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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸 耀


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第26話 牙の上

家までの道を歩く。


足は、さっきより重くなっていた。


走っていた時には気にならなかった。


止まってから、少しずつ疲れが出てきたらしい。


太ももの奥が張っている。


ふくらはぎも熱かった。


それでも、嫌な重さではなかった。


自分で走ったあとに残ったものだった。


鞄の中で、スマートフォンが一度震えた。


さっき入ったばかりのグループかもしれない。


取り出そうかと思ったけれど、やめた。


家に着いてから見ればいい。


僕は、そのまま歩いた。


玄関を開ける。


「ただいま」


「おかえり」


居間から桜の声が返ってきた。


靴を脱ごうとして、少しよろけた。


壁に手をつく。


「お兄ちゃん?」


桜が廊下へ出てきた。


髪には、昨日渡したピンクのリボンがついている。


「どうしたの?」


「なんでもない」


靴を脱ぎ、立ち上がる。


桜が僕の制服を見た。


「汚れてる」


ズボンの膝と裾に、白い土がついていた。


手で払う。


完全には落ちなかった。


「転んだの?」


「少し」


「何してたの?」


「サッカー」


「サッカー?」


桜が目を大きくした。


「お兄ちゃんが?」


「うん」


「誰と?」


「小林たち」


「友達?」


すぐには答えられなかった。


同じクラスの人。


一緒にサッカーをした人。


連絡先も交換した。


でも、それだけで友達と呼んでいいのかは分からない。


「同じクラスのやつ」


そう答えると、桜は少し笑った。


「楽しかった?」


また少し考える。


「思ってたよりは」


「そっか」


桜は、僕より嬉しそうだった。


「またやるの?」


「誘われたら」


「きっと誘われるよ、お兄ちゃん」


桜は笑顔で言った。


小林も、同じように言っていた。


次があることを、疑っていない。


僕には、まだその感覚がよく分からなかった。


部屋へ戻る。


制服を脱ぎ、着替える。


ベッドへ座ると、足の力が一気に抜けた。


鞄からスマートフォンを取り出す。


グループには、いくつかメッセージが増えていた。


小林が送ったもの。


一緒にサッカーをした男子たちの返事。


知らないスタンプ。


僕の名前も、その中に混ざっている。


少し前まで、僕はこの場所にいなかった。


誰かが僕を追加しなければ、これからも知らないままだった。


画面を閉じる。


机の上へ置いた。


夕食の時間になった。


父さんも姉さんもいた。


母さんが味噌汁を並べる。


椅子に座る時、太ももが少し痛んだ。


桜がすぐに気づいた。


「もう筋肉痛?」


「まだ違うと思う」


「明日はもっと痛くなるよ」


嬉しそうに言うことではないと思う。


「何かしたの?」


母さんが聞いた。


「放課後にサッカーした」


「サッカー?」


「小林たちに誘われたから」


母さんは少し驚いたあと、笑った。


「いいじゃない。たまには体を動かした方がいいわよ」


「うん」


父さんが一度、僕を見る。


「そうか」


それだけ言って、食事へ戻った。


姉さんも顔を上げた。


「耀、サッカーなんてできたっけ?」


「できない」


「できないのにやったの?」


「遊びだから」


「ふうん」


姉さんは、すぐにスマートフォンへ目を戻した。


「お兄ちゃん、ゴールできなかったんだって」


桜が言った。


「できなかったとは言ってない」


「したの?」


「してない」


「じゃあ、できなかったんじゃん」


桜が笑う。


母さんも少し笑った。


父さんと姉さんは、もう別の話をしていた。


僕の話は、それで終わった。


でも、桜だけはまだ僕を見ていた。


「次はできるよ」


「分からない」


「練習すればできる」


小林も、同じようなことをグループで言っていた。


どうしてみんな、次があると思えるのだろう。


僕はまだ、よく分からなかった。


それでも、否定はしなかった。


夕食を食べ終える頃には、足がさらに重くなっていた。


立ち上がると、太ももの奥が引っ張られる。


食器を流しへ運び、部屋へ戻る。


「耀、お風呂空いてるわよ」


下から母さんの声がした。


「あとで入る」


先に少し休みたかった。


ベッドへ腰を下ろす。


そのまま後ろへ倒れた。


天井を見る。


足を伸ばすと、ふくらはぎが熱を持っているのが分かった。


夢のあとに残る痛みとは違う。


誰かが死ぬ時の苦しさでもない。


自分の体を、自分で動かしたあとの疲れだった。


僕が走ったから、ここに残っている。


悪い気はしなかった。


五分だけ。


少し横になってから、風呂へ入る。


電気もつけたまま。


靴下も履いたまま。


僕は目を閉じた。


次に目を開けた時。


僕の脚は、二本ではなかった。


細く、節のある脚が、何本も視界へ入っている。


一本。


二本。


数えようとして、途中でやめた。


八本あった。


僕の体は、細い糸の上に乗っていた。


地面はない。


何本もの糸が重なり合い、暗い空間に広がっている。


風が吹いた。


巣全体が揺れた。


その揺れが、八本の脚から体の奥へ伝わってきた。


小さな振動。


少し離れた場所の振動。


どこで何が動いたのか、目で見る前に分かる。


僕は蜘蛛だった。


何という蜘蛛なのかは分からない。


体は小さかった。


脚も不安なほど細い。


周囲に張られた糸の一本一本が、自分の体の一部みたいに感じられた。


その先に、何かがいた。


僕よりも、ずっと大きい。


黒い体。


膨らんだ腹。


太く長い脚。


同じ蜘蛛だった。


けれど、同じには見えなかった。


大きすぎた。


近づいてはいけない。


触れれば殺される。


捕まれば食べられる。


それを、体が知っていた。


八本の脚が、少しだけ後ろへ下がった。


逃げる。


そう思った。


けれど、止まった。


前脚が、糸を弾いた。


細かな振動が巣の中へ広がる。


大きな蜘蛛が動いた。


その瞬間、体が硬くなった。


黒い脚が持ち上がる。


こちらを見ている。


逃げなければならない。


そう感じているのに、僕の脚は動かなかった。


しばらくすると、また前脚が糸を弾いた。


同じ振動を繰り返す。


何をしているのか分からない。


呼んでいるのか。


自分がここにいると知らせているのか。


大きな蜘蛛が、また動く。


体の中を恐怖が走った。


それでも、僕は少し前へ進んだ。


一本。


また一本。


細い脚が、ゆっくりと大きな蜘蛛へ近づいていく。


僕は止めようとした。


後ろへ下がろうとした。


けれど、いつもの夢と同じだった。


体は言うことを聞かない。


この蜘蛛の体には、僕とは別の目的があった。


ここへ来なければならない。


あの大きな蜘蛛へ近づかなければならない。


何のためなのかは分からない。


ただ、それだけは途中でやめられない。


そんな感覚があった。


大きな蜘蛛との距離が縮まる。


近づくほど、体は震えた。


食べられる。


殺される。


それでも、脚は前へ出る。


何度も糸を揺らしながら。


何度も動きを止めながら。


少しずつ進んでいく。


必死だった。


生きるために逃げる時とは違う。


けれど、同じくらい必死だった。


何かをしなければならない。


それを終わらせなければならない。


理由は分からない。


蜘蛛自身が理解しているのかも分からない。


それでも、体のすべてが、そのために動いていた。


大きな蜘蛛の脚が伸びてくる。


僕の体へ触れた。


死ぬ。


そう思った。


八本の脚が、一度に縮んだ。


けれど、大きな蜘蛛はすぐには噛まなかった。


僕の体は、その下へ入り込んだ。


大きな腹の近くへ進む。


細い脚が絡む。


体の一部が、何かを探すように動いている。


何をしている。


僕には分からない。


ただ、失敗してはいけないという感覚だけは伝わってきた。


止まれば終わる。


間違えれば、何も残らない。


そう、何も残らない。


その感覚が、妙に強かった。


何を残そうとしているのかも分からないのに。


この体は、それだけを恐れていた。


突然、体が持ち上がった。


八本の脚を使い、自分から体を反転させる。


視界が逆さまになる。


大きな蜘蛛の顔が、すぐ近くにあった。


黒い牙が見えた。


その下に、自分の腹がある。


違う。


近づいているのは牙の方ではない。


僕の体が、自分から腹を牙へ運んでいる。


まずい。


戻れ。


逃げろ。


脚が震える。


体の奥に、はっきりと恐怖があった。


死にたくない。


食べられたくない。


まだ生きたい。


それなのに、腹は牙から離れなかった。


むしろ、さらに近づいていく。


自分から。


自分を食べるものへ、体を差し出している。


この蜘蛛は、自ら死のうとしているのか。


そう思った。


でも、違った。


死を望む感情はなかった。


あったのは恐怖だった。


痛みを避けたいという感覚だった。


生きていたいという、強い衝動だった。


それでも、別の衝動が体を動かしていた。


生きることよりも先に。


逃げることよりも先に。


終わらせなければならないことがある。


牙が腹へ刺さった。


体が一気に縮んだ。


八本の脚が、糸をかきむしる。


痛い。


離れたい。


逃げたい。


けれど、体は大きな蜘蛛から離れなかった。


腹を噛まれたまま、別の部分が動き続けている。


何かを押しつけていた。


何かを相手へ渡そうとしていた。


僕には、それが何なのか分からない。


何をしているのかも分からない。


ただ、それだけは止めてはいけなかった。


大きな蜘蛛が、僕の腹を食べ始める。


噛まれた場所から、体の中身が失われていく。


脚に力が入らなくなる。


痛みが広がる。


恐怖が、体の中を走り続ける。


死にたくない。


まだ終わりたくない。


それでも、動きは止まらなかった。


あと少し。


もう少し。


言葉ではなかった。


けれど、そうとしか思えない感覚が流れ込んでくる。


ここまで来た。


もう少しで終わる。


これだけは、終わらせる。


腹を食べられながら。


体を失いながら。


残った部分だけで、何かを続ける。


痛みよりも。


恐怖よりも。


そのことだけが、この体には重要だった。


そして。


何かが終わった。


何をしたのかは分からない。


何を渡したのかも分からない。


ただ、終わったということだけは分かった。


その瞬間。


体の中へ、別の感情が流れ込んできた。


今までの痛みとは違う。


恐怖とも違う。


温かいものだった。


明るいものだった。


喜びに似ていた。


間に合った。


届いた。


これでいい。


そんな意味の感情が、一度に広がった。


僕には、その喜びが理解できなかった。


腹を食べられている。


体はもうほとんど動かない。


間もなく死ぬ。


それなのに、この蜘蛛は喜んでいた。


死ぬことを喜んでいるわけではない。


まだ、死にたくないという感覚は残っていた。


痛みも消えていない。


恐怖もある。


それでも。


自分がここまで来たことは、無駄ではなかった。


この体がなくなっても、何かは残る。


そんな満足が流れ込んできた。


死ぬ。


でも、ただ死ぬわけではない。


蜘蛛が本当にそんなことを考えていたのかは分からない。


ただ、その感情を人間の言葉にするなら、そうとしか言えなかった。


嬉しかった。


何かを成し遂げたことが。


自分が消えたあとにも、何かが続くことが。


その喜びだけが、痛みの中で強く残っていた。


僕には、何が嬉しいのか分からなかった。


何を終わらせたのかも分からない。


何一つ分からないまま。


八本の脚から、力が抜けていった。


糸の振動が遠くなる。


大きな蜘蛛が、残った体を食べている。


それでも最後に残ったのは、恐怖だけではなかった。


満足。


喜び。


無駄ではなかったという感覚。


それを抱いたまま。


何も感じなくなった。


目を開ける。


部屋の電気は、ついたままだった。


カーテンの隙間から、朝の光が入っている。


僕はベッドの上で体を丸めていた。


息が速い。


両手で腹を押さえる。


傷はない。


穴も開いていない。


食べられてもいない。


脚も二本だった。


時計を見る。


朝だった。


風呂にも入らず、そのまま眠っていたらしい。


サッカーをした足が痛んだ。


立ち上がると、太ももの奥が強く張った。


昨日より痛い。


けれど、その痛みは自分のものだった。


腹に残っている感覚とは違う。


蜘蛛の牙。


食べられていく体。


そして、最後に流れ込んできた喜び。


殺されたのに、満足していた。


死にたくなかったのに、嬉しそうだった。


どうして。


ベッドへ座り直す。


机の上に置いたスマートフォンを取った。


何と調べればいいのか分からない。


覚えているのは、小さな雄らしい蜘蛛と、大きな雌らしい蜘蛛。


それから、自分から体を反転させ、腹を牙へ近づけたこと。


検索欄に文字を入れる。


『メスに食べられる オス 蜘蛛』


いくつもの画像と記事が表示された。


黒い蜘蛛。


茶色い蜘蛛。


腹に赤い模様のある蜘蛛。


似たものがいくつもあった。


どれなのか分からない。


さらに文字を加える。


『自分から腹を向ける 蜘蛛』


検索結果が変わった。


交尾中に雌へ捕食される雄。


性的共食い。


雄が体を反転させる行動。


知らない言葉がいくつも並んでいる。


一つの記事を開く。


小さな雄が、大きな雌の腹の下にいる写真があった。


夢の中と似ている。


文章を読む。


雄は、雌へ近づく。


交尾中に体を反転させることがある。


自分の腹部を、雌の口元へ向ける。


そこまで読んだ時。


「耀、起きてる?」


下から母さんの声がした。


「朝ご飯よ」


僕は画面を見たまま止まった。


記事の続きは、まだ下にあった。


どうして体を反転させるのか。


何をしていたのか。


最後に流れ込んできた喜びは何だったのか。


まだ、何も分かっていない。


「耀?」


「今行く」


返事をする。


記事を閉じようとして、少し迷った。


あとで読めるように画面を残したまま、スマートフォンを伏せる。


立ち上がる。


足が痛んだ。


僕は、ゆっくりと部屋を出た。


殺されながら喜んでいた、あの蜘蛛のことを考えたまま。

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