第46話 普通のふり
その夜も、夢を見た。
犬だった。
でも。
ココではなかった。
それだけで、少し安心した。
家の中にいた。
床に伏せている。
体が重かった。
どこか一か所が強く痛むわけではない。
なのに。
ずっと苦しい。
胸の奥に、重たいものを押しつけられているようだった。
息を吸う。
吸える。
でも。
足りない。
もう一度、大きく吸おうとする。
胸がうまく膨らまない。
途中で何かにつかえているみたいだった。
吐く。
また吸う。
苦しい。
呼吸はできている。
それなのに、ずっと息を我慢しているような感じが消えなかった。
じっとしていると、少しだけ楽だった。
このまま動きたくない。
ずっと床に伏せていたかった。
でも。
体が起き上がる。
四本の足に力が入る。
立てた。
足もしっかりしている。
歩くこともできる。
ただ。
立ち上がっただけで、胸の苦しさが少し強くなった。
呼吸が速くなる。
何もしていないのに。
少し走った後みたいだった。
マロを思い出した。
あの時とは違う。
マロはもっと年を取っていた。
体も弱っていた。
立つだけでも。
歩くだけでも。
ずっと大変そうだった。
最後は、生きていることそのものに体が追いつかなくなっていた。
でも、この犬は違う。
そこまで年を取っていない。
少なくとも、僕にはそう感じた。
足は動く。
目も見える。
耳も聞こえる。
鼻も利く。
なのに。
胸の奥だけが、おかしい。
時々。
ドクン、と。
心臓が強く跳ねた。
そのたびに、胸の中を内側から殴られたみたいに体が固まる。
一瞬だけ。
息が止まる。
でも。
すぐに戻る。
また呼吸ができる。
だから。
大丈夫なのかもしれない。
そう思いそうになる。
でも。
苦しい。
ずっと。
少しずつ。
家の奥から音がした。
誰かが歩いてくる。
声がする。
名前を呼ばれた。
この犬の名前。
僕にも、その音が分かった。
体が反応した。
顔が上がる。
尻尾が動いた。
人が近づいてきて、頭を撫でる。
また尻尾を振った。
胸は苦しい。
本当は伏せていたい。
息を整えたい。
なのに。
撫でられると嬉しかった。
名前を呼ばれると、反応してしまった。
苦しさとは別のところで。
体がいつものように動く。
外から見たら。
きっと何も変わっていない。
いつもの犬。
名前を呼べば顔を上げる。
撫でれば尻尾を振る。
呼べばついてくる。
でも。
僕には分かる。
苦しい。
胸が重い。
息が浅い。
できれば、このまま休んでいたい。
それなのに。
犬は立ち上がった。
呼ばれたから。
その人の後ろについて歩く。
一歩。
また一歩。
歩くたびに呼吸が速くなる。
胸の奥が重くなる。
止まりたい。
伏せたい。
でも。
止まらない。
どうして。
苦しいなら寝ていればいい。
歩かなければいい。
何かおかしいなら、何かすればいい。
鳴くとか。
動かないとか。
ご飯を食べないとか。
僕なら、そうすると思う。
でも、犬は何もしなかった。
普通に歩いた。
水を飲んだ。
名前を呼ばれれば顔を上げた。
撫でられれば尻尾を振った。
その間にも。
苦しさは少しずつ増していく。
水を飲んでも。
息苦しさは消えない。
伏せても。
胸の重さはなくならない。
立ち上がるたびに。
さっきより少しつらい。
歩くたびに。
さっきより少し息が苦しい。
それでも。
普通にしている。
時々。
心臓が大きく跳ねる。
ドクン。
体が止まる。
また動く。
ドクン。
一瞬だけ視界が揺れる。
それでも。
また名前を呼ばれる。
顔を上げる。
尻尾を振る。
ずっと。
普通にしていた。
その時だった。
胸の奥が。
今までとは比べものにならないくらい強く跳ねた。
ドクン――。
一度。
大きく。
体の中で何かが弾けたような感覚がした。
息を吸う。
入ってこない。
もう一度。
駄目だった。
口を開く。
胸を大きく動かす。
それでも。
空気が足りない。
苦しい。
苦しい。
さっきまでの苦しさなんて。
まだ楽だったと思えるくらい。
胸が締めつけられる。
頭の中が急にぼんやりする。
耳の奥で音が遠くなる。
足に力が入らない。
立っていられない。
体が傾いた。
床が近づく。
倒れた。
大きな音がした。
「――っ!?」
すぐに声が聞こえた。
さっきまでとは全然違う声だった。
名前を呼ばれる。
一度。
二度。
何度も。
人が走ってくる。
床に膝をつく音がした。
「どうしたの?」
体を撫でられる。
「ねえ」
また名前を呼ばれる。
「どうしたの!?」
声が震えていた。
体を起こそうとしている。
顔を覗き込んでいる。
何度も体に触れている。
さっきまで。
普通に頭を撫でていた人だった。
いつものように名前を呼んでいた人だった。
でも今は。
明らかに慌てていた。
怖がっていた。
心配していた。
僕には、それが分かった。
この人は。
この犬のことを大事にしている。
倒れてもどうでもいいなんて思っていない。
むしろ。
こんなに慌てるくらい大事なんだ。
だったら。
どうして。
今まで気づかなかったんだろう。
こんなに苦しかったのに。
ずっと胸が重かった。
息だって浅かった。
立ち上がるだけでも、少しずつ苦しくなっていた。
何度も心臓がおかしく跳ねていた。
僕には全部分かっていた。
なのに。
この人は何も知らなかった。
どうして。
こんなになるまで分からなかったんだろう。
でも。
すぐに別の疑問が浮かんだ。
じゃあ。
この犬は。
どうして何も伝えなかったんだろう。
言葉は話せない。
それは分かっている。
でも。
歩かないことはできた。
立たないこともできた。
鳴くことだって。
いつもと違う動きをすることだって。
できたかもしれない。
なのに。
名前を呼ばれれば顔を上げた。
撫でられれば尻尾を振った。
呼ばれれば立ち上がった。
苦しいのに。
ずっと。
いつも通りにしていた。
「ねえ!」
また名前を呼ばれる。
人の手が震えている。
「お願い……」
犬の体を抱き起こす。
そして。
そのまま強く抱きしめた。
「大丈夫だから」
声が震えていた。
「大丈夫だからね」
何度も。
同じ言葉を繰り返す。
頬を撫でる。
頭を撫でる。
胸元へ抱き寄せる。
僕には分かった。
この人は。
この犬のことを本当に大事にしている。
こんなに取り乱すくらい。
こんなに怖がるくらい。
失いたくないと思うくらい。
この犬は。
ちゃんと愛されていた。
なのに。
どうして。
もっと早く伝えなかったんだろう。
そして。
こんなに大切に思っていたのに。
どうして。
もっと早く気づけなかったんだろう。
どちらが悪いのか。
分からなかった。
たぶん。
どちらも悪くないのかもしれない。
ただ。
一方は、苦しいことを見せなかった。
一方は、普通に見えていたから気づかなかった。
それだけだった。
それだけなのに。
もう遅かった。
飼い主の腕の中は温かかった。
さっきまであれほど苦しかった胸の奥も。
少しだけ。
遠くなったような気がした。
名前を呼ばれる。
最後まで。
何度も。
呼ばれている。
この犬は。
愛されていた。
それだけは分かった。
だから。
返事をしたかった。
顔を上げたかった。
もう一度。
尻尾を振りたかった。
でも。
何も動かなかった。
飼い主の腕の中で。
ゆっくり。
息が止まった。
◇ ◇ ◇
目を開けると、天井が見えた。
僕はしばらく、そのまま横になっていた。犬だった。ココではない。それは分かっている。
それでも、嫌な夢だった。
さっきまで苦しかったはずの胸に手を当てる。普通に息ができる。心臓も動いている。
少し安心してから、僕はゆっくり息を吐いた。
マロの時とは違う。
マロは年を取って、少しずつ弱っていった。それでも最後まで生きようとしていた。
悲しかったし、苦しかったけれど、死んだ理由は分かった。体がもう限界だったからだ。
さっきの犬は違う。
そこまで年を取っているようには感じなかったし、足もしっかりしていた。死ぬ少し前まで普通に歩いていて、名前を呼ばれれば反応した。
尻尾まで振っていた。
なのに、死んだ。
それも気になったけれど、それ以上に分からないことがあった。
どうして、あれほど苦しかったのに何も表に出さなかったんだろう。
そして、どうして飼い主も、あそこまで犬を大切にしていたのに気づかなかったんだろう。
倒れた時の声を思い出す。
震えていた。何度も名前を呼んでいた。最後には強く抱きしめていた。
あの犬は、間違いなく愛されていた。
放っておかれていたわけじゃない。
どうでもいいと思われていたわけでもない。
それなのに、気づいた時には遅かった。
「…………」
僕は枕元に置いてあったスマホを取った。
少し考えてから、犬は体調が悪くても隠すことがあるのか調べてみる。
いくつか出てきた記事を読んだ。
犬は、痛みや体調不良を表に出しにくいことがあるらしい。弱っているところを見せない習性が残っている、という説明もあった。
野生で生きていた時には、弱っている姿を見せることが危険につながったから。
そんな話だった。
さらに、犬が突然死する原因についても調べてみた。
心臓や血管の異常。腫瘍。脳の病気。中毒。
いろいろな原因が出てきた。
夢の犬が何で死んだのかは分からない。確かめる方法もない。
それでも、一つだけ分かった。
あの犬は、何ともなかったわけじゃない。
苦しくなかったわけでもない。
ただ、そう見えなかっただけだった。
普通に見えることと、苦しくないことは同じじゃない。
スマホを置いた。
そこで、ココのことを思い出した。
後ろ脚にあった小さな傷。
そのあとも普通に歩いていたし、尻尾も振っていた。佐倉は、もう大丈夫そうだと言っていた。
多分、本当にただの擦り傷なんだと思う。
でも。
もし違ったら。
ココが本当はどこか苦しかったとしても、普通に歩いて、名前を呼ばれれば振り返って、尻尾まで振っていたら。
僕はそれを見て、「大丈夫そうだ」と思ってしまうんじゃないだろうか。
今度、うちにも犬が来る。
その犬も同じだ。
普通にしていても、本当は苦しい時があるのかもしれない。
それに気づけないまま、ある日突然倒れたら。
僕はきっと、もっと早く気づけばよかったと思う。
そして、その犬がいつか僕の夢に出てきたら。
それはもう、遅い。
僕が見るのは、死んだものの最後だ。
夢に出てきた時には、もう死んでいる。
助けることはできない。
マロの時もそうだった。夢の中でどれだけ生きようとしていても、僕が目を覚ました時には全部終わっていた。
だから、犬の夢はできれば見たくなかった。
知らない犬でも嫌だった。
これから飼う犬なら、もっと嫌だ。
夢に出てきて初めて異変に気づくなんて、一番嫌だった。
僕はもう一度、さっき読んだことを思い出した。
弱っている姿を見せない。
野生では、それが生き残るために必要だったのかもしれない。
家族なら、苦しい時くらい見せてもいいんじゃないか。
一瞬、そう思った。
でも、それは人間の考え方なのかもしれない。
犬が「隠そう」と思って隠しているとは限らない。ただ、そういう習性が残っていて、結果として人間には普通に見えているだけなのかもしれない。
だったら、犬の方から教えてくれるのを待っていたら駄目なんだと思う。
鳴いたら。
動かなくなったら。
ご飯を食べなくなったら。
そこまで分かりやすくなってから気づくんじゃ、遅いこともある。
毎日見る。
歩き方を見る。食べ方を見る。呼吸を見る。
いつもと違うところに気づく。
言葉がなくても分かるくらい、一緒にいる。
それが家族なのかは分からない。
でも、少なくとも僕はそうなりたいと思った。
犬が苦しいことを表に出さなくても。
それでも気づけるくらいには。
スマホを見ると、いつの間にか起きてから結構時間が経っていた。
そろそろ下へ行かないといけない。
僕はベッドから降りて着替えた。鏡を見ると、少し眠そうな顔をしている。
でも今は、それよりさっきの犬のことが頭に残っていた。
新しく来る犬。
まだ顔も知らない。名前もない。どんな性格なのかも分からない。
それなのに、もう僕はそいつの体調を心配している。
自分でも少しおかしかった。
僕は部屋を出て、階段を下りた。




