第41話 桜には勝てない
犬を飼うのは怖い。
でも、桜は飼いたい。
朝からそんなことを考えながら階段を下りていると、一階から桜の大きな声が聞こえてきた。
何かあったのかと思って少し急いでリビングへ入ると、桜がすぐに僕を見つけた。
「お兄ちゃん!」
朝から元気だった。
「何? どうしたの?」
「犬!」
嫌な予感がした。
「犬が何?」
桜が満面の笑顔で言った。
「飼っていいって!」
僕はその場で止まった。
「……何が?」
「犬だよ!」
聞き間違いではなかった。
父さんを見る。母さんも見る。
二人とも否定しない。
「……決まったの?」
「うん!」
桜が大きく頷いた。
おかしい。
昨日の夕食が終わった時点では、まだ飼うことは決まっていなかったはずだ。少なくとも僕は、そう思っていた。
それが一晩で変わっている。
「お兄ちゃんも犬好きでしょ?」
「……うん」
「ほら」
ほらじゃない。
好きなのと飼いたいのは、僕の中では違う。
でも、こんなに嬉しそうな桜にそれを説明する気にはなれなかった。
「お兄ちゃんも楽しみだね!」
桜が僕を見る。
「……まあ」
「楽しみじゃないの?」
「まだどんな犬かも分からないし」
それでも桜は気にしていない。
とにかく犬を飼えることが嬉しいらしい。
朝食が始まってからも、話題はほとんど犬だった。
「いつ来るの?」
「まだ決まってないわよ」
母さんが答える。
「どんな犬?」
「それもこれから」
「男の子?」
「まだ分からないわ」
「女の子かもしれない?」
「そうね」
「何色かな」
「だから、まだ分からないって」
桜はずっと嬉しそうだった。
犬はまだ来てもいない。どんな犬になるのかも、いつ来るのかも分からない。
なのに桜の中では、もう家に犬がいるみたいだった。
向かいを見ると、姉さんと目が合った。
笑っていた。
「何?」
「別に」
そう言いながら、まだ笑っている。
絶対に何か知っている。
朝食が終わり、桜が母さんと犬の話を続けている間に、僕は姉さんのところへ行った。
「姉さん」
「何?」
「なんでこんなことになったの?」
姉さんが僕を見て、少し笑った。
「やっぱり分かってなかったんだ」
「分かるわけないでしょ。昨日まで決まってなかったじゃん」
「まあ、耀は知らなかったかもしれないけど」
「うん」
「父さんと母さん、結構前から飼う方には傾いてたよ」
「え?」
初めて聞いた。
「最初はさ、桜が本当にずっと欲しがるのか分からなかったし、犬なんて簡単に飼えるものじゃないから駄目って感じだったけど」
「うん」
そこまでは僕も知っている。
「でも桜、ずっと欲しいって言ってたでしょ?」
「言ってた」
「父さんも母さんも犬嫌いじゃないし、もう結構、飼ってもいいかなって感じだったの」
「そうだったの?」
「うん」
全然気づかなかった。
「多分、家の中で一番はっきりしてなかったの、耀だけだよ」
「姉さんだって、気が向いた時しか世話しないって言ってたでしょ」
「うん。言ったよ」
姉さんはあっさり頷いた。
「だから?」
「だからって……」
「私は飼いたいって最初から言ってたじゃん。世話は気が向いた時だけっていうのも」
「それ、威張ることじゃないでしょ」
「威張ってないよ。でも、私はどっちもはっきり言ってたよ」
「気が向いたらやるって」
「そう。気が向いたらやる。でも毎日はやらない」
そこだけは妙にはっきりしている。
「でも、耀とは違うじゃん」
「何が?」
「私は飼いたいって言ったし、毎日の世話はしないって言った」
姉さんが僕を見る。
「あんたはどっちも言ってないでしょ」
僕は黙った。
「犬は好き。でも飼いたいとは言わない。嫌かって聞かれたら、嫌でもない。飼うことになったら世話はする」
昨日の自分の返事を、そのまま並べられているみたいだった。
「ずっとそんな感じだったじゃん」
「……まあ」
「私は自分がやらないことまで、やるとは言ってないよ」
それはそうだった。
無責任だとは思う。
でも姉さんは最初から、犬を飼うことには賛成している。その代わり、毎日の世話をするつもりはないとも、はっきり言っていた。
姉さんの考えていることは分かりやすい。
僕は違った。
「父さんと母さんも飼ってもいい方に傾いてたし、桜は最初から飼いたがってる。私は賛成」
姉さんが指を折りながら言う。
「最後までどっちなのか分からなかったの、耀だけ」
「でも、世話の問題はあったでしょ?」
「うん」
「桜一人じゃ無理。姉さんは毎日はやらない。父さんと母さんは仕事がある」
それは昨日も話した。
姉さんが僕を見る。
「だから、耀も一緒にやるなら何とかなるってこと」
昨日の夕食を思い出す。
飼うことになったら、その時は世話をする。
僕は確かにそう答えた。
姉さんが続ける。
「逆に言えばさ、耀が昨日、はっきり『飼いたくない』『僕は世話しない』って言ってたら、多分飼ってないよ」
「……そうなの?」
「だって、誰が毎日面倒見るの?」
姉さんが指を折る。
「桜一人じゃ無理。父さんと母さんは仕事。私は毎日はやらない」
「気が向いたら、でしょ」
「そう。それは最初から言ってる」
姉さんは悪びれもしない。
「だから耀までやらないって言ったら、無理だったと思うよ」
僕は黙った。
そんなつもりで言ったわけじゃなかった。
ただ、もし本当に犬が来たら放っておけないと思ったから、飼うことになったら世話はすると言った。
でも、それがなければ犬を飼う話自体が止まっていたのかもしれない。
「でもあんたは、犬は好き、飼うのも嫌じゃない、飼ったら世話するって言った」
「……うん」
「それ聞いたら、父さんと母さんだって、じゃあ何とかなるかなって思うでしょ」
何も言えなかった。
「だから桜からしたら、あんたさえ何とかすれば犬を飼えるって思ったんじゃない?」
「そんなの分かるわけないじゃん」
思わず言った。
「僕だって、昨日の時点で父さんと母さんがそこまで飼う気だったなんて知らなかったし」
「でも桜は気づいてたんじゃない?」
「小学三年生だよ?」
姉さんが少し笑った。
「耀。あの子、結構頭いいんだよ」
「それは知ってるよ」
桜が頭のいい子なのは前から知っている。物覚えもいいし、人の話をよく覚えている。
家族の顔だって、意外とよく見ている。
「小さいからって、何も分かってないと思わない方がいいよ」
「何も分かってないとは思ってないけど」
「じゃあ、あの顔に騙されちゃ駄目だね」
「何の顔?」
「『お兄ちゃん、お願い』ってやつ」
昨日の桜を思い出した。
少し首を傾げて、両手を胸の前で合わせていた。
「……あれ?」
姉さんが笑う。
「知らないよ。でも桜なら、耀にはあれが効くって分かってても驚かない」
僕は少し離れたところにいる桜を見る。
母さんと何か話しながら、楽しそうに笑っていた。
「……やられた」
「やられたね」
姉さんは楽しそうだった。
僕はあまり楽しくない。
「それで昨日の夜、桜、父さんと母さんのところで寝たでしょ」
「ああ」
桜は時々、父さんと母さんの部屋で寝る。
「その時に、ずっと犬の話したんだって」
「ずっと?」
「うん。私もあとで母さんから聞いたけど」
姉さんが指を一本立てる。
「ちゃんと散歩する」
二本目。
「ご飯もあげる」
三本目。
「飽きないで最後まで世話する」
そこまでは昨日も言っていた。
「それで、お兄ちゃんも犬が好き」
「それは言った」
「犬を飼うのも嫌じゃない」
「……まあ」
それも言った。
「お兄ちゃんも一緒に面倒見てくれる」
「それは……」
言葉に詰まる。
そこは完全な嘘ではない。
昨日、僕自身が「飼うことになったら世話をする」と言った。
「ほら。そこは言ったんでしょ?」
「飼うことになったら、って言ったんだよ」
「桜、その前半をちょっと小さくしたんじゃない?」
「大事なところでしょ」
姉さんが笑う。
でも、桜が言ったことは何もないところから作った嘘ではない。
犬は好き。
飼うのも絶対に嫌だとは言っていない。
飼うことになれば世話をする。
僕が実際に言ったことを少しずつ広げて、全部つなげただけだ。
「しかも、うちの両親、二人とも桜に甘いからね」
それは僕も知っている。
一番下で、まだ小さい。
桜が本気で頼むと、父さんも母さんもかなり弱い。
「もう飼う方にはかなり傾いてたところに、耀も犬が好きで、一緒に世話してくれるって聞いたら」
姉さんが肩をすくめる。
「じゃあ飼おうか、ってなるでしょ」
「……僕、そんなに飼いたがってない」
「そこなんだよ」
姉さんが言った。
「飼いたくないなら、そう言えばよかったじゃん」
僕は黙った。
「私は飼いたい。毎日の世話はしない。そこは最初からはっきり言ってた」
「うん」
「でも耀は、飼うのに反対とも言わなかったし、賛成とも言わなかった」
何も言えない。
「犬は好き。嫌ではない。飼ったら世話はする。でも、自分から飼いたいとは言わない」
姉さんが少し呆れた顔をする。
「そりゃ桜からしたら、押せばいけると思うでしょ」
「押せばって……」
「だって本当に嫌だったら、あんた一回くらい嫌って言うでしょ」
言っていない。
一度も。
「桜に『駄目?』って聞かれても言わなかったんでしょ?」
「……うん」
「なんで?」
すぐには答えられなかった。
昨日の桜を思い出す。
少し不安そうに僕を見ていた。
あの顔を見て、駄目とは言えなかった。
「桜に嫌な顔されたくなかったんじゃない?」
姉さんが言った。
僕は何も答えなかった。
「嫌われたくないとか。桜には普通のお兄ちゃんだと思われたいとか」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
犬を飼えば、いつか死ぬ。
その犬の最後を、自分が夢で見るかもしれない。
だから、本当は飼わない方がいいと思っていた。
さっきまで、父さんと母さんがそのまま桜を諦めさせてくれればいいと思っていた。
なのに、桜本人には一度も反対していない。
「……そうなのかな」
僕が言うと、姉さんが少し呆れた顔をした。
「今気づいたの?」
「考えたことなかった」
「だから言ってるんじゃん。私は最初からはっきりしてたけど、耀は桜の前だと全然はっきりしないって」
余計なお世話だと思った。
でも、否定はできなかった。
「まあ、私も言っとけばよかったけどね。父さんと母さん、もう結構飼う気だよって」
「言ってよ」
「ごめんって」
姉さんはあまり悪びれずに笑った。
「でも、もう決まったんだから諦めなさい」
「簡単に言うね」
「新しい家族が来るんだから、楽しみにすればいいじゃん」
新しい家族。
その言葉を聞いて、もう一度桜を見る。
まだ楽しそうに笑っていた。
ここまで来たら、本当に諦めるしかないのかもしれない。
それから学校へ行く準備をした。
玄関で靴を履いていると、後ろから呼ばれた。
「お兄ちゃん」
振り返ると、桜が立っていた。
さっきまでとは違って、少しだけ元気がない。
「何?」
桜は僕の前まで来ると、少し俯いた。
「昨日ね」
「うん」
「お父さんとお母さんに、お兄ちゃんも犬飼いたいって言ったの」
知っている。
姉さんから聞いた。
「ちょっとだけ」
桜が小さな声で続ける。
「お兄ちゃんが言ったより、多く言った」
やっぱり自分でも分かっていたらしい。
「ごめんなさい」
桜が頭を下げる。
少しして、もう一度言った。
「ごめんなさい」
怒ろうと思えば、怒れたのかもしれない。
でも、さっき姉さんに言われたことが頭に残っていた。
本当に嫌だったなら、最初から嫌だと言えばよかった。
僕は一度もそう言わなかった。
それどころか、僕が世話をすると言ったから、父さんと母さんも飼えると思ったのかもしれない。
だから、全部桜が悪いとも思えなかった。
僕は手を伸ばして桜の頭に置き、そのまま少し撫でた。
「もういいよ」
桜が顔を上げる。
「怒ってない?」
「怒ってない」
少し安心した顔をした。
「でも、言ってないことまで言ったら駄目だよ」
桜の顔が少し真面目になる。
「……うん」
「次からはやらないでね」
「うん」
ちゃんと頷いたので、もう一度頭を撫でた。
「分かったならいいよ」
「うん」
桜が少し笑った。
それから、すぐにいつもの顔に戻る。
「犬が来たら、ちゃんと面倒見るから」
「本当に?」
「本当」
「散歩も?」
「する」
「ご飯も?」
「する」
「途中で飽きない?」
「飽きないよ」
桜が大きく笑った。
「お兄ちゃんも一緒にやろうね」
また僕まで入っている。
でも、今度は何も言わなかった。
「行ってきます!」
桜が先に玄関を出ていく。
少し先まで行ってから、笑顔でこっちを振り返った。
その顔を見ていると、後ろから姉さんの声がした。
「耀」
「何?」
振り返る。
姉さんが呆れたように笑っていた。
「あんた、やっぱり桜に甘すぎるよ」
「……そう?」
「そうだよ。今だって、ほとんど怒ってないじゃん」
「ちゃんと駄目だって言ったよ」
「頭撫でながらね」
言われてみれば、そうだった。
「それに、最後また一緒にやろうって言われて何も言わなかったでしょ」
「……別に、それくらいは」
「ほら、そういうところ」
姉さんが笑う。
僕は外へ出る。
少し先では、桜がまだ待っていた。
「お兄ちゃん、早く!」
「今行くよ」
桜が笑う。
僕も鞄を持って、その後を追った。
多分、姉さんの言う通りなんだと思う。
僕は桜に、少し甘すぎる。
それでも、あの顔を見たら。
やっぱり、桜にはなかなか勝てない。




