第43話 楽しみだね
昼休み。
昼飯を食べ終わってから、僕は自分の席でぼんやりしていた。
教室の中では、何人かが机を寄せて話している。小林も少し離れたところで、朝から変わらず元気に笑っていた。
僕はそれを眺めながら、ふと昔のことを思い出した。
前は、夜が来るのが嫌だった。
学校が終わると、家に帰るまでの時間をできるだけ伸ばそうとしていた。百人一首クラブに入ったのも、最初は百人一首が好きだったからじゃない。
帰りたくなかったからだ。
活動日じゃない日まで部室へ行って、一人で札を並べていた。最後まで残って、六時になったら仕方なく帰る。
帰り道もゆっくり歩いた。
家に着けば夕飯を食べて、風呂に入って、あとは眠るだけだったから。
眠れば、また死ぬ。
その時間が少しでも遅くなればいいと思っていた。
今だって、夢を見なくなったわけじゃない。
今日もカマキリになって死んだ。
今夜も多分、何かになる。
それなのに、前ほど夜が来ることばかり考えなくなっていた。
理由は多分、分かっている。
夢の話を聞いてくれる人ができたからだ。
佐倉と、綾さん。
二人とも聞き方は全然違うけれど、話しても嫌そうな顔をしない。
綾さんは、むしろ聞きたがりすぎるくらいだった。
佐倉は無理に聞かない。でも僕が話せば、ちゃんと聞いてくれる。
今朝だって、カマキリの話を聞いてもらった。
それだけで、少し楽になった。
誰かに聞いてもらえるだけで、こんなに違うものなのかもしれない。
今までずっと、自分の中に残していた。
痛かったことも。
怖かったことも。
夢の中で気づいたことも。
全部、自分だけで持っていた。
それを少し外へ出せるようになった。
だからなのかもしれない。
放課後になったら、前みたいに必ず最後まで部室に残らなくてもいい気がする。
もちろん百人一首が嫌いになったわけじゃない。
最初は時間を潰すためだったけれど、今は札もほとんど覚えたし、取れると少し楽しい。
でも、毎日最後まで残る必要はもうない。
犬が来たら、散歩もしないといけなくなる。
桜がやると言っていたけれど、毎日全部任せるのは多分無理だと思う。
そうなれば、僕が早く帰る日も増えるかもしれない。
今度、部長にも言っておこう。
毎日最後までいることは減るかもしれない、と。
そんなことを考えていると、机の横に人が立った。
「宍戸くん」
顔を上げる。
佐倉だった。
「何?」
「何考えてたの?」
「部活のこと」
「百人一首?」
「うん。毎日最後まで残るの、やめようかなって」
佐倉が少し首を傾げた。
「毎日残ってたの?」
「活動ない日も」
「すごいね」
「別に。帰りたくなかっただけだから」
言ってから、前ならこんなことまで話さなかっただろうなと思った。
佐倉は少しだけ僕を見る。
「家に?」
「家が嫌だったわけじゃないよ」
「うん」
それだけ言って、続きを待っている。
「夜になるのが嫌だったから。家に帰ったら、寝るまで早いし」
佐倉はすぐに意味が分かったみたいだった。
「夢?」
「うん」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
僕は少し迷ってから、話を変えた。
ちょうど佐倉に話しておこうと思っていたことがある。
「そういえば、うち、犬飼うことになった」
佐倉の目が少し大きくなった。
「本当に?」
「今日決まった」
「桜ちゃん、喜んだでしょ」
「すごかったよ」
朝のことを思い出す。
階段を下りたら、いきなり「犬!」と言われた。
昨日まで決まっていなかったのに、朝にはもう飼うことになっていた。
「ココに会ってから、ずっと欲しがってたから」
「私のせい?」
「ココのせいかも」
「ココか」
佐倉が少し笑った。
「でも、宍戸くんはあんまり飼いたくなさそうだったよね」
「分かった?」
「なんとなく」
少しだけ迷ったあと、佐倉が続けた。
「もしかして、夢で見るかもしれないから?」
僕は佐倉を見る。
「やっぱり分かるんだ」
「宍戸くん、犬が嫌いには見えなかったから」
その通りだった。
犬は好きだ。
だからこそ、飼いたくなかった。
「いつか死ぬでしょ」
「うん」
「その時、僕が見るかもしれないから。それが嫌だった」
佐倉は少し黙ってから頷いた。
「マロみたいに?」
「うん」
そこまで言えば、佐倉には分かる。
僕は机の上へ視線を落とした。
「本当は嫌なら嫌って言えばよかったんだけど」
「言わなかったの?」
「曖昧にしてた」
「どうして?」
「桜がすごい飼いたそうだったから」
「桜ちゃん?」
「うん。僕が嫌って言ったら、絶対嫌そうな顔するし」
佐倉が少し笑った。
「桜ちゃんに嫌われたくないんだ」
「嫌われたくないっていうか……」
否定しようとして、やめた。
多分、そんなに間違っていない。
「まあ、ちょっと」
「宍戸くん、お兄ちゃんだね」
「何それ」
「なんとなく」
さっき僕が言ったのと同じ返しだった。
僕は少し笑った。
「それで曖昧にしてたら、今日の朝には飼うことになってた」
「押し切られたんだ」
「完全に」
昨日の「お兄ちゃん、お願い」を思い出す。
あれも多分、少しくらいは狙っていた。
桜は僕が思っているよりずっと賢い。
「何飼うの?」
佐倉が聞いた。
「まだ決まってない」
「犬種も?」
「何も」
「そっか」
僕は少し考えた。
「できれば、小さい犬がいいかな」
「小さい犬?」
「うん」
「どうして?」
理由はいくつかあった。
「小さい犬の方が、長生きすることが多いらしいから」
口にしてから、自分でもやっぱりそこを最初に考えるんだと思った。
佐倉は笑わなかった。
「そっか」
「あと、散歩も少し楽そうだし。世話が楽ってわけじゃないだろうけど、桜でも散歩しやすいと思う」
「桜ちゃん、まだ小三だもんね」
「うん。僕が毎日行けるとも限らないし」
「ココくらいは?」
僕はこの前、桜とココが並んで歩いていたところを思い出した。
「ココくらいならまだいいけど、桜一人だとちょっと心配かな」
ココはものすごく大きな犬ではない。
でも、桜が一人でリードを持って、急に強く引っ張られたら危ない気がする。
「もっと小さくてもいい」
「小さい犬、かわいいもんね」
「そうだね」
「桜ちゃんも喜びそう」
「今度言ってみる。小さい犬がいいんじゃないかって」
桜なら、犬なら何でもいいと言いそうな気もする。
それとも、もう頭の中で飼いたい犬まで決まっているのだろうか。
あり得る。
「でも、いいな」
佐倉が言った。
「何が?」
「犬が来るの」
「佐倉はもうココいるでしょ」
「そうだけど、新しく家に来る時ってどんな感じなのかなって」
少し考えてから、佐倉が笑った。
「楽しみだね」
「うん。楽しみだね」
自然に答えていた。
一瞬遅れて、自分が言った言葉に気づく。
楽しみ。
今朝まで、犬を飼うと考えるたびに、その犬が死ぬところまで考えていた。
飼いたくないと思っていた。
怖いと思っていた。
なのに今は、考える前に「楽しみだ」と答えた。
佐倉は特に気にした様子もなく、
「どんな子が来るか決まったら教えて」
と言った。
「うん」
その時、予鈴が鳴った。
佐倉が時計を見る。
「戻るね」
「うん」
自分の席へ戻っていく佐倉を見ながら、僕はさっきの言葉をもう一度思い出した。
楽しみだね。
無理に言ったわけじゃない。
桜に合わせたわけでもない。
家族の雰囲気を悪くしないためでもなかった。
ただ、普通に出てきた。
犬を飼うことは、まだ少し怖い。
死ぬことを考えなくなったわけでもない。
それでも。
来る前から、死ぬ時のことだけを考えなくてもいいのかもしれない。
僕はそんなことを考えながら、午後の授業の準備を始めた。




