
そう理解した瞬間、腹の底が冷たくなった。
夢の中で何になるのかは、いつも途中で分かる。
猫。
虫。
魚。
鳥。
でも、分かったところで何かが変わるわけじゃない。
僕はその生き物になる。
その生き物の体で感じる。
その生き物が死ぬまで、そこにいる。
それだけだ。
豚の体は、ひどく空腹だった。
周りの豚たちも落ち着きがない。
鼻を鳴らしている。
体をぶつけている。
狭い場所の中で、何度も向きを変えようとしている。
何かを探しているのかもしれない。
食べ物。
たぶん、そうだ。
でも、食べるものはどこにもなかった。
床にもない。
壁にもない。
他の豚の体にも、食べ物になるようなものはない。
あるのは、臭いと、熱と、息苦しさだけだった。
どうしてこんなに腹が減っているのか。
少し考えて、嫌なことに気づいた。
これから食肉になるからだ。
体の中に余計なものが残らないように。
運ぶ前に、食べ物を与えられていないのかもしれない。
本当かどうかは分からない。
でも、そう考えると、妙に納得できた。
また、いらない知識が増えた。
豚の体は腹を空かせたまま、どこかへ運ばれていた。
揺れている。
床が小さく振動している。
壁の向こうから、低い音がする。
車の中だと思った。
どこかへ向かっている。
どこへ向かっているのかは、考えたくなかった。
でも、考えなくても分かる。
食肉処理場。
その言葉が頭に浮かんだ。
僕は何もしていない。
この豚も、たぶん何もしていない。
ただ生まれて、食べて、太って、ここへ運ばれている。
食べられるために。
それだけのために。
周りの豚が鳴いた。
高くて、短い声だった。
何かを怖がっているのか。
ただ腹が減っているだけなのか。
暑いのか。
苦しいのか。
僕には分からなかった。
分からないのに、その体の中にある焦りだけは伝わってくる。
狭い。
臭い。
腹が減った。
出たい。
食べたい。
苦しい。
言葉ではない。
でも、体の全部がそう言っていた。
やがて、車が止まった。
揺れが消える。
周りの豚たちが、いっせいにざわついた。
音がした。
金属が開く音。
人間の足音。
低い声。
光が差し込んだ。
豚の体が前へ押される。
後ろから別の豚がぶつかってくる。
横からも押される。
止まりたくても止まれない。
豚は流れに押されるようにして、外へ出た。
僕はその中で、ただ見ていた。
そこは、思っていたより綺麗だった。
白い壁。
濡れた床。
明るい照明。
汚い場所ではなかった。
それが逆に嫌だった。
命が終わる場所なのに、妙に清潔だった。
血の色が、まだ見えない。
でも、見えないだけだった。
この先にあるのは、たぶんそれだ。
豚たちは、一か所に集められた。
逃げる場所はない。
柵。
壁。
人間。
どこを見ても、出口はなかった。
体が震えている。
僕が震えているのではない。
この豚が震えている。
でも、その震えは僕の中にも伝わってきた。
人間が近づいてきた。
手に何かを持っている。
それが何なのか、考えるより先に、体に衝撃が走った。
電気。
そう思った。
体の中を、強いものが突き抜けた。
足が崩れる。
視界がぶれる。
筋肉が勝手に跳ねる。
痛い。
熱いのか、冷たいのか分からない痛みだった。
次の瞬間、この豚の意識が落ちた。
暗くなる。
でも、僕は消えなかった。
あれ。
そう思った。
この豚は気絶している。
たぶん、もう何も分かっていない。
痛みも、音も、光も、遠くなっているのかもしれない。
でも、僕は違った。
僕だけは、まだここにいた。
床の冷たさがある。
体の重さがある。
筋肉のしびれがある。
息の浅さがある。
この豚は、まだ死んでいない。
息をしている。
心臓も、たぶん動いている。
だから、僕は離れられない。
死ぬまで。
この体の息が完全に止まるまで。
僕は、ここにいなければならない。
正直、気絶できる方がましだと思った。
この豚は、もう意識がない。
何も知らないまま終わるのかもしれない。
でも、僕は気絶できない。
最後まで見ている。
最後まで感じている。
この体が死ぬところまで、ずっと一緒にいなければならない。
それが、一番きつかった。
周りから音がした。
豚が一匹ずつ運ばれていく。
声は少なかった。
さっきまで鳴いていた豚たちが、今はあまり鳴かない。
気絶しているからだ。
動かない体が運ばれていく。
その先で、何かが起きている。
水の音。
金属の音。
人の声。
床に流れる液体の音。
見たくなかった。
でも、少しだけ見えてしまう。
首元。
刃物。
赤いもの。
血を抜かれている。
そう理解した。
食肉にするために。
生き物だったものを、食べ物に変えるために。
一匹。
また一匹。
豚が運ばれていく。
同じような体。
同じような重さ。
同じような温かさ。
みんな、順番に終わっていく。
この豚の番も来る。
分かっていた。
分かっていても、嫌だった。
痛みには慣れている。
轢かれたこともある。
潰されたこともある。
食われたこともある。
溺れたこともある。
でも、慣れているから平気なわけじゃない。
嫌なものは嫌だ。
何度死んでも、死ぬ前は嫌だ。
人間が近づいてきた。
豚の体が動かされた。
しびれた足が床をこする。
体は重い。
意識のない体が、ただ運ばれていく。
僕はその感覚を、内側から受け取っていた。
床の冷たさ。
筋肉のしびれ。
首元に近づいてくる気配。
何もできない。
これは過去だ。
もう終わった命の記録だ。
僕がいるように感じても、僕はそこにいない。
ただ、最後を見ているだけだ。
体が固定される。
首元に、冷たいものが触れた。
刃物だと思った。
次の瞬間、熱いものが外へ出た。
血。
大量の血が、体から抜けていく。
痛い。
でも、それ以上に苦しかった。
力が抜ける。
体の中が空になっていく。
腹が減っていたはずなのに、今はもう何かを食べたいとも思わない。
ただ、遠くなる。
床の冷たさ。
人間の声。
水の音。
隣の豚の重さ。
白い壁。
全部が少しずつ遠くなっていく。
血が流れている。
自分の中にあったものが、どんどん外へ出ていく。
この体はまだ生きている。
でも、もう戻らない。
戻る場所がない。
周りでは、同じことが続いていた。
一匹。
また一匹。
豚たちが終わっていく。
命だったものが、順番に処理されていく。
そこに怒りはなかった。
憎しみもなかった。
人間たちは、ただ機械的な作業をしている。
手順通りに。
慣れた動きで。
決まった仕事として。
それが一番嫌だった。
誰も、僕を殺そうとしている顔をしていない。
ただ、豚肉を作っている。
この体は、食べ物になる途中だった。
体が重い。
さっきまであれほど腹が減っていたのに、今はもう何もいらなかった。
眠い。
眠いと思った。
血が抜けていくたびに、意識が薄くなる。
痛みも、しびれも、遠くなる。
このまま消える。
そう思った。
体は、もう動かなかった。
この豚の体が。
その感覚を最後に、視界が暗くなった。
白い部屋も。
血の色も。
人間の声も。
全部、遠くへ沈んでいった。
目が覚めた。
白い天井が見えた。
僕の部屋だった。
人間の体に戻っていた。
四本足ではない。
蹄もない。
鼻も、豚のものではない。
でも、体の奥にまだしびれが残っている気がした。
首元に手を当てる。
切れていない。
血も出ていない。
分かっている。
分かっているのに、確認せずにはいられなかった。
腹が減っていた。
気持ち悪い。
何も食べたくない。
それなのに、腹だけは空っぽだった。
あの豚の空腹が、まだ体のどこかに残っているみたいだった。
食べたくないのに、腹が減っている。
食べ物のことなんて考えたくないのに、体の奥が何かを欲しがっている。
それが、余計に気持ち悪かった。
あの豚は、たぶんもうどこにもいない。
既に食肉になったのかもしれない。
誰かに食べられたのかもしれない。
僕は、その最後をあとから見せられただけだ。
何もできない。
気絶することもできず、ただ息が止まるまで一緒にいる。
それだけだった。
僕は天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
今日の朝ごはんに、ベーコンなんか出ませんように。
今日もまた、最悪な朝だった。




