第38話 知らなかったこと
夕方。
部屋にいたけれど、少し喉が渇いた。
一階へ下りると、リビングのソファに姉さんが座っていた。スマホを見ている。
僕は冷蔵庫から飲み物を出して、コップに注いだ。
それから少し迷う。
「姉さん」
「ん?」
スマホから目を上げる。
「今日のこと」
「何?」
「ありがとう」
姉さんの動きが止まった。
「……何が?」
「綾さん」
「ああ」
姉さんが少しだけ目を逸らす。
やっぱり、こういうのは姉さんも慣れていないらしい。
「でも」
僕は続ける。
「最初に言ってくれればよかったのに」
「何を?」
「僕が夢の話できる相手いないと思って、綾さん呼んだって」
姉さんは黙った。
「朝から家にいろって言われても、理由分からないし」
「うん」
「最初に言ってくれたら、あんなに文句言わなかったよ」
「……だって」
姉さんが小さく言う。
「恥ずかしいじゃん」
「何が?」
「弟のこと心配してます、みたいなの」
僕は姉さんを見る。
「姉なんだからいいでしょ」
「そういう問題じゃないの」
よく分からない。
でも、姉さんは少しだけ照れているように見えた。
「それに」
姉さんがスマホを置いた。
「綾が来たがったのも本当だから」
「そんなに夢の話聞きたかったんだ」
「それもあるけど」
「それも?」
姉さんが少し考える。
「これ、綾には言わないでよ」
「何を?」
「口止めされてるから」
「じゃあ言わない方がいいんじゃない?」
「そうなんだけど」
姉さんが僕を見る。
「でも、あんたには知っておいてほしいから」
少しだけ声が真面目になった。
「綾ね。昔、ああいう変な話ばっかりしてて、結構浮いてたの」
「今もしてそうだけど」
「してる」
即答だった。
「でも、昔は今よりひどかったみたい」
「何が?」
「変なやつって言われたり」
姉さんが少し間を空ける。
「いじめられたりもしてたって」
僕は少し驚いた。
今日の綾さんからは、あまり想像できなかった。
ずっと笑っていたし、僕が何を言ってもほとんど気にしていなかった。
「そうなんだ」
「うん」
姉さんが頷く。
「だから、あいつも昔は自分の好きな話をできる相手があんまりいなかったんだって」
僕は何も言わずに聞いた。
「一人でいることも多かったみたい。そういうの、綾は知ってるから」
姉さんが僕を見る。
「あんたの話をした時、ちょっと気にしてた」
「僕を?」
「うん」
「夢の話が聞きたいだけじゃなくて?」
「それもめちゃくちゃあると思う」
「あるんだ」
「そこは否定できない」
姉さんが少し笑った。
「でも、それだけじゃないよ」
「こういう話する相手いないんでしょ、とか」
「さっきも言われた」
「でしょ?」
姉さんが少しだけ笑う。
「自分も似たような感じだったから、気になったんだと思う」
そうなんだ。
僕は今日の綾さんを思い出す。
顔を近づけて、次は、他には、もっと、とずっと聞いてきた。
ただ面白がっているだけだと思っていた。
もちろん、それもあるんだと思う。
かなり。
でも、それだけではなかったらしい。
「だから、綾、あんたに会いたいって結構言ってた」
「何回もお願いしたって言ってたね」
「うん」
「姉さんが無理やり連れてきたんじゃなかったんだ」
「半分くらいは向こうから」
「半分なんだ」
「私は私で、会わせてもいいかなって思ったから」
僕は少し考える。
「綾さんに悪いこと言ったかも」
「何を?」
「変な人とか」
姉さんが笑った。
「それは合ってるから大丈夫」
「友達でしょ」
「友達だから言ってるの」
少し安心した。
綾さんはやっぱり変な人らしい。
「でも、あいつ、変だけどいいやつなのは保証する」
「うん」
それは今日だけでも、少し分かった気がする。
変なのは変だけど。
「連絡先くらい教えてあげればよかったのに」
「嫌だよ」
「なんで」
「絶対いっぱい質問来るから」
「まあ、来るだろうね」
「でしょ」
姉さんが笑う。
「でも、綾が人にあんなに興味持つの珍しいよ」
「夢に興味あるだけじゃない?」
「それだけでもすごいけどね」
僕は飲み物を一口飲んだ。
それから、もう一度姉さんを見る。
「姉さん」
「何?」
「本当にありがとう」
今度はちゃんと言った。
姉さんが少し黙る。
「……うん」
それだけだった。
でも、少しして姉さんが口を開いた。
「私も」
「何?」
「ごめん」
今度は僕が止まった。
「何が?」
「夢のこと」
姉さんが少し視線を下げる。
「あんたと二人になると、またああいう話されるんじゃないかって思って」
少し間が空いた。
「ちょっと避けてた」
僕は黙った。
なんとなく知っていた。
姉さんが夢の話を嫌がっているのは分かっていた。
でも、直接言われたのは多分初めてだった。
「私、本当にああいう話駄目なんだよね」
姉さんが苦笑いする。
「死んだとか」
「食べられたとか」
「そう。そういうの」
「今日も途中で逃げたしね」
「逃げたんじゃない。飲み物取りに行ったの」
「同じでしょ」
「違う」
二人で少し笑った。
それから、姉さんが僕を見る。
「でも」
声が少しだけ真面目になる。
「嫌だったからって、あんたまで避けたのは違ったと思う」
僕は姉さんを見る。
「ごめんね」
ちゃんと謝った。
姉さんが僕に。
珍しい。
「……別に」
そう答えた。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ嬉しかった。
「あと」
姉さんが言う。
「桜は知らないけど」
僕は黙って聞く。
「父さんと母さんにも、まだあの手の話はしない方がいいと思うよ」
「なんで?」
「私と同じで、今もあんまり得意じゃないと思うから」
少し考える。
昔は父さんも、母さんも、姉さんも僕の話を聞いていた。
でも、少しずつ聞かなくなった。
「分かった」
今、無理に話す必要はない。
話せる人は少しずつ増えている。
佐倉。
それから、綾さん。
十分なのかもしれない。
「ご飯できたよー」
キッチンから母さんの声がした。
姉さんが立ち上がる。
「行こ」
「うん」
僕も立って、一緒にダイニングへ向かった。
すると、桜が僕を見つけた。
「お兄ちゃん」
「何?」
すぐ近くまでやってくる。
「私ね」
「うん」
「もし犬飼うことになったら、名前決めた」
まだ諦めてなかったんだ。
「何にするの?」
「マロン」
僕は少し止まった。
「……マロン?」
「うん。可愛いでしょ?」
マロン。
その名前を聞いて、別の犬を思い出した。
マロ。
夢で、最後まで生きようとしていた犬。
名前は少し違う。
それでも、どうしても頭に浮かんだ。
やっぱり。
犬は飼わない方がいい。
桜には、できれば諦めてもらいたい。
「マロンって、栗のことだよね」
「そうだよ」
桜が嬉しそうに頷く。
「可愛いでしょ?」
「でも」
少し考える。
「もし白い犬だったら?」
「え?」
「白い犬なのに、栗って変じゃない?」
桜が止まった。
「……変?」
「ちょっと」
「そうかな」
「うん」
もちろん、白い犬にマロンとつけても何も問題はない。
「じゃあ、茶色い犬ならいい?」
「茶色い犬が来るとは限らないでしょ」
「そっか……」
桜が少し残念そうな顔をした。
少し申し訳ないとは思う。
でも、そのまま犬自体も諦めてくれれば、もっといい。
「じゃあ、また考える」
「うん」
桜は席についた。
僕は小さく息を吐く。
とりあえず、マロンはなくなったらしい。
少しだけほっとした。
名前を変えたところで、犬を飼う話そのものがなくなったわけではないけれど。
僕も席につき、家族で夕食を食べた。
桜は途中でも、また犬の名前を考えていた。
僕は聞こえないふりをした。




