第39話 飼ったら
夕食を食べていると、また犬の話になった。
「だから、飼いたいの」
桜が言う。
連休の最終日になっても、まだ諦めていなかった。何度か駄目だと言われているのに、それでもまだ言っている。
よっぽど犬を飼いたいらしい。
「桜」
母さんが箸を置く。
「犬を飼うっていうのはね、物を買うのとは違うのよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
桜が少しむっとした顔をする。
父さんも口を開いた。
「犬は生き物だからな。かわいいから欲しい、買ってきました。それで終わりじゃない」
僕は味噌汁を飲みながら聞いていた。
父さんの言うことはもっともだった。犬を飼えば、毎日ご飯をやらなければいけないし、散歩も必要になる。病気になれば病院にも連れていかなければならない。
今日は父さんと母さんを応援したかった。
そのまま桜を説得してくれれば、僕が反対しなくても済む。
「途中で飽きたからやめる、なんてこともできない」
「飽きないよ」
桜がすぐに言った。
「最後まで面倒を見る責任があるのよ」
母さんが続ける。
そこが一番大事だと思う。命なんだから、一度飼ったら途中でやめることはできない。
今日は父さんと母さんが、ずいぶん僕と同じことを考えている。
このまま話が終わればいい。
「ちゃんとお世話するもん」
桜はまだ諦めない。
「何年も?」
「する」
「毎日?」
「する」
「散歩も?」
「するよ」
父さんが聞く。
「雨の日もか?」
桜が一瞬だけ止まった。
「……する」
少し怪しい。
「学校から帰ってきて、疲れてても?」
「する」
「遊びに行きたい日も?」
「する!」
今度は少し強くなった。
桜もかなり本気らしい。
ここまで父さんと母さんに食い下がるのは珍しい。本当に欲しいんだと思う。
母さんが困ったように笑う。
「でも、桜はまだ小学三年生でしょ。一人で全部やるのは無理よ」
「できるよ」
「全部は無理。朝の散歩は? 学校に行く前に毎日早起きできる?」
桜が黙った。
「それに、大きな犬だったら一人で散歩するのも難しいかもしれないし」
「じゃあ、お姉ちゃんもやってくれる」
桜が姉さんを見る。
姉さんはご飯を食べながら顔を上げた。
「気が向いたらやるよ」
桜の顔が止まった。
「気が向いたら?」
「うん。散歩とか。暇だったら」
すぐに駄目だった。
「姉ちゃん、それじゃ駄目でしょ」
「やる時はやるって」
「犬の世話って、気分でするものじゃないでしょ」
僕が言うと、姉さんがこっちを見る。
「耀に言われたくない」
「僕、まだ何も引き受けてないけど」
「そこ強調する?」
父さんが姉さんを見る。
「響は当てにしない方がよさそうだな」
「なんでよ」
「今ので当てにできると思うか?」
「やる時はやるって言ってるじゃん」
母さんも笑う。
「その『やる時』がいつ来るか分からないのよ」
「みんな私に厳しくない?」
誰も否定しなかった。
姉さんが少し不満そうな顔をする。
犬が来たら遊んだりはするんだろうけど、毎日の世話を任せられる感じではない。
「お父さんもお母さんも仕事があるからね。もちろんできることはするけど、毎日全部っていうのは難しいのよ」
「うん……」
桜の声が少し小さくなった。
桜一人では無理。姉さんは気が向いた時しかやらない。父さんと母さんには仕事がある。
だったら、やっぱり飼うのは難しい。
「だから、もう少し大きくなってからでもいいんじゃない?」
母さんが言う。
よし、それがいい。
口には出さなかったけれど、少し安心した。
「でも……」
桜が俯いた。
箸を持ったまましばらく黙っていたので、さすがに諦めたのかと思った。
でも違った。
「ちゃんとやるから」
桜が顔を上げる。
「私、本当に犬欲しいの」
いつもより真剣だった。
まだ諦めないんだ。
ここまでくると、少し驚いた。
母さんが桜を見る。
「そこまでして、どうしてそんなに欲しいの?」
「だって……」
桜が少し考える。
「ココ、可愛かったもん」
佐倉の犬。
この前、一緒に散歩したココのことだった。
「触ったらあったかかったし、いっぱい尻尾振ってくれたし、一緒に歩くのも楽しかった」
「また佐倉さんと会った時に触らせてもらえばいいじゃない」
桜はすぐに首を振った。
「そうじゃないの」
「何が違うの?」
「家にいてほしいの。朝起きた時もいて、学校から帰ってきた時もいてほしい」
少し考えてから、また続ける。
「あとね、私、一人でお留守番する時、ちょっと寂しいし」
僕は桜を見た。
「寂しいの?」
「ちょっとだけ」
知らなかった。
父さんも母さんも仕事で、姉さんも僕も家にいない時、桜が一人で留守番することはある。そんな時に寂しいと思っていたらしい。
僕が家にいても、自分の部屋にいることは多い。
「でもココみたいな犬がいたら、一人じゃないでしょ?」
桜はそう言って、少し嬉しそうに笑った。
「それに、友達も犬飼ってるの」
「友達?」
「美咲ちゃんとか、結衣ちゃんとか」
知らない名前が二つ出てきた。
「写真いっぱい見せてくるの。昨日一緒に寝たとか、散歩行ったとか」
姉さんが笑う。
「それ、自慢されてるんじゃない?」
「自慢だよ、絶対。毎回見せてくるもん」
「毎回なら自慢かもね」
僕が言うと、桜が勢いよく頷いた。
「でしょ!」
「そこだけ急に僕の意見採用するんだ」
「だってお兄ちゃん分かってるもん」
「犬飼う話については何も分かってないけど」
「またそういうこと言う」
桜が頬を膨らませた。
姉さんが笑う。
「要するに、羨ましいんでしょ?」
「羨ましいよ」
そこは素直だった。
「私も犬の写真見せたいし」
「自慢する側になりたいだけじゃん」
「違うもん!」
「半分くらいそうでしょ」
「違う!」
多分、少しはそうなんだと思う。
でも、それだけでもない。
「ココに会う前から欲しかったし。でも、ココに会ったらもっと欲しくなったの」
友達の犬が羨ましかった。一人で留守番するのが寂しかった。それに、実際にココと触れ合って、一緒に歩いた。
桜の中では、それが全部つながっているらしい。
「ココみたいな子が家にいたら、絶対楽しいもん」
その顔は本気だった。
ただ犬を触りたいんじゃなくて、一緒に暮らしたいんだと思う。
「だから、ちゃんとやる。散歩もするし、ご飯もあげる。ちゃんと遊ぶし、病院にも一緒に行く」
「病院は一人じゃ無理でしょ」
姉さんが言う。
「じゃあ一緒に来てもらう」
「誰に?」
「……お母さん」
「仕事の日もあるわよ」
「お父さん」
「俺も仕事がある」
桜が少し考えた。
そして、僕を見る。
嫌な予感がした。
「お兄ちゃん」
「何?」
桜は箸を置くと、僕の方へ少し体を向けた。
「お兄ちゃんも一緒にやってくれるよね?」
「……僕?」
「うん」
「なんで?」
「犬好きでしょ?」
「まあ、好きだけど」
「じゃあ」
桜が両手を胸の前で合わせた。
少し首を傾げて、僕を見る。
「お兄ちゃん、お願い」
多分、少し狙ってやっている。
さっきまで父さんと母さんに必死に言い返していたのに、急に声まで少し柔らかくなった。
可愛い。
妹だからというのもあるけれど、普通に可愛いと思う。
でも、それとこれとは別だ。
ここで「いいよ」と言ったら、多分終わる。
「……お願いって言われても」
「駄目?」
またそんな顔をする。
「駄目とは言ってないよ」
桜の顔が少し明るくなる。
「じゃあいい?」
「いいとも言ってない」
「どっち?」
「分からない」
姉さんが吹き出した。
「耀、逃げるねえ」
「逃げてないよ」
「今のはだいぶ逃げてたよ」
父さんも僕を見る。
「耀はどうなんだ? 本当に犬を飼いたいのか?」
「犬は好きだよ」
「そうじゃなくて」
分かっている。
犬は好きだ。マロも好きだった。ココだって、会えば触りたいと思う。
でも犬はいつか死ぬ。
飼えば、その死まで一緒にいることになる。
それが怖い。
そんなことを家族には言えない。
「……嫌ではないけど」
母さんが聞く。
「飼いたい?」
「そこまでは……分からない」
姉さんが呆れたように僕を見る。
「本当に何一つはっきり言わないね」
「そう?」
「犬は好き。嫌でもない。でも飼いたいかは分からない」
「うん」
「認めるんだ」
桜は黙って僕を見ている。
「でも」
僕が言うと、すぐに顔を上げた。
「でも?」
「飼うことになったら、別に嫌ではないと思う」
「ほら!」
「何がほらなの」
「お兄ちゃんも嫌じゃないって」
「飼いたいとは言ってないよ」
「でも嫌じゃないんでしょ?」
「まあ……」
「じゃあいいじゃん」
またそれだ。
父さんが口を開く。
「じゃあ耀。もし本当に飼うことになったら、お前も面倒を見られるか?」
「僕が?」
「桜一人には任せられない。響は気が向いた時しかやらないし、俺たちも仕事がある」
「また私が戦力外になってる」
姉さんが言った。
「自分で気が向いたらって言ったでしょ」
「だから、気が向いたらやるって」
「犬の世話って、気分で決めるものじゃないでしょ」
「耀、今日ちょっと私に厳しくない?」
「普通だと思う」
父さんは僕たちを無視した。
「そうなると、お前にもやってもらうことになる」
僕は少し黙った。
もし本当に犬が来たら、桜がご飯を忘れていてもそのままにはしないと思う。散歩に行けないなら、多分僕が行くし、病気なら放っておけない。
考えてみれば、家にいる時間も僕が一番長い。そうなると、本当に僕しかいない時間が結構ある。
「どうなんだ?」
父さんがもう一度聞く。
「……まあ」
「まあ?」
「飼うことになったら、その時はやると思う」
「世話を?」
「うん」
「ちゃんと?」
「多分」
「多分じゃ困るぞ」
それもそうだ。
でも、まだ飼うと決まったわけではない。
「……ちゃんと飼うって決まったら、その時はやるよ」
桜がぱっと笑った。
「ほんと?」
「決まったらね」
「散歩も?」
「桜が行けないなら」
「ご飯も?」
「忘れてたら」
「遊ぶのは?」
「犬が遊びたそうなら」
姉さんが笑った。
「全部条件付きだ」
「だって、まだ犬いないし」
「まあ、それはそうだけど」
桜はそんなことを気にしていないらしい。
「じゃあ、お兄ちゃんもやってくれるんじゃん」
嬉しそうに言った。
今の答えだけをつなげれば、確かにそう聞こえる。
でも僕は、一度も「飼いたい」とは言っていない。
「耀」
母さんが言う。
「もし飼うなら、途中でやっぱり嫌っていうのは駄目よ」
「それは分かってる」
「最後までよ」
「うん」
そこだけは迷わなかった。
飼うなら最後まで。
だからこそ、簡単に飼いたいとは言えない。
「じゃあ、お兄ちゃんも一緒なら大丈夫じゃない?」
桜が父さんと母さんを見る。
「まだ飼うって言ってないよ」
「でも世話してくれるんでしょ?」
「飼ったらね」
「じゃあ大丈夫じゃん」
何が大丈夫なのか、よく分からない。
「私もちゃんとやるから」
「それはさっき聞いたわ」
母さんが笑う。
「本当にやるもん」
「分かった、分かった」
父さんは黙って考えていた。
母さんも、最初のようにすぐ「駄目」とは言わなくなっている。
今までなら、桜が犬を飼いたいと言って、父さんか母さんが難しいと言って終わっていた。
今日は違った。
誰が散歩をするのか。誰がご飯をやるのか。桜ができない時には誰が代わるのか。
本当に犬が家に来た後のことまで話していた。
多分、今までで一番本気で犬を飼うことについて話したと思う。
桜も今までで一番必死だった。
ココと一緒にいて楽しかったこと。一人で留守番する時は少し寂しいこと。友達の犬が羨ましいこと。
最後のは少しくらい自慢する側になりたいだけな気もするけれど、桜なりに犬と暮らしたい理由はちゃんとあった。
僕は結局、最後まで「飼いたい」とは言わなかった。
ただ、犬は好きだと言った。飼うことになったら世話はすると言った。
まだ何も決まっていない。
少なくとも、僕はそう思っていた。
「今日はもうご飯食べなさい」
母さんが言う。
「はーい」
桜は返事をして、ようやく残っていたご飯を食べ始めた。
僕も味噌汁を飲む。
もし本当に犬を飼ったら、一番面倒を見ることになるのは多分僕だ。
でも、僕はまだ飼うと決めたつもりはない。
飼ったらやる。
そう答えただけだった。




