第7話 出荷の朝
最悪なことに、朝ごはんはベーコンエッグだった。
皿の上に、焼かれたベーコンが乗っている。
薄い肉。
少し縮んだ脂。
端の方は、焼けてかたくなっていた。
その横に、卵がある。
いつもなら、別に何も思わない。
朝ごはんとしては普通だ。
母さんがよく作るものの一つだ。
でも、今日は無理だった。
ベーコンを見た瞬間、喉の奥がつまった。
昨日の夜の夢が戻ってくる。
白い部屋。
濡れた床。
豚の臭い。
電気が体を突き抜ける感覚。
首元に触れた冷たいもの。
体の中から血が抜けていく感覚。
そして、目が覚める前の、あの空腹。
食べたい。
何でもいいから食べたい。
そう思っていた感覚だけが、まだ体の奥に残っていた。
なのに、目の前にある肉を見た瞬間、その食欲は消えた。
もしかして、昨日の夢の原因はこれだったのかもしれない。
この皿の上にあるもの。
この薄い肉になる前のもの。
昨日の夜、僕はそれを見せられていたのかもしれない。
腹は減っている。
でも、食べたいとは思えなかった。
自分を食べるみたいだと思った。
もちろん、これは僕じゃない。
僕の体じゃない。
でも、昨日の夜、僕は豚だった。
あの体の中にいた。
腹を空かせて、狭い場所に押し込められて、最後まで一緒にいた。
それが今、皿の上にあるのかもしれない。
結局、昨日の夜のあれは、こうなってしまったのかもしれない。
そう思った。
「いただきます」
桜が元気に言った。
姉さんも、片手でスマホを見ながら箸を持っている。
父さんは新聞を広げていた。
母さんは台所から味噌汁を持ってくる。
普通の朝だった。
僕以外にとっては。
僕は茶碗を持った。
白いご飯だけを口に入れる。
噛む。
飲み込む。
腹は減っていた。
昨日の夢の中で、豚の体はずっと空腹だった。
目が覚めても、その感覚が少し残っている。
腹の奥が空っぽだった。
だから、ご飯は食べられた。
白い米なら、まだいける。
でも、ベーコンは無理だった。
肉の端に浮いた脂を見るだけで、昨日の白い部屋を思い出す。
この薄い肉になる前に、あの体は生きていた。
腹を空かせていた。
狭い場所に押し込められていた。
電気で倒されていた。
血を抜かれていた。
そんなことを考えたら、胸の奥がいっぱいになって、とても食べられなかった。
僕はご飯だけを食べ続けた。
味噌汁も少し飲む。
おかずには手をつけない。
うちは、朝はだいたい和食が多い。
ご飯。
味噌汁。
卵。
魚。
漬物。
焼いた肉が少し。
パンやパスタみたいなものは、ほとんど出ない。
特に朝はそうだ。
姉さんはたまに文句を言う。
「たまにはパンがいい」
「朝からご飯重い」
「カフェっぽい朝食とか出ないの」
そんなことを言っている。
でも、父さんが朝はご飯派だから、うちはだいたいこうなっている。
僕はどちらでもよかった。
食べられる日なら、何でもいい。
食べられない日は、何が出ても同じだ。
今日は、食べられない日だった。
「耀」
姉さんが僕を見た。
「何?」
「今日、変じゃない?」
「いつもでしょ」
「そうじゃなくて」
姉さんは僕の皿を見る。
「ご飯ばっか食べてる。おかず食べないの?」
「いらない」
「昨日もあんまり食べてなかったよね」
「うん」
「具合悪いの?」
「別に」
別に、ではなかった。
でも、説明できることでもなかった。
昨日の夜、豚になって食肉処理場に運ばれた。
電気で倒されて、首を切られて、血を抜かれた。
そのあと目が覚めたら、朝ごはんにベーコンが出てきた。
そんなことを言っても、誰も分からない。
分からないだけならまだいい。
変な顔をされる。
だから言わない。
「食べないなら、もらっていい?」
姉さんがベーコンを指さした。
僕は皿を少し押した。
「いい」
姉さんは少し訝しそうな顔をした。
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、もらうけど」
姉さんが箸を伸ばした。
すると、桜がすぐに反応した。
「私も欲しい」
「桜も?」
「うん。ベーコン好き」
「じゃあ半分こね」
姉さんはそう言って、僕の皿のベーコンを桜の小皿にも分けた。
桜は嬉しそうに笑った。
姉さんも、何でもない顔で食べている。
二人は仲が悪くない。
こういうときだけは、少し仲良さそうに見える。
僕はそれを見ていた。
お前らは知らない。
そのベーコンになるまでに、どれだけ苦しかったか。
どれだけ腹が減っていたか。
どれだけ狭かったか。
どれだけ怖かったか。
どれだけ電気が痛かったか。
どれだけ血が抜かれるのが苦しかったか。
知らない。
知らなくていい顔で、普通に食べている。
でも、それは当たり前だ。
僕だって、昨日までは知らなかった。
豚肉がどうやって食卓に来るのか、知識としては知っていたかもしれない。
でも、知っているのと、そこにいるのは違う。
あの体の中で腹を空かせていたこととは、全然違う。
僕がそれを言ったところで、誰も納得しない。
たぶん、母さんは困る。
父さんは「そういうことを言うな」と言う。
姉さんは気持ち悪いと言う。
桜は、たぶん泣くかもしれない。
だから、僕は何も言わなかった。
ご飯をもう一口食べる。
腹は減っている。
でも、豚肉は食べたくない。
変な感じだった。
空腹なのに、食べ物を選んでいる。
「お兄ちゃん」
桜が僕を見る。
「何」
「今日、ご飯は食べてるね」
「うん」
「昨日より元気?」
「たぶん」
「たぶんじゃ分かんないよ」
桜は少し真面目な顔をした。
「おかずも食べないと大きくなれないよ」
「もういい」
「よくないよ」
「そう」
「そう、じゃないよ」
桜は少し怒ったように言った。
その顔を見て、僕は少しだけ息を吐いた。
桜はいつもそうだ。
理由は分かっていない。
僕が何を見たのかも知らない。
どうして食べられないのかも知らない。
それでも、心配してくる。
この家で、僕に理由を聞こうとするのは、たぶん桜くらいだ。
母さんは心配する。
父さんは正しいことを言う。
姉さんは変だと言う。
でも、どうしてそうなったのかまでは、あまり聞いてこない。
聞いたところで、答えられないと分かっているからかもしれない。
昔、何度も聞いて、変な話ばかり返ってきたからかもしれない。
もう、聞くのをやめたのかもしれない。
桜だけは、まだやめていない。
それが少しだけ、不思議だった。
僕は桜の頭に軽く手を置いた。
「大丈夫」
桜の髪は、朝の光で少し明るく見えた。
桜は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「ほんと?」
「うん」
「ならいいけど」
桜はベーコンを小さく切って、口に入れた。
うまそうに食べている。
それを見ても、今日は嫌な気持ちにはならなかった。
いや、少しはなった。
でも、桜が悪いわけではない。
姉さんがこちらを見ていた。
「何」
僕が聞くと、姉さんは少し眉を寄せた。
「いや、別に」
その顔は、いつもと少し違った。
僕が桜の頭を撫でたのが、珍しかったのかもしれない。
うちの家族は、僕が少し変わったことをすると、すぐに反応する。
いつもあまり笑わない。
あまり怒らない。
あまり話さない。
だから、少し違うことをするだけで、変に見られる。
でも、どうしてそうなったのかまでは聞かれない。
それがこの家の普通だった。
僕は残りのご飯をかき込んだ。
味噌汁を飲む。
ベーコンエッグには、最後まで手をつけなかった。
姉さんと桜が分けて食べたから、皿の上には卵だけが少し残っていた。
それも、今日はいらなかった。
「ごちそうさま」
僕は茶碗を置いて、席を立った。
母さんが皿を見る。
「耀、卵も食べないの?」
「いらない」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
またそう答えた。
大丈夫じゃないときほど、僕はそう言う。
母さんは何か言いたそうにしたけど、それ以上は言わなかった。
父さんは新聞の向こうから言った。
「学校で倒れるなよ」
「うん」
「腹が減ったら、ちゃんと給食は食べろ」
「分かってる」
分かっている。
でも、食べられるかどうかは別だ。
僕は鞄を持って、玄関へ向かった。
靴を履く。
桜が食卓から声をかけてきた。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい」
「うん」
少しだけ振り返る。
桜はまだ僕を見ていた。
姉さんはスマホに目を戻している。
母さんは食器を片づけている。
父さんは新聞を読んでいる。
普通の朝。
でも、僕の中にはまだ、昨日の豚が残っていた。
腹の減り方。
体の重さ。
電気の痛み。
首元の感触。
血が抜けていく眠さ。
学校にも、僕のことを分かる人間はいない。
誰にも言えない。
言っても分からない。
分かってもらえると思う方がおかしい。
そう思う。
でも、桜だけは、何も知らないまま心配してくれる。
それが少しだけ、特別なものに思えた。
僕は玄関の扉を開けた。
外の空気が入ってくる。
朝の匂いだった。
食卓の匂いよりはましだった。
僕は家を出た。
今日も普通の顔をして、学校へ向かう。
昨日の夜、豚として死んだことを、誰にも言わないまま。




