第42話 死ぬ側
学校に着く頃には、朝から続いていた騒がしさも少し落ち着いていた。
今日は朝ごはんも、ほとんど食べられなかった。
食欲がなかったわけではない。
桜が急に「犬を飼っていいって」と言い出して、昨日まで決まっていなかったはずの話が、朝になったら決まっていた。
それどころじゃなかっただけだ。
犬を飼う。
本当に決まってしまった。
そう考えると、やっぱり少し怖い。
犬が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
マロも好きだったし、ココを撫でるのも楽しかった。
怖いのは、その先だった。
飼えば、毎日一緒にいる。名前を呼んで、ご飯をやって、散歩をして、多分、好きになる。
それでも、いつか死ぬ。
僕はどうしても、その先を考えてしまう。
犬の寿命は、人間よりずっと短い。
前に少し調べた時、大きな犬より小さな犬の方が長生きする傾向があるとも書いてあった。
だから、もし飼うなら小さい犬がいいと思っている。
少しでも長く生きる犬の方がいい。
でも、本当に怖いのは寿命の長さだけじゃなかった。
その犬を好きになったあとで、その犬が死んだら。
僕は、その死を夢で見るかもしれない。
知らない生き物の死でさえ、痛みも怖さも感じる。その体になって、その目で見て、その生き物が最後に感じたものを、自分のことみたいに感じる。
それが、毎日一緒に暮らしていた犬だったら。
僕のことを知っている犬だったら。
僕も、その犬のことを大切に思っていたら。
死ぬ瞬間に何を感じるのか。どれだけ痛かったのか。どれだけ怖かったのか。
もしかしたら、最後に僕のことを考えるかもしれない。
それまで感じてしまったら、自分がどうなるのかは分からない。
考えると、やっぱりとても怖かった。
まだどんな犬が来るのかも決まっていないのに、僕はもう、その犬が死ぬ時のことまで考えている。
最近は、自分がそういうことを必要以上に気にしていることも、少し分かっていた。
普通なら、まだ家にも来ていない犬の寿命や、死ぬ瞬間のことなんて考えないんだと思う。
どんな犬が来るんだろうとか、名前はどうしようとか、まずはそっちを考えるはずだ。
僕だって、そうしたい。
死ぬことなんて気にしないで、桜たちと一緒に楽しみにできれば、その方がいい。
でも、一度考えてしまうと止められない。
そんなことを考えている自分に気づいて、今度はそれまで気になってしまう。
まただ、と思う。
まだ何も起きていないのに、知っているせいで先のことまで怖がっている。
姉さんが言っていたことの方が、今回ばかりは正しいのかもしれない。
新しい家族が来るんだから、今は楽しみにすればいい。
桜はあんなに喜んでいたし、父さんも母さんも、姉さんも、犬を飼うこと自体は嬉しそうだった。
僕だけがまだ起きてもいないことを考えて、ずっと暗い顔をしている必要はない。
それは分かっている。
分かっているけれど、だからといって簡単に怖くなくなるわけでもなかった。
まだどんな犬が来るのかも決まっていない。
いつ来るのかも分からない。
だったら今は、死ぬ時のことまで考えなくてもいい。
少なくとも、そうしようとは思った。
飼うと決まったなら、その時はちゃんと世話をする。
犬のことは、来てから考えよう。
まだ完全に割り切れたわけではない。
それでも僕は、そこでいったん考えるのをやめて、教室の扉を開けた。
休み明けの教室は、朝から騒がしかった。
連休中にどこへ行ったとか、何をしたとか、そんな話があちこちから聞こえてくる。
その中でも、小林はかなり元気だった。
自分の席の近くで男子と話しながら、朝から大きな声で笑っている。
休み明けなのに、よくそんなに元気があると思う。
僕は自分の席へ向かう途中で声をかけた。
「おはよう、小林」
小林が振り返った。
「お、宍戸。おはよ」
それだけだった。
別に珍しいことでもないみたいに、普通に返された。
僕もそのまま自分の席へ行った。
鞄を置き、椅子に座る。
それから、学校のタブレットを取り出した。
朝、家でも調べたハリガネムシのことが、まだ少し気になっていた。
カマキリなどに寄生して、宿主を水辺へ向かわせる。
そこまでは分かった。
でも、どうしてそんなことができるのか。
自分の体なのに、自分の意思とは違う方向へ動かされるというのが、どうしても引っかかっていた。
検索欄に、もう一度ハリガネムシの名前を入れる。
今度は、朝より少し詳しく調べてみることにした。
すぐにいくつも結果が出てきた。
写真もある。
細くて長い。
名前の通り、本当に針金みたいだった。
今朝の夢で、カマキリの体から出てきたものとよく似ている。
記事をいくつか開いて読んでいく。
ハリガネムシは、カマキリやカマドウマなんかに寄生することがあるらしい。宿主の体の中で育ち、成長すると水の中へ移動する。
そのために、寄生している虫の行動を変えて、水辺へ向かわせる。
そこまでは朝も読んだ。
僕は画面をスクロールする。
知りたいのは、その先だった。
どうやって操っているのか。
でも、詳しい仕組みはまだ全部分かっているわけではないらしい。
感染したカマキリが、水面から反射する光に引き寄せられることがある。
ハリガネムシ側で作られる何かが、宿主の行動に影響している可能性もある。
分かっていることと、まだ分かっていないことが混ざっていた。
結局、仕組みの全部は分からない。
でも、一つだけ今朝の夢とつながった。
あのカマキリは、自分から水辺へ行こうとしていたわけではなかった。
自分の体なのに、自分の行きたい場所とは違うところへ動かされていた。
「何見てるの?」
声がして、顔を上げた。
佐倉が立っていた。
「ハリガネムシ」
「……ハリガネムシ?」
佐倉が画面を見る。
「ああ。カマキリのお腹から出てくるやつ?」
「知ってるんだ」
「見たことはないけど。聞いたことある」
佐倉は僕の隣の空いている席に手を置いた。
「なんで調べてるの?」
僕は少し周りを見る。
近くで聞いている人はいない。
それでも、少し声を小さくした。
「今朝、これの夢見た」
佐倉の表情が少し変わった。
「ハリガネムシの?」
「多分、カマキリの方」
「カマキリになったの?」
「うん」
佐倉も少し声を落とした。
「どうなったの?」
僕は今朝見たものを簡単に話した。
自分の意思とは関係なく、水の方へ歩いていったこと。
水に落ちたこと。
体の中からハリガネムシが出てきたこと。
それでもカマキリは水から出ようとしていたこと。
岸へ向かおうとして、何度も脚を動かしたこと。
でも、結局は上がれなかった。
「それで死んだ」
佐倉は少し黙った。
それから、タブレットの画面を見る。
「じゃあ、このハリガネムシがカマキリを水辺に行かせたの?」
「そうみたい」
「カマキリは水に入りたかったわけじゃないんだ」
「多分」
僕はさっき読んだところを佐倉にも見せた。
「寄生してる虫の行動を変えて、水辺に行かせるんだって。水の中に行かないと、こっちは駄目らしい」
「こっち?」
「ハリガネムシ」
「ああ」
佐倉は画面を少し読んだ。
「じゃあ、ハリガネムシは生きるためにやってるんだね」
「そうだと思う」
「でも、カマキリは?」
僕は佐倉を見る。
「カマキリ?」
「水から出ようとしてたんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、カマキリは死にたくなかったんじゃない?」
今朝の夢を思い出した。
水の中。
重くなった体。
水面。
岸。
何度も動かした脚。
上がれなかった。
「多分」
僕が言うと、佐倉は少し嫌そうな顔をした。
ハリガネムシが気持ち悪いから、という感じではなかった。
「嫌だね」
「何が?」
「自分の体なのに、自分が行きたくないところに行かされるの」
佐倉はそう言ってから、少し考えた。
「でも、水に入ったあとも出ようとしてたなら、全部が全部、操られてたわけじゃないのかな」
「分からない」
「そっか」
「でも、出ようとはしてた」
それだけは分かる。
自分の体が水へ向かっていった。
水に入った。
体の中からハリガネムシが出ていった。
それでも、そのあとカマキリは岸へ向かおうとしていた。
体を動かされても、最後には生きようとしていた。
今朝感じたことが、少しだけ形になった気がした。
佐倉は、そういうところを見る。
ふと、綾さんのことを思い出した。
同じ話を綾さんにしたら、多分、最初に聞くことは違う。
どうやって操ってるの。
夢の中で、操られているのは分かったの。
ハリガネムシが出てきた時はどんな感じだった。
夢が終わったのは、カマキリが死んだ時なの。
多分、そういうことを聞く。
綾さんは、夢そのものを見る。
何が起きたのか。
どういう仕組みなのか。
どんな規則があるのか。
それはそれで助かっていた。
僕一人では考えなかったことを聞かれるし、綾さんと話しているうちに気づくこともある。
でも、佐倉は少し違う。
佐倉が最初に見るのは、いつも死ぬ方だった。
痛かったのか。
怖かったのか。
その生き物はどうしたかったのか。
今回も、ハリガネムシがどうやってカマキリを操ったのかより先に、カマキリはどうだったのかを聞いた。
僕も、夢の中ではいつもそっちにいる。
殺す側ではない。
調べる側でもない。
いつも、死ぬ方だ。
だからなのかもしれない。
佐倉に夢の話をするのは、綾さんに話す時とは少し違った。
綾さんは面白そうに聞く。
佐倉は、あまり楽しそうには聞かない。
僕が死んだ話なんだから、それが普通なのかもしれない。
でも、僕にはその方が話しやすかった。
「宍戸くん」
「何?」
「今朝も痛かった?」
やっぱり、そっちだった。
「まあまあ」
「まあまあなんだ」
「カマキリだから」
「それ関係あるの?」
「分からない」
佐倉が少し笑った。
僕も少しだけ笑う。
その時、予鈴が鳴った。
佐倉が自分の席を見る。
「戻るね」
「うん」
「また何か分かったら教えて」
「うん」
佐倉は自分の席へ戻っていった。
僕もタブレットの画面を閉じる。
ちょうど一時間目でも使う予定だったので、そのまま机の上へ置いた。
少しすると先生が教室へ入ってくる。
さっきまで騒いでいた小林たちも席へ戻った。
連休は終わった。
授業が始まる。
休み時間になれば小林が話しかけてくるかもしれない。
家に帰れば、また桜が犬の話をするかもしれない。
夜になれば、多分また夢を見る。
いつもの日々が、また始まった。
前とは少しだけ違う、いつもの日々が。




