第31話 逃げる
その夜も、夢を見た。
暗かった。
小さな体で、狭いところを進んでいた。
何かの匂いを追っていた。
前へ。
もう少しだけ。
体を押し込む。
すぐ近くに、匂いの元がある。
その時。
音がした。
何かが動いた。
次の瞬間。
体が挟まれた。
胸が押される。
息ができない。
体を捩った。
前へ行こうとした。
動かない。
後ろへ戻ろうとする。
それもできない。
何度も体を動かす。
何かを引っかいた。
固い。
動かない。
苦しい。
息を吸おうとする。
ほとんど入ってこない。
それでも。
逃げようとした。
まだ動ける。
まだ。
何度も体を捩った。
少しずつ、力が入らなくなる。
動かしていた体も。
だんだん動かなくなった。
最後に。
体が小さく震えた。
それから。
何も感じなくなった。
朝。
目を開ける。
何だったのかは覚えていた。
でも。
今さら考えるほどのことでもなかった。
前にも、似たようなものを見たことがある。
何かを求めて。
そこへ近づいて。
逃げられなくなって。
死ぬ。
珍しいことでもない。
苦しさも、もうほとんど残っていなかった。
いつもの夢だった。
今日も休みだった。
階段を下りると、もうみんな朝ご飯を食べていた。
「お兄ちゃん遅い」
桜が言った。
「休みだから」
「休みでも朝は朝だよ」
よく分からないことを言われた。
僕は自分の席へ座る。
母さんが味噌汁を置いてくれた。
「おはよう、耀」
「おはよう」
箸を持つ。
食べ始める。
「だからね、ちゃんと私が散歩するから」
桜が言った。
まだやっていた。
昨日の犬の話だった。
「毎日?」
母さんが聞く。
「毎日」
「朝も?」
「朝も」
「学校ある日も?」
「早く起きる」
昨日も聞いた気がする。
「私も行くって」
姉さんが言った。
「姉ちゃんは絶対行かない」
「行くって」
「昨日、最初だけって言ってたじゃん」
「最初は毎日行くよ」
「そのあとは?」
「気が向いたら」
「駄目じゃん」
桜が姉さんを見る。
姉さんは気にせずご飯を食べている。
実の弟より、犬の方にはまだ興味があるようだった。
ただ。
ろくに面倒を見る気はないみたいだけど。
なんでこんなに犬を飼いたがっているのか分からない。
普段は、僕が学校で何をしているかなんてほとんど聞かないくせに。
犬の話になった途端、これだった。
「まだ飼うって決めてないからね」
母さんが言った。
「でも昨日、考えてもいいって言ったじゃん」
「考えるとは言ったけど」
「じゃあ考えて」
「今考えてるの」
母さんが少し困った顔をする。
父さんも黙って味噌汁を飲んでいた。
僕はご飯を食べながら、その二人を見る。
頑張ってほしい。
できれば。
このまま負けないでほしい。
「ちゃんと世話するもん」
桜が言う。
「それを何年も続けられるかって話なの」
母さんが返す。
桜が少し黙る。
父さんが口を開いた。
「犬は長く生きるからな」
長く。
その言葉だけが耳に残った。
長く生きても。
最後には死ぬ。
考えそうになって、やめた。
朝から考えることじゃない。
「とにかく、まだ決めない」
母さんが言った。
桜が不満そうな顔をする。
「えー」
「えーじゃない」
「今日見に行くだけでも駄目?」
「まだ行かない」
「見るだけ」
「見たら欲しくなるでしょ」
「もう欲しいもん」
終わりそうにない。
僕は黙ってご飯を食べる。
できることなら。
桜のやりたいことには味方してやりたい。
普段なら、それでいい。
でも。
これだけは。
生き物を飼うことだけは、簡単に賛成したくなかった。
飼えば。
いつか死ぬ。
そこまで考えてしまう。
僕だけが。
たぶん、考えすぎている。
「お兄ちゃんも飼いたいって言ってるよ」
突然、桜が言った。
箸が止まった。
来た。
母さんが僕を見る。
父さんも。
姉さんまでこっちを見る。
「耀も飼いたいの?」
母さんが聞いた。
昨日。
僕は言ってしまった。
飼いたいかも、と。
本当は違う。
桜をがっかりさせたくなくて言っただけだった。
でも。
今ここで。
飼いたくない。
そう言えば。
昨日の言葉が嘘だったと分かる。
だからといって。
もう一度。
飼いたい。
そう言う気にもなれなかった。
「お兄ちゃん?」
桜が僕を見る。
僕は何も言わなかった。
代わりに。
ご飯を口に入れる。
噛む。
飲み込む。
味噌汁を飲む。
「耀?」
母さんがもう一度呼んだ。
聞こえていた。
でも。
何を言えばいいのか分からなかった。
残っていたご飯を食べる。
少しだけ早く。
味噌汁も全部飲む。
皿を空にする。
「ごちそうさま」
立ち上がった。
「お兄ちゃん」
桜が呼ぶ。
「何?」
「だから、犬――」
「父さんと母さんに聞いて」
それだけ言った。
「でも、お兄ちゃんは?」
また聞かれた。
答えたくなかった。
でも。
桜を無視するのも嫌だった。
「ごめん。ちょっと急いでるから」
「え?」
何に急いでいるのかは、自分でも分からない。
皿を流しへ置く。
そのままリビングを出た。
後ろから桜の声が聞こえたけど、今度は呼び止めてこなかった。
階段を上がる。
いつもより少しだけ速く。
自分の部屋へ入る。
ドアを閉めた。
静かになった。
とりあえず。
逃げられた。
ベッドへ座る。
スマホを手に取る。
画面をつける。
特に見るものはなかった。
それでも。
しばらく下へ指を動かしていた。




