第7話 出荷の朝
悪い予感は当たった。
朝ごはんは、ベーコンエッグだった。
食卓についた僕は、皿の上をしばらく見た。
焼かれて少し縮んだ薄い肉。端には焼き色がついて、脂が光っている。その横には目玉焼きが乗っていた。
普段なら何とも思わない。
母さんがよく作る、普通の朝ごはんだ。
でも、今日は無理だった。
ベーコンを見た瞬間、昨夜の夢が戻ってきた。
白い壁。
濡れた床。
何匹もの豚の臭い。
体を突き抜けた電気。
首元に触れた冷たいもの。
そこから一気に血が抜けていく感覚。
そして、最後まで残っていたひどい空腹。
目の前のベーコンを見る。
これも、豚だった。
一瞬、もしかしてこのベーコンが昨夜の豚なんじゃないかと思った。
でも、すぐに違うと思い直す。
前に学校のタブレットで調べたことがある。
牛肉はしばらく熟成させることがあるけれど、豚肉はそれより早く流通することが多い。それでも、ベーコンは肉になってからさらに加工される。
だったら、三日くらい前に死んだ豚が、もう今朝うちの食卓にベーコンとして出てくるとは考えにくい。
たぶん、これは違う豚だ。
僕が見る夢は、死んだ直後のものではない。
あとから確かめられたものでは、だいたい死んでから三日くらい経っていることが多かった。
いつもきっちり三日というわけじゃない。
どうしてそれくらい遅れて夢に出てくるのかも分からないし、そもそも僕が見る夢には分からないことの方が多い。
どこで死んだものを見るのか。
どうしてその生き物なのか。
何を基準に選ばれているのか。
昨夜の豚だって、あそこで死んだのは一匹だけじゃなかった。
同じ場所で何匹も運ばれて、同じように死んでいた。
それなのに、僕が見たのはあの一匹だった。
何か違いがあったんだろうか。
夢の中で一番強かったのは、ずっと腹が減っていたことだった。
食べたい。
外へ出たい。
苦しい。
怖い。
言葉でそう考えていたわけじゃない。
でも、体の中にはずっとそういうものがあった。
最後には食べ物のことなんて考えられなくなっていたけれど、それでも体は死ぬ直前まで生きていた。
もしかしたら、腹が減ったという感覚も、ここから出たいという焦りも、まだ生きたいというものも。
そういうものが強く残っていたから、僕はあの豚を見たんだろうか。
本当のところは分からない。
分かっているのは、今まで確認できた夢が、だいたい三日前の死だったということくらいだ。
別に、詳しく知りたいとも思わなかった。
どんな基準で僕のところに死が来るのかなんて、分からないままでいい。
できることなら、夢そのものを見なくなる方がよかった。
僕はもう一度、ベーコンを見る。
これが昨夜の豚ではないとして。
じゃあ、あの豚は今どこにあるんだろう。
もう豚肉になって、どこかの店に並んでいるのかもしれない。誰かの家の冷蔵庫にあるのかもしれない。まだどこかへ運ばれている途中なのかもしれない。
その辺は、僕には分からない。
ただ、もう生きた豚ではない。
今頃はどこかで、食べ物になっているのかもしれない。
そう思っただけで、さっきより喉が狭くなった。
腹は減っている。
昨夜の豚の空腹が、まだ残っているような気さえする。
なのに、ベーコンだけは食べたくなかった。
自分を食べるみたいだった。
「いただきます」
桜が元気に言った。
父さんも母さんも姉さんも、いつも通り朝ごはんを食べ始める。
僕以外にとっては、普通の朝だった。
僕は茶碗を持って、白いご飯を口に入れた。
これは食べられる。
噛んで、飲み込む。
味噌汁も少し飲んだ。
でも、ベーコンには箸を伸ばせなかった。
「耀」
姉さんが僕の皿を見る。
「さっきからご飯しか食べてなくない?」
「うん」
「ベーコンいらないの?」
「今日はいい」
「具合悪い?」
「別に」
姉さんは少し僕を見たけれど、それ以上は聞かなかった。
説明したところで仕方ない。
昨日の夜、豚になった。
腹を空かせたまま運ばれて、電気で気絶させられて、首を切られて、血を抜かれた。
しかも豚自身の意識がなくなったあとも、僕だけは最後まで残っていた。
だから今朝はベーコンを食べられない。
そんな話を朝食の席でしたところで、誰も困るだけだ。
「食べないなら、もらっていい?」
姉さんが聞いた。
「いいよ」
僕が皿を少し押すと、桜もすぐに反応した。
「私も欲しい」
「じゃあ半分ね」
姉さんがベーコンを分ける。
桜は嬉しそうに受け取った。
「ベーコン好き」
「知ってる」
桜は何の迷いもなく口へ入れた。姉さんも普通に食べている。
僕は二人を見ながら、昨夜のことを思い出していた。
二人は知らない。
豚がどうやってここまで来たのか。
どれだけ腹が減っていたのか。
狭い場所に押し込められていたことも、電気を流されたことも、血が抜けていった時の感覚も。
知らないまま食べている。
でも、それは当たり前だった。
僕だって昨日までは同じだ。
豚肉が豚からできていることくらい知っているし、食肉処理場という場所があることだって知っていた。
でも、知識として知っているのと、その体の中にいるのは全然違う。
だからといって、姉さんや桜に同じものを知ってほしいとも思わなかった。
特に桜には、知らなくていいと思った。
僕はご飯をもう一口食べる。
「お兄ちゃん」
桜が僕を見る。
「何?」
「今日はご飯食べてるね」
「食べてるよ」
「昨日より元気?」
「たぶん」
「たぶんじゃ分かんないよ」
桜が少し真面目な顔になった。
「おかずも食べないと駄目だよ」
「ご飯と味噌汁食べてるから大丈夫」
「卵もあるよ」
「今日はいい」
「ほんとに?」
「うん」
まだ少し疑っているようだった。
桜は昔から、僕の顔色や食べ方をよく見ている。
夢の内容は知らない。
僕が時々怖い夢を見ることくらいしか知らなかった。
父さんも母さんも姉さんも、昔はもっと聞いてきた。
どんな夢だったのか。
大丈夫なのか。
病院へ行った方がいいんじゃないか。
実際、何度か病院にも連れていかれた。
でも、何も見つからなかった。
それでも僕が毎日のように、食べられたとか、潰されたとか、死んだとかいう話をするものだから、少しずつみんなの顔が変わっていった。
心配しているというより、困っているような顔。
どう返せばいいのか分からないような顔。
だから僕も、いつからか夢のことを話さなくなった。
今では、向こうから聞かれることもほとんどない。
桜だけは違う。
夢について詳しく聞くわけじゃないけれど、僕が食べていなかったり、眠そうにしていたりすると、今でも普通に心配してくる。
僕は桜の頭に軽く手を置いた。
「大丈夫だよ」
桜がきょとんとする。
「何?」
「別に」
「急に頭触ったじゃん」
「触っただけ」
「変なの」
そう言いながら、桜は少し笑った。
僕も手を離す。
桜には、これくらいでいてほしかった。
僕の夢の中身なんて知らなくていい。
朝ごはんにベーコンが出れば喜んで食べて、僕が少し変なら「大丈夫?」と聞く。
そのくらいでいい。
姉さんがこっちを見ていた。
「何?」
僕が聞くと、姉さんは目を逸らした。
「別に」
「何それ」
「耀が言う?」
それは少しだけ面白かった。
僕は残っていたご飯を食べ、味噌汁を飲んだ。
ベーコンは姉さんと桜が食べた。
目玉焼きは少し迷ったけれど、結局半分くらい食べた。
卵まで豚とは関係ない。
分かっていても、今日は食欲そのものがあまりなかった。
「ごちそうさま」
茶碗を置くと、母さんが僕の皿を見た。
「耀、もういいの?」
「うん」
「学校でお腹空かない?」
「給食あるから」
「ちゃんと食べなさいよ」
「分かってる」
父さんも新聞の向こうから言った。
「無理はするなよ」
「うん」
僕は席を立って、鞄を取りに行った。
◆ ◆ ◆
玄関で靴を履いていると、後ろから桜の声がした。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい」
「いってきます」
振り返ると、桜はまだ朝ごはんを食べている。姉さんはスマホを見ていて、母さんは食器を片づけ始め、父さんは新聞を読んでいた。
いつもの朝だった。
僕の中にだけ、昨夜の豚が残っている。
空腹。
体の重さ。
電気の痛み。
首元の冷たさ。
血が抜けていく感覚。
それを誰かに話すつもりはなかった。
話したところで、昨夜の豚が生き返るわけでもない。
僕自身が楽になるとも、この時はまだ思っていなかった。
玄関の扉を開けると、外の空気が入ってきた。
食卓に残っていたベーコンの匂いより、ずっとましだった。
僕は家を出た。
昨夜、豚として死んだことを誰にも言わないまま、いつも通り学校へ向かった。




