第32話 心配性
スマホの画面を眺めていた。
特に見るものはない。
ニュースを開いて、動画を見て、クラスのグループをなんとなく確認して閉じる。
その途中で、小林とのトークが目に入った。
開くと、昨日の夜に届いたメッセージが一件残っていた。
『明日、学校のグラウンドでサッカーするけど来る?』
見ていなかった。
送られてきた時間を見ると、その頃にはたぶん寝ていた。
時計は十時を少し過ぎている。
もう始まっているかもしれない。
少し迷った。
今から行っても遅い。
そう思ったけれど、メッセージの入力欄を押す。
『今からでも大丈夫?』
送ると、すぐに既読がついた。
『全然大丈夫』
続けて、
『来い来い』
と返ってくる。
僕は画面を見た。
前だったら、もう始まっているなら行かなかったと思う。
でも今日は、行ってもいい気がした。
それに、下からはまだ桜の声が聞こえている。
犬がどうとか、散歩がどうとか。
姉さんの声も混ざっている。
ちょうどいい。
僕は着替えて、財布とスマホを持って階段を下りた。
「どこ行くの?」
桜がすぐに気づいた。
「学校」
「休みなのに?」
「サッカー」
「小林君?」
「うん」
やっぱり名前を覚えている。
「行ってらっしゃい」
「うん」
「帰ってきたら犬の話するから」
僕は返事をせずに靴を履いた。
後ろで桜が何か言っていたけれど、そのまま家を出た。
休みの日に学校へ向かうのは、少し変な感じがした。
制服ではない。
鞄もない。
いつもの道なのに、別の場所へ行くみたいだった。
校門は開いていて、部活動に来ている生徒が何人かいる。
グラウンドの奥では運動部が練習していた。
小林たちは、その邪魔にならない端の方にいた。
六人くらい。
前に一緒にやったやつもいる。
小林が僕に気づいて手を上げた。
「宍戸!」
僕も近づく。
「遅い」
「昨日の見てなかった」
「既読くらいつけろよ」
「寝てた」
「何時に?」
「分からない」
小林が笑った。
「じいちゃんかよ」
「休みだから」
「休みの方が夜更かしするだろ、普通」
普通。
たぶん、そうなんだと思う。
「まあいいや。ちょうど休憩してたし」
小林がボールを僕の方へ転がす。
足を出すと、前より少し自然に止められた。
「お」
「何」
「ちゃんと止めた」
「前も止めたよ」
「三回に一回くらいな」
「そんなに失敗してない」
「してたって」
横にいた男子が笑う。
「宍戸、今日一点取れよ」
「無理」
「始まる前から諦めんなよ」
小林が言った。
前なら、こういう会話に何を返せばいいのか少し考えていた。
でも今は、
「じゃあ小林が全部パスして」
と、そのまま言えた。
「任せろ」
小林が胸を叩く。
本当にできるのかは知らない。
サッカーが始まった。
前と同じで、ちゃんとした試合ではない。
人数も少ないし、ゴールも適当。
ただボールを追いかけているだけだった。
それでも、前よりは動けた。
ボールが来ても、すぐに逃げるようなことはしなくなった。
一度、足元へ来たボールを止める。
前を見ると、小林が走っていた。
蹴る。
少しずれたけれど、小林のところまで届いた。
「ナイス!」
小林がそのまま前へ持っていく。
僕も走った。
息が上がる。
脚も重い。
それでも、前より長く走れている気がした。
何度かボールを取られた。
一度、空振りもした。
笑われたけれど、前みたいにそれだけで恥ずかしくはなかった。
次のボールが来たら、また走ればいい。
それだけだった。
しばらくして、小林がボールを追いかけた。
相手と並ぶ。
二人の足が近づく。
ボールが少し前へ転がって、小林がさらに足を伸ばした。
その時だった。
足が絡んだ。
小林の体が傾く。
「うわっ」
膝から地面に落ちて、そのあと手をついた。
乾いた音がした。
僕の足が止まる。
一瞬、今まで見てきたものが頭をよぎった。
転ぶ。
ぶつかる。
骨が折れる。
頭を打つ。
動かなくなる。
「小林!」
すぐに走った。
小林は地面に座り込み、膝を押さえている。
「いってぇ……」
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
そう言いながら手を離した。
膝の皮が擦れて、赤くなっている。
血が少しずつ滲んでいた。
「血出てる」
「見れば分かるって」
「頭打った?」
「打ってない」
「手は?」
「平気」
「足動く?」
「動くって」
小林が膝を曲げて伸ばす。
動いている。
「気持ち悪くない?」
「なんで?」
「頭打ったら――」
「だから打ってないって」
小林が僕を見る。
周りにいたやつらも集まってきた。
「小林、大丈夫か?」
「擦っただけ」
「保健室開いてんじゃね?」
「水で洗えばいいだろ」
みんな普通だった。
僕だけ、まだ小林の膝を見ていた。
血が流れている。
ほんの少し。
それでも気になった。
「ちゃんと洗った方がいい」
僕が言う。
小林が笑った。
「宍戸、心配しすぎ」
「でも」
「これくらい、いつもやるって」
「いつも怪我してるの?」
「サッカーしてたら擦り傷くらいするだろ」
横にいた男子が僕を見る。
「宍戸って、そういうやつだったんだな」
「どういう?」
「めっちゃ心配するやつ」
別のやつも笑った。
「思ったより優しいじゃん」
「別に」
「いや、優しすぎだろ。小林まだ生きてんぞ」
笑い声が出る。
僕は笑えなかった。
小林が立ち上がった。
少し足を引きずる。
「ほら、平気」
「平気な歩き方じゃない」
「擦ったから痛いだけ」
「無理しない方がいい」
「宍戸」
小林が僕を見る。
少し困ったように笑っていた。
「そんな簡単に人間死なないって」
「簡単に死ぬよ」
口から出た。
小林の笑顔が止まる。
周りも少し静かになった。
「……何が?」
「人間も」
僕は言った。
「生き物も。簡単に死ぬ」
転んだだけで。
ぶつかっただけで。
食べただけで。
眠っただけで。
死ぬ。
僕は知っている。
何度も。
何度も死んだから。
でも、そこまでは言えなかった。
小林が僕を見る。
「宍戸」
「何」
「たまに怖いこと言うよな」
「そう?」
「そうだよ」
横にいた男子が少し笑う。
「やっぱ変なやつじゃん」
「でも心配してくれてんだろ」
別のやつが言った。
小林が膝を見て、それから僕を見る。
「まあ」
少し笑った。
「心配してくれんのは、悪くないけど」
「じゃあ洗ってきた方がいい」
「そこはまだ言うのかよ」
「血出てるから」
「分かったって」
小林が笑う。
嫌そうではなかった。
水道まで一緒に行った。
小林が膝についた土を流す。
「痛っ」
「大丈夫?」
「それ禁止」
「何が?」
「大丈夫って聞くの」
「でも痛いって言った」
「水がしみただけ」
「そう」
小林は膝を洗い終えると、持っていたハンカチで適当に拭こうとした。
「汚いんじゃない?」
「じゃあどうすんだよ」
近くにいた部活の先生に言って、救急箱から消毒と絆創膏を借りた。
小林が大きめの絆創膏を貼る。
「これでいい?」
僕を見る。
「僕に聞かれても分からない」
「さっきまでめちゃくちゃ詳しそうだったじゃん」
「死なないか確認してただけ」
小林が止まった。
「……やっぱお前怖いわ」
「そう?」
「うん」
でも笑っていた。
少し休んでから、小林はまたサッカーへ戻った。
「やるの?」
「やるよ」
「無理しない方が」
「分かった。無茶しない」
小林が言う。
「だからそんな顔すんなって」
「どんな顔?」
「心配してる顔」
そんな顔をしていたつもりはなかった。
「してない」
「してる」
小林は笑って、ボールの方へ戻った。
そのあとは、さっきまでより少しだけ大人しくなった。
無理にボールへ飛び込まない。
誰かとぶつかりそうになると、一歩引く。
たまたまかもしれない。
でも一度、届きそうにないボールを追いかけようとして、小林が途中で止まった。
僕を見る。
「何?」
「いや」
小林が笑った。
「また宍戸に怒られそうだから」
「怒ってない」
「同じようなもんだろ」
そう言って、また走っていった。
僕は少し変な気分になった。
僕が心配したから、小林が無茶をしなかった。
そんなことは初めてだった。
昼を過ぎる頃、サッカーは終わった。
脚は重いけれど、前回ほどではなかった。
帰ろうとすると、小林に呼ばれる。
「宍戸」
「何」
「今日はありがとな」
「何が?」
「膝」
「僕、何もしてないけど」
「心配してくれただろ」
「血出てたから」
「やっぱ心配性じゃん」
小林が笑った。
「違う」
「じゃあ何?」
少し考える。
答えは簡単だった。
「死んでほしくないだけ」
言ってから、少し変だったかもしれないと思った。
でも小林は一瞬黙ったあと、
「また大げさだな」
と笑った。
それだけだった。
気味悪がるわけでもない。
聞き返すわけでもない。
「じゃあ、またな」
「うん」
小林が手を上げる。
僕も小さく手を上げた。
学校を出る。
やはり脚は疲れていた。
明日は、また筋肉痛になるかもしれない。
でも、前ほどひどくはならない気がした。
それよりも。
小林が最後に笑っていたことの方が、少しだけ頭に残っていた。




