第29話 ココ
あれから三日経った。
その間にも夢は見た。
小さな虫。
道路の端で動かなくなった鳥。
名前の分からない魚。
どれも朝になれば少しずつ薄れていって、蜘蛛の時みたいに、いつまでも頭に残る感情はなかった。
学校では、小林と話すことが少し増えた。
朝に会えば挨拶をする。休み時間に何か言われれば返す。
それだけのことが、前より普通になっていた。
佐倉とも何度か話したけれど、蜘蛛の夢についてもう一度聞かれることはなかった。僕も自分からは話さなかった。
あの昼休みに、少しだけ話した。
それで何かが大きく変わったわけではない。
ただ、以前より佐倉に話しかけられても困らなくなった。
そして、連休に入った。
休みなのに、今日は予定がなかった。
朝ご飯を食べて部屋に戻り、タブレットを見ているうちに、気づけば昼近くになっていた。
桜は朝から友達と遊びに行っている。父さんと母さんも出かけていて、姉さんは部屋にいるらしいけれど、朝から一度も顔を見ていない。
家の中は静かだった。
こういう日は時間が長い。
学校がある日は、授業を受けていれば勝手に一日が進む。でも休みの日は、何もしなければずっと自分の部屋にいることになる。
僕はタブレットを閉じた。
何かを買いたいわけでも、行きたい場所があるわけでもない。
ただ、家にいるよりはいいと思って、外へ出ることにした。
◆ ◆ ◆
外は暖かかった。
上着がなくても寒くない。
どこへ行くかは決めず、住宅街を歩く。コンビニへ行って帰るだけでもいいし、少し遠回りしてもいい。
そう考えながら歩いていると、前から犬が来た。
茶色と白の毛。
小さくはないけれど、大きくもない。
首輪から伸びたリードの先に、女の子がいる。
見覚えがあった。
佐倉だった。
向こうも僕に気づいて、少し目を大きくする。
「宍戸くん?」
「佐倉」
制服ではなかった。
薄い色の上着に、膝くらいまでのスカート。
学校で見る時とは少し違って見えた。
僕は佐倉の隣にいる犬を見る。
「この前、話してた犬?」
「うん」
佐倉が少し笑った。
「ココ」
「この子がココか」
名前を呼ばれた犬が、こちらを見る。
「何してるの?」
「散歩」
僕はココを見る。
「犬の?」
「うん」
ココがそのまま僕の方へ歩いてきた。
鼻を近づけて、靴、ズボン、手の順番に匂いを嗅いでいく。
「人、大丈夫なの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「嫌いな人には吠えるから」
ココが僕の手を嗅ぐ。
吠えなかった。
「大丈夫みたい」
佐倉が言った。
僕が少し手を下げると、ココの鼻が触れた。
湿っていた。
そのまま頭まで近づけてくる。
撫でていいのか分からず佐倉を見ると、
「撫でても平気だよ」
と言った。
僕はココの頭へ手を置く。
毛は思っていたより柔らかかった。
ココは逃げず、少し耳を倒して、そのまま僕の手に頭を押しつけてくる。
「懐いてる」
佐倉が言った。
「初めて会ったのに」
「ココ、男の人にはあんまりこうしないんだけど」
「そうなの?」
「うん」
少しだけ気になった。
でも、理由までは聞かなかった。
ココの首のあたりを撫でる。
犬を触ると、マロを思い出した。
毛の感触も、大きさも、匂いも違う。
当然だった。
別の犬だ。
それでも、犬の頭へ手を置いた時の感覚だけは少し似ていた。
ココが急に前へ進んだ。
リードが引っ張られる。
「ココ、待って」
佐倉が一歩踏み出す。
その時、スカートの裾が少し上がった。
膝の少し下。
脛の横に、色の変わったところが見えた。
青紫色。
小さくはない。
でも、前に見たあざほどひどくはなかった。
最近は学校でも、前ほど目立つあざを見かけなくなっていた。
もう大丈夫なのかと思っていた。
僕は足を止めた。
佐倉が気づいて、僕の視線を追う。
すぐにスカートの裾を下ろした。
今までなら、何も聞かなかったと思う。
佐倉のことだ。
僕には関係ない。
そう思って終わっていた。
でも今日は、少しだけ気になった。
「それ」
口に出してから、聞いていいのか迷った。
佐倉が少し笑う。
「ぶつけただけ」
「どこに?」
「家で」
答えが早かった。
「机かな」
……かな。
自分でぶつけた場所なのに。
そう思ったけれど、何も言わなかった。
佐倉がリードを持ち直す。
「私、よくぶつけるから」
「そう」
「うん」
佐倉は笑っていた。
いつもの顔だった。
この前、僕が夢のことを話した時。
答えに迷っていると、佐倉はそれ以上聞かなかった。
話したくないならいい、と言った。
だから僕も、それ以上は聞かなかった。
「ココ、行くよ」
佐倉が歩き出し、ココもついていく。
数歩進んだあと、ココがこちらを振り返った。
佐倉も振り返る。
「宍戸くん、どこ行くの?」
「特に決めてない」
「散歩?」
「たぶん」
佐倉が少し笑った。
「じゃあ、一緒だね」
一緒。
その言葉を聞いてから、僕は二人の方へ歩いた。
「少しだけなら」
「うん」
ココを間に挟むようにして歩く。
「休みの日って、いつもこの時間に散歩してるの?」
「ううん。今日はたまたま」
「そうなんだ」
「ココが行きたがってたから」
佐倉が言うと、ココは少し先を歩いた。
「いつもは、もう少し朝か夕方」
「じゃあ、今日会ったのも偶然か」
「うん」
住宅街を歩く。
ココは電柱や植木、道路の端など、何かを見つけるたびに立ち止まって匂いを嗅いだ。
そのたびに僕たちも止まる。
「毎日散歩してるの?」
「だいたい」
「佐倉が?」
「うん。私が行けない時は、お母さん」
「好きなんだ」
「ココ?」
「うん」
佐倉は少し考えるようにココを見る。
「好き」
さっきまでより、はっきりした声だった。
「家で一番、私のこと分かってるかも」
「犬なのに?」
「犬だからかも」
ココが振り返る。
名前を呼ばれたと思ったのかもしれない。
佐倉が笑った。
「ね?」
ココは何も答えず、そのまま歩き始めた。
「喋れないけど、嫌な時は嫌って言うし、嬉しい時はすぐ分かるから」
僕はココを見る。
尻尾が左右に動いている。
確かに分かりやすかった。
人間より。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
しばらく一緒に歩いた。
ココは何度も立ち止まった。
僕が頭を撫でても、もう警戒する様子はない。むしろ自分から近づいてくる。
マロとは違う。
分かっている。
それでも、この犬が死ぬところは見たくないと思った。
考えて、すぐにやめた。
まだ生きている。
目の前で、暖かくて、尻尾を振っている。
今、死ぬことを考える必要はない。
「どうしたの?」
佐倉が聞いた。
「なんでもない」
佐倉が僕を見る。
少しだけ間があった。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
少し先で、道が二つに分かれていた。
佐倉が足を止める。
「私、こっちだから」
「うん」
佐倉がココを見る。
「もう少し歩きたいみたいだし」
ココはまだ先へ行きたそうに、鼻を動かしている。
「じゃあね、宍戸くん」
「また学校で」
「うん」
佐倉が歩き出し、ココもついていく。
少し進んだところで、ココだけが振り返った。
僕を見る。
尻尾が動く。
僕は小さく手を上げた。
ココはまた前を向き、佐倉と一緒に道の向こうへ歩いていった。
僕はその場に少しだけ立っていた。
佐倉の足にあったあざを思い出す。
ぶつけただけ。
そう言っていたから、それ以上は聞かなかった。
でも。
今までの僕なら、最初から聞こうともしなかった。
その違いだけが、少し頭に残った。




