第29話 ココ
あれから、三日経った。
その間にも、夢は見た。
小さな虫。
道路の端で動かなくなった鳥。
名前の分からない魚。
どれも、朝になれば少しずつ薄れていった。
蜘蛛の時みたいに、いつまでも頭に残る感情はなかった。
学校では、小林と話すことが少し増えた。
朝に会えば、挨拶する。
休み時間に何か言われれば、返す。
それだけのことが、前より普通になっていた。
佐倉とも、何度か話した。
蜘蛛の夢について、もう一度聞かれることはなかった。
僕も、自分から話さなかった。
あの昼休みだけ。
僕は少しだけ、自分の夢のことを話した。
それから何かが大きく変わったわけではない。
ただ、以前より話しかけられても困らなくなった。
そして、連休に入った。
休みなのに、今日は予定はなかった。
朝ご飯を食べて。
部屋に戻って。
タブレットを開いて。
気づけば、昼近くになっていた。
桜は朝から友達と遊びに行っている。
父さんと母さんも出かけていた。
姉さんは部屋にいるらしいけれど、朝から一度も顔を見ていない。
家の中は静かだった。
こういう日は、時間が長い。
学校がある日は、授業を受けていれば一日が進む。
でも、休みの日は違う。
何もしなければ、ずっと自分の部屋にいることになる。
僕はタブレットを閉じた。
少し気晴らしで外へ出ることにした。
理由はなかった。
何かを買いたいわけでもない。
ただ、家にいるよりはいいと思った。
外は暖かかった。
上着がなくても寒くない。
だから住宅街を歩く。
どこへ行くかは決めていなかった。
それでいい。
ずっと家にいる気分ではなかった。
コンビニへ行って帰るだけでもいい。
少し遠回りしてもいい。
そう考えながら歩いていると、前から犬が来た。
茶色と白の毛。
小さくはない。
でも、大きくもない。
首輪から伸びたリードの先に、女の子がいる。
見覚えがあった。
佐倉だった。
向こうも僕に気づいた。
少し目を大きくする。
「宍戸くん?」
「佐倉」
制服ではなかった。
薄い色の上着に、膝くらいまでのスカート。
学校で見る時より、少し違って見えた。
僕は佐倉の隣にいる犬を見る。
「この前、話してた犬?」
「うん」
佐倉が少し笑った。
「ココ」
「この子がココか」
名前を呼ばれた犬が、こちらを見る。
「何してるの?」
「散歩」
僕はココを見る。
「犬の?」
「うん」
ココがそのまま僕の方へ歩いてきた。
鼻を近づける。
靴。
ズボン。
手。
順番に匂いを嗅いでいく。
「人、大丈夫なの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「嫌いな人には吠えるから」
ココが僕の手を嗅ぐ。
吠えなかった。
「大丈夫みたい」
佐倉が言った。
僕は少し手を下げた。
ココの鼻が触れる。
湿っていた。
そのあと、頭を近づけてくる。
撫でていいのか分からず、佐倉を見る。
「撫でても平気だよ」
僕はココの頭へ手を置いた。
毛は思っていたより柔らかかった。
ココは逃げない。
少し耳を倒す。
そのまま僕の手に頭を押しつけてきた。
「懐いてる」
佐倉が言った。
「初めて会ったのに」
「ココ、男の人にはあんまりこうしないんだけど」
「そうなの?」
「うん」
少しだけ気になった。
でも、理由までは聞かなかった。
ココの首のあたりを撫でる。
犬を触ると、マロを思い出した。
毛の感触は違う。
大きさも違う。
匂いも違う。
当然だった。
別の犬だ。
それでも。
犬の頭へ手を置いた時の感覚だけは、少し似ていた。
ココが急に前へ進んだ。
リードが引っ張られる。
「ココ、待って」
佐倉が一歩踏み出す。
その時。
スカートの裾が少し上がった。
膝の少し下。
脛の横に、色の変わったところが見えた。
青紫色。
小さくはない。
でも、前に見たあざほどひどくはなかった。
そういえば最近は、前ほど目立つあざを見かけなくなっていた。
もう大丈夫なのかと思っていた。
僕は足を止めた。
佐倉が気づく。
僕の視線を追う。
すぐにスカートの裾を下ろした。
今までなら、何も聞かなかったと思う。
佐倉のことだ。
僕には関係ない。
そう思って終わっていた。
でも今日は、少しだけ気になった。
「それ」
口に出してから、聞いていいのか迷った。
佐倉が少し笑った。
「ぶつけただけ」
「どこに?」
「家で」
答えが早かった。
「机かな」
……かな。
自分でぶつけた場所なのに。
そう思った。
でも、何も言わなかった。
佐倉がリードを持ち直す。
「私、よくぶつけるから」
「そう」
「うん」
笑っていた。
いつもの顔だった。
でも。
この前、僕が夢の話をした時。
佐倉は、僕が答えに迷ったらそれ以上聞かなかった。
話したくないならいい、と言った。
だから僕も、それ以上聞かなかった。
「ココ、行くよ」
佐倉が歩き出す。
ココもついていく。
数歩進んだあと、ココがこちらを振り返った。
佐倉も振り返る。
「宍戸くん、どこ行くの?」
「特に決めてない」
「散歩?」
「たぶん」
佐倉が少し笑った。
「じゃあ、一緒だね」
一緒。
僕はその言葉を聞いてから、二人の方へ歩いた。
「少しだけなら」
「うん」
ココを間に挟むようにして歩く。
「休みの日って、いつもこの時間に散歩してるの?」
「ううん。今日はたまたま」
「そうなんだ」
「ココが行きたがってたから」
佐倉が言うと、ココは少し先を歩いた。
「いつもは、もう朝か夕方」
「じゃあ、今日会ったのも偶然か」
「うん」
住宅街を歩く。
ココはあちこちの匂いを嗅いだ。
電柱。
植木。
道路の端。
何かを見つけるたびに止まる。
そのたびに僕たちも止まった。
「毎日散歩してるの?」
「だいたい」
「佐倉が?」
「うん。私が行けない時は、お母さん」
「好きなんだ」
「ココ?」
「うん」
佐倉は少し考えるようにココを見る。
「好き」
さっきまでより、はっきりした声だった。
「家で一番、私のこと分かってるかも」
「犬なのに?」
「犬だからかも」
ココが振り返る。
名前を呼ばれたと思ったのかもしれない。
佐倉が笑う。
「ね?」
ココは何も答えない。
そのまま歩き始めた。
「喋れないけど」
佐倉が言う。
「嫌な時は嫌って言うし、嬉しい時はすぐ分かるから」
僕はココを見る。
尻尾が左右に動いている。
確かに、分かりやすかった。
人間より。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
しばらく一緒に歩いた。
ココは何度も立ち止まった。
僕が頭を撫でると、もう警戒する様子もない。
むしろ自分から近づいてくる。
マロとは違う。
分かっている。
それでも。
この犬が死ぬところは、見たくないと思った。
考えてから。
すぐにやめた。
まだ生きている。
目の前で。
暖かくて。
尻尾を振っている。
今、死ぬことを考える必要はない。
「どうしたの?」
佐倉が聞いた。
「なんでもない」
答える。
佐倉が僕を見る。
少しだけ間があった。
でも。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
少し先で、道が二つに分かれていた。
佐倉が足を止める。
「私、こっちだから」
「うん」
佐倉がココを見る。
「もう少し歩きたいみたいだし」
ココはまだ先へ行きたそうに、鼻を動かしている。
「じゃあね、宍戸くん」
「また学校で」
「うん」
佐倉が歩き出す。
ココもついていく。
少し進んだところで、ココだけが振り返った。
僕を見る。
尻尾が動く。
僕は小さく手を上げた。
ココはまた前を向いた。
佐倉と一緒に、道の向こうへ歩いていく。
僕はその場に少しだけ立っていた。
佐倉の足にあったあざを思い出す。
前に見たものよりは、薄かった。
ぶつけただけ。
そう言っていた。
だから、それ以上は聞かなかった。
でも。今までなら、聞こうともしなかった。
そのことが、少しだけ。
頭の隅に残った。




