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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸 耀


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第27話 普通の顔

階段を下りる。


一段目で、太ももの奥が引っ張られた。


痛い。


思わず手すりをつかむ。


昨日、走った時には何ともなかった。


家へ帰る途中から少しずつ重くなって、朝になって本格的に痛み始めたらしい。


もう一段下りる。


また、太ももが痛んだ。


これは筋肉痛だった


昨日、自分の足で走ったから残っている痛み。


夢の中で誰かが受けたものではない。


腹に残っている感覚とは、まるで違った。


腹には傷なんてない。


食べられてもいない。


それでも、思い出すと、牙が刺さった場所が分かるような気がする。


蜘蛛の体。


八本の脚。


黒い牙。


自分の腹を食べられながら、それでも何かを続けていた。


あの蜘蛛は、死ぬことを分かっていたように思う。


大きな雌へ近づけば、食べられる。


腹を牙へ向ければ、自分は死ぬ。


それでも、自分から近づいていった。


牙が刺さった時には、体が縮んだ。


痛がっていた。


怖がってもいた。


けれど。


あの蜘蛛は、自分が生き残ることを求めていなかった。


少なくとも、最後にはそう感じた。


ここから逃げて、自分だけが生き延びる。


そんな希望ではなかった。


それなのに。


絶望していたわけでもなかった。


何かをしていた。


何かを終わらせようとしていた。


自分が死んだあとにも、何かが残る。


そのことに、あの蜘蛛は希望を持っていた。


だから最後に、喜んだのかもしれない。


何をしていたのかは、まだ分からない。


朝、少しだけ調べた。


大きな雌に近づき、自分から腹を向ける雄の蜘蛛がいるらしい。


けれど、記事の続きを読む前に母さんに呼ばれた。


あとで続きを調べればいい。


そう思いながら、また階段を下りる。


足が痛い。


さっきより少しだけ膝を曲げないように歩く。


筋肉痛と、蜘蛛のことは別だった。


こっちは僕の体。


昨日、僕が走った結果だ。


そう考えると、この痛みはそこまで嫌ではなかった。


僕はずっと、死ぬものは最後には何もかも諦めるのだと思っていた。


逃げられない。


助からない。


何をしても変わらない。


なら、あとは死ぬまで待つしかない。


夢の中の僕が、ずっとそうだったから。


体を動かせない。


声も出せない。


何を考えても、最後は変わらない。


だから、死んでいくものは皆同じなのだと思っていた。


でも。


少しずつ違うものが見えるようになった。


マロは、最後まで生きようとしていた。


牛も、死ぬことを拒んでいた。


あの蜘蛛は、その二つとは違った。


自分が生き残ることは、もう諦めていた。


それでも、希望まで捨ててはいなかった。


自分ではない何か。


自分のあとに続く何か。


それを残そうとしていた。


死ぬことを受け入れることと。


全てを諦めることは。


同じではないのかもしれない。


以前の僕なら、そんな違いには気づかなかったと思う。


夢の中で分かるのは、痛みだった。


苦しさと恐怖。


体が壊れていく感覚。


それだけだった。


最近は違う。


何を怖がっているのか。


何を求めているのか。


何を最後にしようとしているのか。


言葉になっているわけではない。


それでも、前より深いところまで僕の中に流れ込んでくる。


マロの時から、僕の夢は少しずつ変わっている。


僕が変わろうとしていることと、関係があるのだろうか。


学校で人と話すようになった。


小林の誘いを断らなかった。


昨日は、誰かと一緒に走った。


またやろうと言われて、考える前に返事をした。


そんなことで夢が変わるのかは分からない。


でも、僕が今までしなかったことをするようになってから。


夢の中でも、今まで分からなかったものが見えるようになっている。


偶然かもしれない。


まだ、何も分からない。


それでも。


死んでいくものが、ただ死を待っているだけではないことだけは、前より分かるようになった。


居間へ入る。


「おはよう」


母さんが言った。


「おはよう」


できるだけ普通に歩いたつもりだった。


太ももは痛い。


でも、少しくらいなら隠せると思った。


桜が僕を見る。


すぐに首を傾げ笑った。


「お兄ちゃん、歩き方変だよ」


「変じゃない」


「変だよ」


桜が椅子から立ち上がった。


膝をほとんど曲げず、体を左右に揺らしながら歩く。


「こんな感じ」


「そんな歩き方してない」


「してる」


桜がまた笑う。


僕は椅子へ座った。


普通に座ろうとした。


でも、足を曲げた瞬間。


太ももが痛んだ。


少しだけ動きが止まる。


「ほら」


桜がすぐに言った。


「痛いんじゃん」


「痛くない」


「今、止まったよ」


「止まってない」


「止まった」


よく見ている。


本当に。


僕が思っているより、桜は僕のことをよく見ている。


少し歩き方が違うだけで気づく。


座る時に一瞬止まっただけでも気づく。


こんな格好悪いところまで、すぐに見つけられる。


できれば、桜には見せたくなかった。


兄なのに。


サッカーを一日しただけで、まともに座れなくなっている。


「筋肉痛でしょ?」


桜が言う。


「たぶん」


「やっぱり」


「まだ決まってない」


「何が?」


「筋肉痛かどうか」


「サッカーした次の日に足痛いんでしょ?」


「うん」


「筋肉痛じゃん」


否定する理由がなくなった。


桜が楽しそうに笑う。


今日みたいなものなら、まだいい。


筋肉痛なら。


格好悪くても、笑われるだけで済む。


でも。


桜は、これだけ僕を見ている。


もし夢のことまで顔に出ていたら。


夜に何度死んだか。


どんな痛みが残っているのか。


何を考えているのか。


そんなものまで顔に出ていたら。


桜なら、きっと気づく。


それは嫌だった。


心配させたくなかった。


こんなものを、桜にまで背負わせたくない。


だから、筋肉痛くらいで笑われている方がいい。


「無理して動いたんじゃない?」


母さんが味噌汁を置きながら言った。


「そんなにやってない」


「普段動いてないからよ」


否定できなかった。


父さんは新聞を読んでいる。


姉さんはスマートフォンを見ながら朝食を食べていた。


いつもと同じ朝だった。


僕も箸を持つ。


ご飯を食べる。


味噌汁を飲む。


太ももは痛い。


これは僕のもの。


昨日走ったせい。


それだけなら、誰に見られても困らない。


昨夜、蜘蛛になったことは違う。


腹を食べられたこと。


牙の感覚がまだ頭に残っていること。


死ぬと分かっているのに、最後に喜びが流れ込んできたこと。


そっちは、誰にも見せたくなかった。


「眠そうね」


母さんが言った。


「昨日、疲れたから」


「サッカーで?」


「うん」


嘘ではない。


昨日は本当に疲れた。


ただ、全部を話していないだけだった。


「今日もサッカーするの?」


桜が聞いた。


「分からない」


「小林君から連絡来てないの?」


「……名前、覚えてたの?」


「昨日言ってたじゃん」


桜は当たり前みたいに言った。


僕は少し驚いた。


歩き方だけじゃない。


桜は、僕が誰とサッカーをしたのかまで覚えている。


「まだ見てない」


スマートフォンを取る。


昨日入ったクラスのグループには、いくつかメッセージが増えていた。


関係のない話。


短い動画。


誰かが送ったスタンプ。


その中に、小林のメッセージがあった。


『宍戸、明日絶対筋肉痛だろ』


昨夜のうちに送られていた。


その下には、笑っているスタンプがいくつか並んでいる。


桜が横から画面をのぞく。


「当たってる」


「見るなよ」


「返さないの?」


少し迷う。


昨日までなら、そのまま画面を閉じていたかもしれない。


僕は文字を打った。


『なった』


送信する。


すぐに既読がついた。


少しして、小林から返事が来る。


『やっぱり』


続けて、笑っているスタンプ。


「なんて?」


桜が聞く。


「別に」


「お兄ちゃん、笑ってる」


「笑ってない」


「笑ってるよ」


桜も笑った。


僕はスマートフォンを伏せる。


普通にご飯を食べる。


普通に話す。


普通に笑う。


桜は僕のことをよく見ている。


だからこそ。


夢のことだけは、見つからないようにしないといけない。


夜に何を見ても。


朝になったら。


いつもの兄でいる。


それができるなら。


筋肉痛で格好悪いところを見られるくらいは、まだいい。


家を出る。


一歩進む。


太ももが痛む。


これは夢の痛みじゃない。


僕の足だ。


昨日、自分で走ったから痛い。


もう一歩進む。


昨日の校庭を思い出す。


ボールを追った。


空振りした。


転んだ。


小林にパスを出した。


ナイスと言われた。


その全部を、自分の体でやった。


だから今、痛い。


そう思うと。


少しだけ、この筋肉痛が嫌ではなくなった。


誰もいない道で、歩き方を少し崩す。


桜に見られたら、また笑われる。


学校が近づくと、もう一度普通に歩こうとした。


校舎へ入る。


階段を見る。


嫌な予感がした。


一段上る。


痛い。


二段目。


やっぱり痛い。


小林の言ったとおりだった。


ゆっくり上る。


途中で誰かに抜かされた。


別にいい。


ようやく教室へ着く。


扉を開ける。


すでに何人か来ていた。


小林が僕に気づく。


片手を上げた。


「おはよう」


「おはよう」


僕も小さく手を上げる。


自分の席へ向かう。


小林が僕の歩き方を見る。


少しだけ間があった。


それから、笑った。


「やっぱ筋肉痛じゃん」


「少しだけ」


「少しの歩き方じゃないだろ」


「普通に歩いてる」


「どこが」


桜だけではなかった。


小林にも、すぐに見抜かれた。


「朝、グループに『なった』って送ってたし」


「そうだけど」


「今日もやれば治るかもな」


「悪化すると思う」


小林が笑った。


僕も少しだけ笑った。


足の痛みは隠せなかった。


でも。


それは、隠さなくてもいい痛みだった。


昨夜のことは、誰にも分からない。


蜘蛛の牙も。


最後に感じた、あの奇妙な希望も。


僕は鞄を机に置く。


ゆっくり椅子へ座った。


少し痛かった。


小林がまた笑う。


僕も、今度は普通に笑った。


いつもどおりの顔で。

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