第33話 作戦失敗
夕方。
昼にサッカーから帰ってきてから、部屋で適当に時間を潰していた。
でも、家にいるのにも珍しく飽きてきた。端末を眺め続けていたせいか、目も疲れている。
僕は画面を消した。
少し外を歩こうと思った。
この前みたいに、どこかへ行きたいわけじゃない。
今日もただの気分転換だった。
部屋を出て一階へ下りると、リビングでは桜が床に座ってテレビを見ていた。母さんは台所にいる。
「ちょっと出てくる」
母さんに言う。
「どこ行くの?」
「散歩」
そう答えると、桜が振り返った。
「お兄ちゃん散歩するの?」
「たまにはね」
「私も行く」
すぐに立ち上がる。
「なんで?」
「暇だから」
「もう夕方だよ」
窓の外を見る。
まだ明るいけれど、帰る頃には暗くなっているかもしれない。
「暗くなるかもしれないし、危ないよ」
「お兄ちゃんいるじゃん」
「僕がいても危ないものは危ない」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
桜が母さんを見る。
嫌な予感がした。
「お母さん、行っていい?」
母さんも窓の外を見る。
「耀と一緒ならいいんじゃない?」
「ほら」
「ほら、じゃない」
「耀、あんまり遅くならないようにね」
「……分かった」
決まってしまった。
一人で歩くつもりだったけれど、今日は二人になった。
外へ出ると、桜は僕の少し前を歩いていた。
「走らないで」
「走ってないよ」
「今走ってた」
「ちょっとだけ」
「転ぶよ」
「転ばないもん」
そう言った直後に、道路の段差につまずいた。
「ほら」
「転んでない」
確かに転んではいない。
桜は何事もなかったみたいに歩き続ける。
僕もその後を歩いた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何」
「犬、いつ飼うの?」
「まだ飼うって決まってない」
「でも、お母さん考えてもいいって言ってたよ」
「考えるだけ」
「どんな犬がいい?」
「分からない」
「ココみたいなのは?」
またココ。
昨日からずっと犬の話をしている。
「飼うって決まってから考えればいいんじゃない?」
「決まったらすぐ飼いたいじゃん」
「そんなすぐに飼えないよ」
「なんで?」
「色々あるから」
「色々って?」
「色々」
桜が不満そうに僕を見る。
その顔を見ながら、ふと思いついた。
桜はまだ実際にココを見ていない。
僕が話したのを聞いただけだ。
犬を飼いたいと言っているけれど、本物の犬を近くで見たら少しは気が変わるかもしれない。
思っていたより大きいとか、臭いとか、汚いとか、怖いとか。
そういうことを言い出せば、犬を飼いたいという話も少しは落ち着く。
まあ、今日ココに会えるわけじゃないけれど。
そう考えていた時だった。
前から犬が歩いてきた。
茶色と白。
見覚えのある犬だった。
僕は足を止める。
「……ココ」
「え?」
桜が前を見る。
犬の隣には佐倉がいた。
佐倉も僕に気づく。
「あ」
少し驚いた顔をする。
「宍戸くん」
「また会ったね」
「うん」
今日はいつもの散歩の時間なんだろう。
この前見えた佐倉の脚の痣も、今日はあまり目立たないようだった。
まだ明るいけれど、日が少し傾いている。
桜が僕の服を引っ張る。
小声で聞いてきた。
「お兄ちゃん」
「何」
「あれ、ココ?」
「うん」
桜の目が一気に大きくなる。
まさか本当に会うとは思わなかった。
でも、すぐに考え直す。
むしろ、ちょうどいいかもしれない。
実際に犬を見れば、怖がるかもしれない。
僕は佐倉を見る。
「妹」
桜を指す。
「桜」
「知ってるよ」
佐倉が少し笑った。
前に桜のことを佐倉に話したことがあったかもしれない。
桜が佐倉を見る。
「佐倉さんですよね?」
「え?」
佐倉が少し驚いた。
「兄がお世話になってます」
桜がぺこりと頭を下げる。
小学三年生とは思えない挨拶だった。
佐倉も一瞬どう返せばいいのか迷ったみたいだったけれど、すぐに少し笑った。
「佐倉です。こちらこそ、よろしくね、桜ちゃん」
「よろしくお願いします」
桜がもう一度頭を下げる。
どこで覚えたんだろう。
そんな挨拶。
「さくら」
僕が呼ぶ。
「何?」
「何?」
声が重なった。
僕は二人を見る。
桜と佐倉も、お互いを見る。
一瞬、二人とも笑った。
「同じ『さくら』ですね」
桜が言う。
「ほんとだね」
佐倉も笑っていた。
でも、なぜか少しだけ顔を赤くして、僕から目を逸らした。
……何だろう。
それにしても。
呼びにくい。
けれど、桜はもうその隣にいるココを見ていた。
「この子がココですか?」
「うん」
佐倉が答える。
桜が僕を見る。
顔がもう嬉しそうだった。
まだ触ってもいないのに。
「触っていい?」
僕に聞く。
「僕じゃなくて佐倉に聞いて」
桜がすぐに佐倉を見る。
「佐倉さん、触ってもいいですか?」
「いいよ」
佐倉がココの頭を撫でる。
「ココ、大丈夫だよ」
桜がゆっくり手を伸ばす。
その途中で、少しくらい怖くなるかもしれない。
そう思った。
ココが桜の手へ鼻を近づける。
桜が動きを止めた。
「わ」
少し驚く。
やっぱり。
そう思った次の瞬間。
「鼻、冷たい!」
笑った。
ココが桜の手の匂いを嗅ぎ、そのまま一歩近づく。
桜が頭を撫でる。
「ふわふわ!」
声が大きくなった。
「かわいい!」
駄目だった。
全然怖がっていない。
むしろ、僕が話した時より喜んでいる。
ココも嫌がる様子はなく、桜の手に頭を押しつけた。
「あっ、お兄ちゃんが言ってたやつ!」
「何」
「頭押しつけてくるやつ」
「そう」
「かわいい」
桜が笑いながらココの首や背中を撫でる。
尻尾も動いている。
「すごい懐いてるね」
佐倉も笑った。
「桜ちゃん、犬好きなの?」
「大好きです」
即答だった。
「今、飼いたいって言ってるんだよ」
僕が言う。
「そうなの?」
「はい。でもお兄ちゃん、飼いたいって言ったくせに難しいことばっかり言うんです」
「ちゃんと考えた方がいいって言ってるだけ」
「ほら、また言ってる」
違うと思う。
佐倉が少し笑った。
「ココみたいな犬がいいです」
桜が言う。
僕の作戦は、完全に失敗していた。
本物の犬に会えば、少しくらい嫌なところを見つけると思った。
臭いとか。
怖いとか。
汚れるとか。
でも、何一つ言わない。
むしろ余計に犬が好きになっている。
完全に逆効果だった。
まあ、ココの方から現れたんだけど。
そのまま少し、一緒に歩くことになった。
桜はココの隣から離れない。
「散歩って毎日するんですか?」
「うん」
「雨の日もですか?」
「行く時もあるよ」
「私もできそう」
佐倉に聞きながら、自分が犬を飼った時のことを考えているらしい。
さくらが、さくらに犬のことを聞いている。
……やっぱり紛らわしい。
家に帰って今日のことを話す時も、どっちのさくらなのかいちいち説明しないといけない気がした。
「ご飯は?」
「朝と夜」
「何食べるんですか?」
「いつもはドッグフード」
「おやつもあげるんですか?」
「たまに」
質問が止まらない。
佐倉は一つずつ答えている。
僕はその横を歩いた。
これでは、家に帰ったらもっと犬を飼いたいと言い出す。
間違いない。
「お兄ちゃん」
桜が急に立ち止まった。
「何」
しゃがみ込んで、ココの足を見ていた。
「ここ」
指を差す。
「怪我してない?」
僕も足を止めた。
佐倉がココを見る。
「え?」
ココの後ろ脚。
毛の間に、小さく赤くなっているところがあった。
よく見なければ分からないくらい。
少し毛も乱れている。
「……ほんとだ」
佐倉がしゃがむ。
ココの足へ手を伸ばした。
触れようとすると、ココが少しだけ足を引いた。
「痛いのかな」
桜が言う。
「かもしれない」
佐倉の顔から笑みが少し消えた。
「いつ怪我したんだろう」
「散歩中じゃない?」
僕が聞く。
佐倉は少し考えた。
「分からない。家を出る時は、気づかなかった」
桜も心配そうに覗き込む。
「血、出てますか?」
「少しだけかな」
「大丈夫ですか?」
「うん。帰ったら見てみる」
佐倉が頷く。
ココは普通に立っていた。
歩けないわけでもない。
尻尾も動いている。
触らなければ、あまり痛くはないのかもしれない。
大した怪我には見えなかった。
それでも。
僕は赤くなったところを見る。
小さな傷。
ただの擦り傷。
たぶん。
それだけだった。
「ごめんね」
佐倉が立ち上がる。
「今日はもう帰るね」
「うん」
「ココ、怪我してるし」
桜も頷いた。
「早く治るといいですね」
「うん。ありがとう。桜ちゃんが見つけてくれてよかった」
桜が少し嬉しそうな顔をする。
ココの頭をもう一度撫でた。
「またね、ココ」
ココが桜の手を嗅ぎ、尻尾を振る。
佐倉がリードを持ち直す。
「じゃあね、宍戸くん」
「うん」
「桜ちゃんも、またね」
「またね!」
佐倉とココが歩いていく。
桜はしばらく手を振っていた。
ココも一度だけ振り返った。
歩き方は普通だった。
少なくとも、僕にはそう見えた。
帰り道、桜はずっと機嫌がよかった。
「ココ、かわいかったね」
「うん」
「すごいふわふわだった」
「そうだね」
「私にも懐いたよね?」
「たぶん」
「尻尾振ってたもん」
「振ってた」
「やっぱり犬欲しいなあ」
やっぱり。
そうなると思った。
本物の犬に会わせれば、少しは諦めるかもしれない。
そんなことを考えた僕が間違っていた。
余計に欲しくなっただけだった。
完全に失敗だ。
桜が楽しそうに笑う。
「飼ったら、私毎日散歩するからね」
「まだ飼うって決まってないよ」
「分かってるって」
分かっている顔ではなかった。
僕も少し笑った。
でも、頭の中には別のものが残っていた。
ココの足。
毛の間に見えた、小さな傷。
たぶん、どこかで擦っただけ。
犬ならそれくらいの怪我はする。
外を歩いているんだから、そういうこともある。
なのに。
少しだけ嫌な感じがした。
理由は分からない。
ただ、あの小さな傷がなぜか頭に残っていた。
「お兄ちゃん」
桜が僕を見る。
「何」
「今度ココに会ったら、また触っていいかな」
「佐倉がいいって言えば」
「やった」
桜が笑った。
その声を聞いているうちに、さっきまであった嫌な感じも少しずつ薄れていった。
ただの怪我。
僕の考えすぎ。
それならいい。
その方が、ずっといいと思った。




