第30話 犬を飼いたい
家に帰ると、母さんたちはまだ戻っていなかった。
姉さんの部屋のドアは閉まっている。たぶん、まだ寝ているか、スマホでも見ているんだと思う。
僕は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
母さんが用意していた昼飯が入っていたので、電子レンジで温めて一人で食べる。テレビはつけなかった。
さっきまで一緒に歩いていたココのことを思い出す。
柔らかい毛。
湿った鼻。
頭を撫でると、手に押しつけてきた。
マロとは違う。
それでも、犬を触ったのは嫌じゃなかった。
むしろ、少し楽しかった。
食べ終わって皿を流しへ置いた時、玄関が開いた。
「ただいまー」
桜だった。
廊下を走る音が近づいてくる。
「おかえり」
「お兄ちゃんいたんだ」
「いたよ」
桜がリビングへ入ってくる。
「どっか行ってた?」
「少し」
「どこ?」
「その辺」
「その辺ってどこ?」
「その辺散歩してた」
桜が少し不満そうな顔をして、そのまま僕の横を通り過ぎた。
と思ったら、急に止まった。
戻ってくる。
僕の服をじっと見る。
「お兄ちゃん」
「何?」
桜が僕の服をつまんで、何かを取った。
細い、茶色っぽい毛だった。
「これ、犬の毛じゃない?」
僕も見る。
「多分、僕のじゃないかな?」
「違うよ」
即答だった。
「なんで分かるの」
「お兄ちゃんの毛、こんなのじゃないもん」
「……そう」
「お兄ちゃん、嘘ついちゃだめだよ」
「すいません」
素直に謝った。
桜が少し考える。
「謝ったから許す」
「ありがとう」
なんで犬の毛まで分かるんだ。
桜をあまり甘く見ない方がいいのかもしれない。
「で、犬触ったの?」
「うん」
桜の顔が変わった。
「どこの犬?」
「佐倉の」
「佐倉さん?」
「うん」
「この前言ってた犬?」
「そう」
「ココ?」
僕は桜を見る。
「……名前、覚えてたの?」
「言ってたじゃん」
そうだった。
桜はこういうことを妙に覚えている。
「ココ、どんな犬だった?」
「普通の犬」
「それじゃ分かんない」
「茶色と白」
「大きい?」
「そんなに大きくない。普通」
「かわいい?」
「まあまあ」
「まあまあって何?」
「普通にかわいい」
「どれくらい?」
どれくらいと言われても困る。
「犬くらい」
「意味分かんない」
桜が笑う。
「触った?」
「触った」
「ふわふわ?」
「結構」
「どこ触ったの?」
「頭とか、首とか」
聞かれるたびに答える。
「頭撫でたら、自分から押しつけてきた」
「え、かわいい」
「尻尾も振ってた」
「いいなあ」
「男の人には、あんまり懐かないらしいけど」
「お兄ちゃんには懐いたの?」
「そうみたい」
「すごいじゃん」
何がすごいのかは分からない。
桜が僕の服についていた毛をもう一本見つけ、指でつまんで眺める。
「ココ、お兄ちゃんのこと好きなんじゃない?」
「初めて会っただけだけど」
「でも懐いたんでしょ?」
「佐倉もそう言ってた」
「いいなあ」
また言った。
今度は少し長かった。
嫌な予感がした。
「私も犬ほしい」
やっぱり。
「でも、飼うの大変だよ」
「なんで?」
「毎日世話しないといけないし」
「私するよ」
「毎日?」
「する」
「散歩も?」
「する」
「朝も?」
「する」
「雨の日も?」
桜が一瞬止まった。
「……する」
今、考えた。
絶対に考えた。
「ご飯もあげるし、水も替えるし」
「学校ある日もやるの?」
「帰ってからやる」
「朝は?」
「早く起きる」
今でも母さんに起こされている。
「毎日は結構大変だと思うよ」
「できるもん」
桜が頬を膨らませた。
僕は少し困った。
できることなら、桜の言うことには味方してやりたい。
欲しいものがあるならできるだけ応援してやりたいし、やりたいことがあるなら最初から駄目だとは言いたくない。
でも、生き物のことだけは簡単に賛成したくなかった。
飼うということは、生きている間だけの話じゃない。
いつか死ぬところまで続く。
僕は、それを知っている。
強く言えば、たぶん簡単だった。
無理。
飼いたくない。
そう言ってしまえばいい。
でも、桜にはあまりそういう言い方をしたくなかった。
父さんも母さんも姉さんも、昔は今より僕の夢のことを気にしていた。
変な夢を見たと言えば聞いてきたし、顔色が悪ければ心配もした。
でも、それが何度も続いた。
また変な夢。
また顔色が悪い。
またいつものこと。
少しずつ、聞かれなくなった。
それが悪いとは思わない。
ずっと続いているんだから、慣れるのも仕方ない。
でも、桜までそうなるのは嫌だった。
今はまだ、僕が少し変なら気づく。
変なことを言えば聞いてくるし、心配もする。
だから桜の前では、できるだけ普通にしていたい。
普通の兄として見ていてほしい。
犬が嫌いなわけではない。
むしろ好きだった。
マロも。
今日会ったココも。
かわいかった。
でも、犬を飼うと考えた瞬間、その先まで考えてしまう。
いつか死ぬ。
どれだけ長く一緒にいても、最後には死ぬ。
そして僕は、その時のことまで夢で見るかもしれない。
マロみたいに。
あの最後を。
もう一度。
「お兄ちゃんも犬好きでしょ?」
桜が聞いた。
「まあ」
「じゃあ、お兄ちゃんも飼いたいでしょ?」
すぐには答えられなかった。
本当は、飼いたくない。
犬が嫌だからじゃない。
好きだから。
死ぬところまで考えたくないから。
「飼いたくない」
そう言えばいい。
それだけだった。
でも桜は、犬を飼いたそうにしている。
僕が嫌だと言えば、たぶん残念そうな顔をする。
それが少し嫌だった。
それに、本当の理由を説明することもできない。
犬が死ぬのが怖い。
その死を、自分が夢で見るかもしれない。
そんなことを桜に言えば、また僕のことを心配する。
さっき「嘘ついちゃだめだよ」と言われたばかりだった。
それでも、これは言えなかった。
僕はできるだけ普通の顔をする。
「……まあ、飼いたいかも」
言ってしまった。
「ほんと?」
桜の顔が一気に明るくなる。
しまった。
そう思った時には遅かった。
「じゃあ飼おうよ」
「いや」
「飼いたいって言ったじゃん」
「言ったけど」
「じゃあ飼おう」
「僕たちだけじゃ決められないから」
「なんで?」
「父さんと母さんに聞かないと」
少なくとも、それで今は終わると思った。
「じゃあ夜聞く」
「……そう」
終わらなかった。
夕飯になった。
父さんも母さんも帰ってきていて、姉さんも部屋から出てきた。
全員で食べ始めて、まだ数分も経っていない。
桜が箸を置いた。
「ねえ」
嫌な予感がした。
「犬飼いたい」
本当に言った。
母さんが桜を見る。
「犬?」
「うん」
「急にどうしたの?」
「お兄ちゃんが今日、犬触ったんだって」
なぜ僕から始める。
「佐倉さんのココ。すっごいかわいかったって」
「そこまでは言ってない」
「言ったじゃん」
「かわいいとは言ったけど」
「ほら」
桜が勝ち誇った顔をする。
「耀、犬触ったの?」
母さんが聞く。
「偶然会ったから」
「佐倉さんって、学校の子?」
「うん」
「へえ」
母さんはそれ以上聞かなかった。
父さんも普通にご飯を食べている。
その時、それまで何の興味もなさそうに食べていた姉さんが顔を上げた。
「犬?」
「うん!」
桜が答える。
「いいじゃん。飼おうよ」
早かった。
「姉さんも?」
「犬かわいいじゃん」
なんでそこにはそんなに興味があるんだ。
僕が学校で誰と話したとか、サッカーをしたとか、そういうことにはほとんど何も聞かないくせに。
犬には食いつく。
「姉ちゃん、散歩する?」
桜が聞く。
「するする」
「絶対しないじゃん」
「するよ」
「毎日?」
「最初は」
「最初だけじゃん」
「じゃあ桜が行けばいいでしょ」
「私も行くもん」
もう飼うことが決まったみたいな話になっている。
「ちょっと待ちなさい」
母さんが二人を止めた。
「犬を飼うって、そんな簡単なことじゃないのよ」
「ちゃんと世話する」
桜がすぐに答える。
「毎日ご飯も必要だし、散歩もあるし、病気になったら病院にも連れていかないといけないし」
「する」
「お金もかかるぞ」
父さんが言った。
「お年玉あるよ」
「足りないと思う」
僕が言う。
桜が僕を見る。
「じゃあ、お兄ちゃんも出して」
「なんで」
「お兄ちゃんも飼いたいって言ったじゃん」
来た。
母さんが僕を見る。
「耀も飼いたいの?」
父さんも、姉さんも。
全員の目がこっちを向いた。
昼に適当に言った一言が戻ってきた。
「……まあ」
今さら違うとも言えなかった。
「ほら!」
桜が嬉しそうに笑う。
姉さんも笑った。
「耀も賛成ならいいじゃん」
「姉さんは何も世話しないでしょ」
「するって」
「最初だけ」
「桜まで言う?」
父さんが少し考える。
「飼うなら、最後まで面倒を見ることだな」
僕は父さんを見る。
反対ではなかった。
桜も同じことに気づいたらしい。
「じゃあいいの?」
身を乗り出す。
「まだ決めてない」
父さんが言う。
「えー」
「生き物だからな。欲しいだけで飼うものじゃない」
「ちゃんとするもん」
母さんも頷いた。
「そうね。すぐには決めないで、ちゃんと考えましょう」
桜が母さんを見る。
「じゃあ、飼ってもいいかもしれないってこと?」
「みんなでちゃんと世話できるなら、考えてもいいんじゃない?」
桜の顔が明るくなる。
「やった!」
「まだ決まってないって」
僕が言う。
「でも駄目じゃないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「どんな犬にする?」
姉さんまで言い始めた。
「小さいのがいいな」
「私は大きいのも好き」
「姉ちゃん世話しないじゃん」
「だからするって」
「最初だけでしょ」
また二人で話し始める。
母さんも笑っている。
父さんも、完全に反対するつもりはないらしい。
僕は黙ってご飯を食べた。
昼。
父さんと母さんに聞かないと駄目だから。
そう言えば、話は終わると思っていた。
終わるどころか。
少しだけ。
大変なことになった。




