第8話 ギリギリ登校
学校には、いつもより少し早く着いた。
朝ごはんを食べるのに時間がかからなかったからだ。ご飯だけをかき込んで、ベーコンエッグにはほとんど手をつけなかった。
それで家を出た。だから、教室にはまだ人が少なかった。
僕は自分の席に座って、鞄を机の横にかけた。窓の外では、朝の校庭が明るかった。
何人かの生徒が歩いている。部活の朝練をしている生徒もいる。
外に出ようとは思わなかった。
朝から校庭に出て、虫や鳥や何かの死に近づきたくない。
見なければいい。近づかなければいい。
そう思っている。
それでも、夜になれば僕は何かの死を見る。だったら、外に出ても出なくても同じなのかもしれない。
でも、自分から死に近づきたいわけじゃない。
机に頬杖をついて、昨日の夢のことを考えた。
電気が体を突き抜ける感覚。
首元に触れた冷たいもの。
血が抜けていく眠さ。
思い出すと、体の奥がまだしびれる気がした。
でも、よく考えると、あれはそこまでひどい夢ではなかったのかもしれない。そう思おうとした。
虫になって腐ったものを食べた夢よりは、まだましだった。少なくとも、腐ったものをうまいと思わされることはなかった。
鳥に飲み込まれたときとは、また違う嫌さだった。
今回は、人間の食べるものになる夢だった。ただ殺されるのではなく、最初から食べ物になるために運ばれていた。
それが、嫌だった。
でも、昨日の夢で一番嫌だったのは、痛みだけではなかった。
気絶できなかったことだ。
あの豚の意識は、電気で落ちていた。たぶん、もう何も分かっていなかった。
痛みも、音も、光も、遠くなっていたのかもしれない。
でも、僕だけは最後まで残っていた。
息が止まるまで。
血が抜けて、体が動かなくなるまで。
僕だけが、ずっと見ていた。
ずっと感じていた。
それが一番きつかった。
あれは何だったのだろう。
死んだものの記憶を見るだけなら、死ぬ瞬間だけでいいはずだ。でも、昨日の夢は違った。
腹を空かせて運ばれるところから。
狭い場所で震えているところから。
電気で倒されるところから。
まだ息をしているところまで。
全部、見せられた。
死ぬ前から、死ぬ瞬間まで。
そこに残ったものが、あとから僕の中に流れ込んできた。そんな感じだった。
考えたところで分からない。分からないことばかりだ。
僕はどうして夢を見るのか。どういう死が、僕の中に入ってくるのか。
距離なのか。
においなのか。
近くにある死なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
知りたい気持ちは少しある。でも、知るために死に近づきたいわけではない。
虫を見に行く。動物の死骸を探す。
事故があった場所へ行く。
そんなことをすれば、何か分かるのかもしれない。でも、分かったところで、その夜にまた死ぬかもしれない。
だったら、知らないままでいい。
知りたくない。
知りたい。
その二つが、ずっと頭の中でぶつかっていた。
予鈴が鳴る少し前だった。
教室の扉が勢いよく開いた。
「セーフ!」
小林健太が入ってきた。同じクラスの男子だ。
いつも声が大きい。いつも動きが雑だ。
そして、いつもだいたいギリギリに来る。今日もそうだった。
遅刻ではない。でも、早くもない。
小林はなぜか少し得意そうな顔をしていた。
「今日も間に合った」
別に誰も聞いていない。でも小林は、そう言いながら鞄を机の横に投げるように置いた。
お前はいつも元気だな。
僕は心の中でそう思った。
朝からそんなに大きい声を出して、疲れないのだろうか。それに、なぜ毎回そんなギリギリに来るのか。
間に合うか間に合わないかを楽しんでいるのかもしれない。僕にはよく分からなかった。
小林は席に座る前に、僕の方を見た。
「宍戸、今日も早いな」
「うん」
「毎朝そんな早く来て何してんの?」
「別に」
「出た、別に」
小林は少し笑った。
それから、僕の顔を見て言った。
「相変わらず陰気くさいな、お前」
だったら話しかけるな。
そう思った。
でも、口には出さなかった。
「そう」
僕が答えると、小林は少し呆れたような顔をした。
「そう、じゃねえよ。反応うす」
「うん」
「うん、でもねえし」
小林は何か言いたそうにしていたけど、先生が教室に入ってきたので、自分の席へ戻った。
日直が号令をかける。授業が始まった。
僕は教科書を開いた。先生の声を聞く。
黒板を見る。ノートに文字を書く。
そういう時間は、嫌いではなかった。
勉強が好き、というほどではない。でも、授業中は余計なことを考えなくて済む。
黒板に書かれた文字を写す。問題を解く。
先生の話を聞く。やることが決まっている。
次に何をすればいいか、考えなくても分かる。それが少し楽だった。
夢のことを考えなくていい。
豚のことを考えなくていい。
白い部屋のことも。
電気の痛みも。
首元の冷たい感触も。
ベーコンのことも。
全部、ノートの罫線の外へ押し出せる。
完全には消えない。
でも、今だけ少し遠くなる。
僕にとって、授業はそういう時間だった。
小林は、前の方の席で退屈そうにしていた。
シャーペンを指で回している。ノートは開いているけど、あまり書いていない。
たまに隣の男子に何か小声で話して、先生に注意されている。
あいつは、こういう時間が嫌いなのかもしれない。僕とは逆だ。
小林は外に出て、走って、声を出して、誰かと話している方が楽なのだろう。
僕は違う。
体を動かすと疲れる。
疲れると眠くなる。
眠くなると、夜が近づく。
だから、できれば疲れたくない。
授業中に椅子に座っているだけなら、まだましだ。体はあまり使わない。
外にも出ない。誰かと無理に話さなくてもいい。
それだけで、かなりいい時間だった。
一時間目が終わる。二時間目が始まる。
休み時間には、教室の中がまた騒がしくなる。
小林たちは何かの話で笑っていた。佐倉は席でノートを見ていた。
僕は特に何もせず、机に座っていた。
昨日の夢は、まだ僕の中に残っている。でも、朝よりは少し奥へ沈んでいた。
こうやって、一日をやり過ごしていく。
死んだことを忘れるわけではない。ただ、見えにくい場所へ押し込む。
そうしないと、普通の顔をしていられない。
授業は淡々と進んだ。
国語。
数学。
理科。
先生の声。
チョークの音。
ノートに文字を書く音。
そういうものに紛れていると、少しだけ普通の生徒になれた気がした。
本当は違う。
昨日の夜、豚として死んだ。
今朝、ベーコンを見て食べられなかった。
そんなことを抱えている中学生は、たぶんこの教室に僕だけだ。
それでも、机に座って、授業を受けて、ノートを書いていれば、外からは普通に見える。
普通に見えるなら、それでよかった。
やがて、昼になる。給食の時間が近づいてくる。
そのことに気づいた瞬間、腹の奥が少しだけ重くなった。
朝は米だけなら食べられた。でも、給食は何が出るのか分からない。
肉が出るかもしれない。
魚が出るかもしれない。
昨日の夢を思い出すものが、また皿に乗っているかもしれない。
僕は黒板の端に貼られた献立表を見た。
見ない方がよかったかもしれない。
そう思いながらも、目は勝手にそこへ向いていた。




