第34話 食べる母
暖かかった。
最初に感じたのは、それだった。
柔らかいものに囲まれている。
狭い。
体のすぐ横に、何かがいる。
小さな音。
細い鳴き声。
僕の声にも聞こえた。
でも。
違った。
僕の隣にいる何かが鳴いている。
もう一匹。
その向こうにもいる。
体を動かそうとする。
動いた。
ほんの少しだけ。
僕が動かしたわけではない。
いつもの夢だった。
小さな前脚。
短い体。
目は、ほとんど見えていない。
何かが僕の顔を舐めた。
ざらざらしていた。
大きい。
暖かい。
匂いがする。
知っている匂いだった。
安心する。
理由は分からない。
でも、この匂いの近くにいればいい。
そう感じていた。
猫。
たぶん。
僕は子猫だった。
母猫が僕の体を舐める。
何度も。
頭。
背中。
腹。
僕の体は冷たかった。
隣にいる子猫たちは、もっと動いている。
母猫の腹へ集まっている。
小さな口をつけている。
僕もそこへ行こうとした。
体が動かない。
前脚が少し伸びる。
それだけだった。
お腹が空いていた。
何か飲みたい。
でも。
体に力が入らない。
鳴こうとした。
小さな音しか出なかった。
母猫が僕を見る。
顔が近づく。
また舐める。
安心した。
次の瞬間。
首に痛みが走った。
何が起きたのか分からなかった。
強く噛まれている。
体が持ち上がる。
痛い。
怖い。
鳴こうとする。
声が出ない。
母猫の口だった。
どうして。
そう思ったのかは分からない。
ただ。
さっきまで安心していた匂いが。
急に怖くなった。
体を動かそうとする。
小さな脚が震える。
逃げられない。
牙が食い込む。
皮膚が裂ける。
熱い。
母猫が僕を地面へ置いた。
一瞬。
口が離れる。
助かった。
そう感じた。
でも。
また噛まれた。
今度は腹だった。
強い痛み。
体が縮む。
僕の意思とは関係なく。
脚が何度も動いた。
母猫の顔が近い。
口が開く。
噛む。
引っ張る。
何かが体から離れていく。
痛い。
怖い。
なのに。
母猫の匂いは、まだ同じだった。
安心していた匂い。
生まれてからずっと近くにあった匂い。
それが。
僕を食べている。
視界の端で。
他の子猫たちが動いていた。
母猫の腹へ集まっている。
鳴いている。
生きている。
僕だけが。
少しずつ冷たくなっていった。
意識も少しずつ遠くなった。
何も感じなくなった。
それから。
目が覚めた。
天井が見えた。
自分の腹へ手を置く。
何もない。
首も。
腹も。
傷はなかった。
それでも、噛まれた感覚が少し残っていた。
僕は布団の中でしばらく動かなかった。
母親に。
食べられた。
今までにも、食べられる夢は見た。
蜘蛛にも食べられた。
他の生き物にも。
同じ種類の生き物に食べられることだってあった。
でも。
親に食べられたのは。
初めてだった。
母親だった。
生まれたばかりの自分を。
母親が食べた。
どうして。
あの母猫は、僕を食べたんだろう。
僕を嫌っていた。
そんな感じはしなかった。
食べられる直前まで。
僕の体を舐めてくれていた。
何度も。
僕も母猫の匂いに安心していた。
それなのに。
急に噛まれた。
食べられた。
他の子猫たちは。
何もされていなかった。
母猫の腹に集まって。
乳を飲んでいた。
僕だけだった。
何が違ったんだろう。
僕は天井を見たまま考える。
母猫が何を考えていたのかなんて。
分かるはずもない。
夢の中でも。
僕に伝わってきたのは、子猫の体の感覚だけだった。
考えても。
答えは出なかった。
僕はスマホを急いで取った。
検索画面を開く。
『猫 自分の子供 食べる』
入力する。
すぐにいくつも結果が出た。
最初に目についた記事を開く。
食仔。
そう書かれていた。
親が、自分の子を食べる行動。
猫でも起こることがあるらしい。
画面を下へ動かす。
理由は、一つではなかった。
生まれた時から弱っている。
死産している。
病気で長く生きられない。
そういう子猫を母猫が食べることがある。
死体を残しておけば、腐る。
病気が広がることもある。
匂いで外敵が寄ってくることもある。
残っている子猫まで危険になる。
僕は指を止めた。
夢の中。
隣にいた子猫たちは動いていた。
僕よりずっと元気だった。
母猫の腹に集まって。
乳を飲んでいた。
僕は。
そこまで行けなかった。
体が冷たかった。
ほとんど動かなかった。
続きを読む。
母猫自身が弱っている場合。
食べ物が足りない場合。
育たない子猫を食べることで、失った栄養を少しでも取り戻す場合もある。
その栄養で。
残った子供へ母乳を与える。
画面を見たまま、動けなくなった。
自分の子供を食べる。
その栄養で。
別の子供を育てる。
おかしな話だった。
でも。
野良猫なら、食べ物がいつでもあるわけではない。
安全な家もない。
病院もない。
全部を助けられるわけではない。
他にも理由は書かれていた。
人や動物の気配。
大きな音。
安心できない場所。
強いストレス。
若い母猫なら、初めての出産でうまく子供を認識できないこともある。
どれだったのかは分からない。
僕が見た夢だけでは。
母猫が何を考えていたのか。
僕には入ってこなかった。
僕が入っていたのは。
食べられた子猫の方だったから。
分かるのは。
お腹が空いていたこと。
寒かったこと。
母猫の匂いに安心していたこと。
食べられるのが怖かったこと。
それだけ。
だから。
あの母猫が、他の子供を守るために僕を食べたのか。
ただ空腹だったのか。
何かに怯えていたのか。
僕には分からない。
でも。
一つだけ。
画面に書かれていることと、夢の中の光景が重なった。
他の子猫たちは、生きていた。
僕はスマホを置いた。
蜘蛛のことを思い出す。
あの蜘蛛は。
自分が死んでも、その先に命を残した。
自分の体を使って。
次へ繋いだ。
でも。
今回の子猫は違う。
自分から死んだわけじゃない。
何かを残そうとしたわけでもない。
ただ。
弱かった。
育たなかった。
だから。
母親に食べられた。
その死で、他の子猫が本当に助かったのかは分からない。
それでも。
自然の中では。
全部を生かすことができない時があるらしい。
残すために。
一つを捨てる。
守るために。
我が子でさえ食べる。
人間から見れば、残酷だった。
子猫だった僕からしても。
ただ恐ろしかった。
それでも母猫の側から見れば。
違うものだったのかもしれない。
僕はもう一度、検索結果を見る。
食仔。
嫌な言葉だった。
画面を閉じる。
ベッドから起き上がる。
母親に食べられる子供。
そんな死に方もある。
そして。
それがただの残酷さだけではないことの方が。
僕には少し気持ち悪かった。




