第47話 遠回りの朝
朝食の席についてからも、今朝見た夢が頭から離れなかった。
知らない犬だった。
普通に過ごしているように見えた犬が、誰にも気づかれないまま苦しんで、そのまま死んだ。それを思い出すたびに、胸の奥が少し重くなる。
そんな時に限って、桜は朝から犬の話をしていた。
「ねえお兄ちゃん、犬が来たらさ、一緒に散歩行こうね」
「散歩?」
「うん。私も行くから」
「毎日?」
「毎日!」
「それは大変そうだけど」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんもいるし」
「僕も毎日行くことになってるの?」
「駄目なの?」
「駄目とは言ってないよ」
桜が嬉しそうに笑った。
犬の話なんか、今はあまりしたくなかった。
昨日までなら普通に聞けたと思う。でも今日は、犬という言葉を聞くだけで、今朝の夢を思い出してしまう。
桜はまだ何か話そうとしていた。
僕は少し迷った。
「桜」
「何?」
「今日は、その……犬の話、少しだけやめない?」
桜が僕を見る。
「犬、嫌になった?」
「違うよ」
僕はすぐに否定した。
「ちょっと今日は、あんまり考えたくないだけ」
「……そっか」
桜は少しだけ残念そうな顔をした。
やっぱり、そういう顔をする。
それを見るのが嫌で、今までなら何も言わなかったのかもしれない。
でも桜は、それ以上何も聞いてこなかった。
「じゃあ、またあとでね」
「うん。ごめん」
「いいよ」
それだけ言って、桜は残っていた朝ごはんを食べ始めた。
僕も箸を動かす。
思っていたより、何も起きなかった。
桜が怒ることもなかった。
嫌われたようにも見えない。
ただ、犬の話が止まっただけだった。
それだけなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
父さんと母さんからは特に何も言われなかった。二人とも朝の準備で忙しそうだったし、僕がいつもより早く食べ終えても、特に気にしていないようだった。
食べ終えて席を立とうとしたところで、姉さんが思い出したように言った。
「そうだ、耀」
「何?」
「綾がまた話聞きたいって言ってたよ」
足が止まる。
「何の?」
「夢の話に決まってるじゃん。この前の続きとか、何か変わったことなかったかって」
今朝の犬を思い出した。
話そうと思えば、話すことはある。
普通に見えるのに苦しんでいた犬。
夢に出てきた時には、もう遅いこと。
話せば、綾さんならいろいろ聞いてくると思う。
でも、今日は嫌だった。
「……今日はいい」
「え?」
「ちょっと早く学校行くから」
「別に今話せって意味じゃないけど」
「じゃあ、また今度」
鞄を持つ。
姉さんが何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局それ以上は聞いてこなかった。
桜にも。
姉さんにも。
今日は嫌だと、ちゃんと言えた。
別に大したことではない。
でも、少し前の僕なら、多分どっちも曖昧にしていた。
「行ってきます」
そう言って玄関へ向かった。
今日は珍しく、誰にも引き止められなかった。
外へ出ると、朝の空気が少し冷たかった。
家の中にいるより楽だった。
いつもより少し早く出たせいで、このまま学校へ向かえばかなり早く着く。
僕は少し考えてから、いつもの通学路とは違う道へ曲がった。
たまには遠回りしてもいい。
散歩がてら、少し歩いてから学校へ向かうことにした。
普段は通らない住宅街だった。
別に何か見たいものがあるわけでもない。ただ、いつもと違う道を歩いているだけで、少し気分が変わった。
しばらく歩いていると、少し先に見覚えのある後ろ姿が見えた。
同じ学校の制服。
肩まで伸びた髪。
佐倉だった。
向こうも僕に気づいたらしく、振り返る。
「あれ、宍戸くん?」
「おはよう」
「おはよう。珍しいね」
「何が?」
「この道通るんだ」
「今日はちょっと遠回り」
「なんで?」
「早く家出すぎたから。散歩がてら」
「へえ」
佐倉は少し意外そうな顔をした。
「宍戸くん、散歩とかするんだ」
「今日はね」
「今日だけなんだ」
「多分」
佐倉が笑った。
そのまま、なんとなく一緒に学校へ向かうことになった。
いつも使わない道を、佐倉と並んで歩く。
少しして、佐倉が前を見ながら声を上げた。
「あ、吉田さん」
前を見る。
少し先を、一人のおじいさんが歩いていた。佐倉の声に気づいたらしく、こちらを振り返る。
「ああ、佐倉さん。おはよう」
「おはようございます」
佐倉が笑って返事をした。
僕はそのおじいさんを知らなかった。
白髪が多く、僕の祖父より少し若いくらいに見える。特に変わったところのない、普通のおじいさんだった。
「知ってる人?」
僕が小声で聞くと、佐倉が頷いた。
「近所の吉田さん」
そう言われても、僕には覚えがない。
吉田さんが僕を見る。
「学校のお友達かな?」
「あ、はい。同じクラスの宍戸くんです」
佐倉に紹介されて、僕も軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
吉田さんが笑う。
「二人とも、学校は気をつけて行くんだよ」
「はい」
佐倉が返事をする。
僕ももう一度軽く頭を下げた。
そのまま行こうとした佐倉が、ふと思い出したように振り返る。
「吉田さん、今日はどこ行くんですか?」
「どこってほどでもないよ。ちょっと散歩してるだけ」
「朝も散歩してるんですね」
「朝も歩くよ。夕方の方が多いけどね」
「じゃあ、また」
「ああ。またね」
僕たちは吉田さんと別れ、そのまま学校へ向かった。
少し歩いたところで、僕は佐倉に聞いた。
「吉田さんって、よく会うの?」
「うん。近所だから」
佐倉は話を続けた。
「吉田さん、よく散歩してるよ。夕方とか」
「へえ」
「優しい人だよ」
佐倉はそう言ってから、少し考える。
「ココと散歩してる時も、よく撫でてくれるし」
「ココも知ってるの?」
「うん。何回か会ってるから」
そういうことか。
近所をよく歩いている人なら、犬の散歩をしている佐倉と会うこともあるのだろう。
僕たちはそのまま学校へ向かった。
今朝は家を出ることしか考えていなかったけれど、外に出てしまえば、いつもと何も変わらない朝だった。
知らない犬が死んだ夢を見たことも。
桜に初めて、少しだけ自分の都合を言えたことも。
珍しく遠回りをして佐倉と会ったことも。
近所の吉田さんと初めて話したことも。
全部、普通の朝の中に混ざっていく。
やがて学校が見えてきた。
「じゃ、行こっか」
「うん」
佐倉と一緒に、そのまま校門をくぐった。




