第27話 普通の顔
階段を下りると、一段目で太ももの奥が引っ張られた。
痛い。
思わず手すりをつかむ。
昨日走っていた時には何ともなかったのに、家へ帰る途中から少しずつ重くなって、朝になって本格的に痛み始めたらしい。
もう一段下りる。
また痛んだ。
筋肉痛だった。
昨日、自分の足で走ったから残っている痛み。
夢の中で誰かが受けたものではない。
腹には傷なんてない。それでも昨夜のことを思い出すと、牙が刺さった場所が分かるような気がした。
蜘蛛の体。
八本の脚。
黒い牙。
自分の腹を食べられながら、それでも何かを続けていた。
あの蜘蛛は、死ぬのが怖くなかったわけではない。
牙が刺されば体を縮めていた。逃げたがっていたし、最後まで生きたいという感覚もあった。
それなのに、最後には喜んでいた。
何かをやり終えた。
何かを残せた。
そのことを喜んでいた。
マロとも、牛とも違った。
マロは死を怖がってはいなかった。でも、もっと一緒にいたがっていた。
牛は最後まで死ぬことを拒んでいた。
蜘蛛は死にたくないのに、自分が生き残ることとは別の何かを最後までやろうとしていた。
死ぬことを受け入れることと、全部を諦めることは、同じではないのかもしれない。
朝、少しだけ調べた。
大きな雌に近づき、自分から腹を向ける雄の蜘蛛がいるらしい。
けれど、記事の続きを読む前に母さんに呼ばれた。
あとで続きを調べればいい。
そう思いながら、また階段を下りる。
太ももが痛んだ。
さっきより少し膝を曲げないように歩く。
こっちの痛みは分かりやすかった。
昨日走った。
だから痛い。
それだけだった。
◆ ◆ ◆
居間へ入る。
「おはよう」
母さんが言った。
「おはよう」
できるだけ普通に歩いたつもりだった。
桜が僕を見る。
すぐに首を傾げた。
「お兄ちゃん、歩き方変だよ」
「変じゃない」
「変だよ」
桜が椅子から立ち上がり、膝をほとんど曲げずに体を左右へ揺らしながら歩いた。
「こんな感じ」
「そんな歩き方してない」
「してる」
桜が笑う。
僕は椅子へ座ろうとした。
足を曲げた瞬間、太ももが痛んで動きが止まる。
「ほら」
桜がすぐに言った。
「痛いんじゃん」
「少しだけ」
「筋肉痛でしょ?」
「たぶん」
「やっぱり」
桜は楽しそうだった。
「サッカーした次の日に足痛いんだから、筋肉痛だよ」
「そうかも」
否定しても仕方なかった。
本当によく見ている。
歩き方が少し違うだけで気づく。
座る時に一瞬止まっただけでも気づく。
少し格好悪いけれど、今日みたいなものなら別にいい。
筋肉痛なら、笑われるだけで済む。
「無理して動いたんじゃない?」
母さんが味噌汁を置きながら言った。
「そんなにやってない」
「普段動いてないからよ」
それは否定できなかった。
父さんは新聞を読んでいる。
姉さんはスマートフォンを見ながら朝食を食べていた。
いつもと同じ朝だった。
僕も箸を持って、ご飯を食べる。
「眠そうね」
母さんが言った。
「昨日、疲れたから」
「サッカーで?」
「うん」
嘘ではない。
本当に疲れていた。
ただ、それだけでもなかった。
昨夜は蜘蛛になった。
腹を食べられた。
死にたくないのに、最後には喜んでいた。
そんな話まで朝の食卓でする必要はない。
「今日もサッカーするの?」
桜が聞いた。
「分からない」
「小林君から連絡来てないの?」
「……名前、覚えてたの?」
「昨日言ってたじゃん」
桜は当たり前みたいに言った。
歩き方だけではない。
誰とサッカーをしたのかまで覚えていた。
僕はスマートフォンを取った。
昨日入ったクラスのグループには、いくつかメッセージが増えている。
関係のない話。
短い動画。
誰かが送ったスタンプ。
その中に、小林のメッセージがあった。
『宍戸、明日絶対筋肉痛だろ』
昨夜のうちに送られていた。
その下には、笑っているスタンプがいくつか並んでいる。
桜が横から画面をのぞく。
「当たってる」
「見るなよ」
「返さないの?」
少し迷った。
昨日までなら、そのまま画面を閉じていたかもしれない。
僕は文字を打つ。
『なった』
送信すると、すぐに既読がついた。
少しして、小林から返事が来る。
『やっぱり』
続けて、笑っているスタンプ。
「なんて?」
桜が聞く。
「別に」
「お兄ちゃん、笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってるよ」
桜も笑った。
僕はスマートフォンを伏せた。
前なら、鏡を見て笑い方を考えていた。
どうすれば普通に見えるのか。
どんな顔をすれば、桜に心配されないのか。
でも今は、そんなことを考えていなかった。
小林のメッセージを見て、少し笑った。
それだけだった。
桜はまだ笑っている。
僕もそのまま朝ご飯を食べた。
◆ ◆ ◆
家を出る。
一歩進むと、太ももが痛んだ。
昨日の校庭を思い出す。
ボールを追った。
空振りした。
転んだ。
小林にパスを出した。
ナイスと言われた。
その全部を、自分の体でやった。
その結果が、この筋肉痛だった。
そう思うと、少しくらい痛くても悪い気はしなかった。
誰もいない道では、歩き方を少し崩した。
桜に見られたら、また笑われそうだった。
学校が近づく。
校舎へ入り、階段を見る。
嫌な予感がした。
一段上る。
痛い。
二段目も、やっぱり痛かった。
小林の言ったとおりだった。
ゆっくり上っていると、途中で誰かに抜かされた。
別にいい。
ようやく教室へ着き、扉を開ける。
すでに何人か来ていた。
小林が僕に気づいて、片手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
僕も小さく手を上げ、自分の席へ向かった。
小林が僕の歩き方を見る。
少しだけ間があった。
それから笑った。
「やっぱ筋肉痛じゃん」
「少しだけ」
「少しの歩き方じゃないだろ」
「普通に歩いてる」
「どこが」
桜だけではなかった。
小林にもすぐに見抜かれた。
「朝、グループに『なった』って送ってたし」
「そうだけど」
「今日もやれば治るかもな」
「悪化すると思う」
「じゃあ明日だな」
また次の話をしている。
僕は少し笑った。
「治ってたら」
「絶対まだ痛いって」
小林も笑う。
僕は鞄を机に置き、ゆっくり椅子へ座った。
少し痛かった。
「ほら」
「うるさい」
小林がまた笑う。
僕も笑った。
鏡を見ながら練習した顔ではなかった。
普通にしようと考えて作った顔でもなかった。
ただ小林と話していたら、そうなっていた。
たぶん。
こういう顔のことを、普通と言うのだと思った。




