第26話 牙の上
家までの道を歩く。
足は、さっきより重くなっていた。走っている時には気にならなかったけれど、止まってから少しずつ疲れが出てきたらしい。
太ももの奥が張っている。ふくらはぎも熱かった。
それでも、嫌な重さではなかった。
自分で走ったあとに残ったものだった。
鞄の中で、スマートフォンが一度震えた。
さっき入ったばかりのグループかもしれない。
取り出そうかと思ったけれど、やめた。家に着いてから見ればいい。
僕はそのまま歩いた。
◆ ◆ ◆
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
居間から桜の声が返ってきた。
靴を脱ごうとして、少しよろける。壁に手をついた。
「お兄ちゃん?」
桜が廊下へ出てきた。
髪には、昨日渡したピンクのリボンがついている。
「どうしたの?」
「なんでもない」
靴を脱いで立ち上がると、桜が僕の制服を見た。
「汚れてる」
ズボンの膝と裾に白い土がついていた。
手で払ったけれど、完全には落ちなかった。
「転んだの?」
「少し」
「何してたの?」
「サッカー」
「サッカー?」
桜が目を大きくした。
「お兄ちゃんが?」
「うん」
「誰と?」
「小林たち」
「友達?」
すぐには答えられなかった。
同じクラスの人。
一緒にサッカーをした人。
連絡先も交換した。
でも、それだけで友達と呼んでいいのかは分からない。
「同じクラスのやつ」
そう答えると、桜は少し笑った。
「楽しかった?」
また少し考える。
「思ってたよりは」
「そっか」
桜は、僕より嬉しそうだった。
「またやるの?」
「誘われたら」
「きっと誘われるよ、お兄ちゃん」
桜は笑顔で言った。
小林も、同じように言っていた。
次があることを、疑っていない。
僕には、まだその感覚がよく分からなかった。
部屋へ戻って制服を脱ぎ、着替える。
ベッドへ座ると、足の力が一気に抜けた。
鞄からスマートフォンを取り出すと、グループにはいくつかメッセージが増えていた。
小林が送ったもの。
一緒にサッカーをした男子たちの返事。
知らないスタンプ。
僕の名前も、その中に混ざっている。
少し前まで、僕はこの場所にいなかった。
誰かが僕を追加しなければ、これからも知らないままだった。
画面を閉じ、机の上へ置いた。
◆ ◆ ◆
夕食の時間になった。
父さんも姉さんもいる。母さんが味噌汁を並べていた。
椅子に座る時、太ももが少し痛んだ。
桜がすぐに気づく。
「もう筋肉痛?」
「まだ違うと思う」
「明日はもっと痛くなるよ」
嬉しそうに言うことではないと思う。
「何かしたの?」
母さんが聞いた。
「放課後にサッカーした」
「サッカー?」
「小林たちに誘われたから」
母さんは少し驚いたあと、笑った。
「いいじゃない。たまには体を動かした方がいいわよ」
「うん」
父さんが一度だけ僕を見る。
「そうか」
それだけ言って、食事へ戻った。
姉さんも顔を上げる。
「耀、サッカーなんてできたっけ?」
「できない」
「できないのにやったの?」
「遊びだから」
「ふうん」
姉さんはすぐにスマートフォンへ目を戻した。
「お兄ちゃん、ゴールできなかったんだって」
桜が言った。
「できなかったとは言ってない」
「したの?」
「してない」
「じゃあ、できなかったんじゃん」
桜が笑う。
母さんも少し笑った。
父さんと姉さんは、もう別の話をしている。
僕の話は、それで終わった。
でも、桜だけはまだ僕を見ていた。
「次はできるよ」
「分からない」
「練習すればできる」
小林も、同じようなことをグループで言っていた。
どうしてみんな、次があると思えるのだろう。
僕にはまだ、よく分からなかった。
それでも、否定はしなかった。
夕食を食べ終える頃には、足がさらに重くなっていた。
立ち上がると、太ももの奥が引っ張られる。
食器を流しへ運び、部屋へ戻った。
「耀、お風呂空いてるわよ」
下から母さんの声がした。
「あとで入る」
先に少し休みたかった。
ベッドへ腰を下ろし、そのまま後ろへ倒れる。
足を伸ばすと、ふくらはぎが熱を持っているのが分かった。
夢のあとに残る痛みとは違う。
誰かが死ぬ時の苦しさでもない。
自分の体を、自分で動かしたあとの疲れだった。
僕が走ったから、ここに残っている。
悪い気はしなかった。
五分だけ。
少し横になってから、風呂へ入る。
電気もつけたまま。
靴下も履いたまま。
僕は目を閉じた。
◇ ◇ ◇
次に目を開けた時。
僕の脚は、二本ではなかった。
細く、節のある脚が何本も視界へ入っている。
一本。
二本。
数えようとして、途中でやめた。
八本あった。
僕の体は、細い糸の上に乗っていた。
地面はない。
何本もの糸が重なり合い、暗い空間に広がっている。
風が吹いた。
巣全体が揺れた。
その振動が、八本の脚から体の奥へ伝わってくる。
少し離れた場所で何かが動く。
目で見るより先に分かった。
僕は蜘蛛だった。
何という蜘蛛なのかは分からない。
体は小さく、脚も不安になるほど細かった。
周囲に張られた糸の一本一本が、自分の体の一部みたいに感じられる。
その先に、何かがいた。
僕よりも、ずっと大きい。
黒い体。
膨らんだ腹。
太く長い脚。
同じ蜘蛛だった。
けれど、同じには見えなかった。
大きすぎた。
近づいてはいけない。
捕まれば食べられる。
それを、体が知っていた。
八本の脚が少しだけ後ろへ下がる。
逃げたい。
そう感じた。
けれど。
前脚が、糸を弾いた。
細かな振動が巣の中へ広がる。
大きな蜘蛛が動いた。
体が硬くなった。
それでも、しばらくするとまた糸を弾いた。
同じ振動を繰り返す。
何をしているのか分からない。
呼んでいるのか。
自分がここにいると知らせているのか。
大きな蜘蛛が動くたび、体に恐怖が走った。
それでも脚は、少しずつ前へ進んでいく。
僕は止めようとした。
後ろへ下がろうとした。
けれど、いつもの夢と同じだった。
体は言うことを聞かない。
この蜘蛛の体には、僕とは別の目的があった。
あの大きな蜘蛛へ近づかなければならない。
何のためなのかは分からない。
ただ、それだけは途中でやめられない。
そんな感覚があった。
距離が縮まる。
近づくほど、体は震えた。
食べられる。
殺される。
それでも、脚は前へ出る。
何度も糸を揺らし、何度も動きを止めながら、大きな蜘蛛へ近づいていく。
必死だった。
生きるために逃げる時とは違う。
それでも、同じくらい必死だった。
何かをしなければならない。
それを終わらせなければならない。
理由は分からない。
蜘蛛自身が理解しているのかも分からない。
それでも、体のすべてがそのために動いていた。
大きな蜘蛛の脚が伸びてくる。
僕の体へ触れた。
八本の脚が、一度に縮んだ。
けれど、すぐには噛まれなかった。
僕の体は、その下へ入り込んでいく。
大きな腹の近くへ進む。
細い脚が絡む。
体の一部が何かを探すように動いていた。
僕には何をしているのか分からない。
ただ。
失敗してはいけない。
その感覚だけは強かった。
止まれば終わる。
間違えれば、何も残らない。
何を残そうとしているのかも分からないのに。
この体は、それだけを恐れていた。
突然、体が持ち上がった。
八本の脚を使い、自分から体を反転させる。
視界が逆さまになる。
大きな蜘蛛の顔が、すぐ近くにあった。
黒い牙。
その下に、自分の腹がある。
違う。
牙が近づいているんじゃない。
僕の体が、自分から腹を牙へ運んでいる。
まずい。
戻れ。
逃げろ。
脚が震える。
死にたくない。
食べられたくない。
まだ生きたい。
それなのに、体は止まらなかった。
この蜘蛛は、自ら死のうとしているのか。
そう思った。
でも、違った。
死を望んでいない。
怖い。
逃げたい。
生きていたい。
その感覚は、はっきりとあった。
それでも。
それより先に、終わらせなければならないことがあった。
牙が腹へ刺さった。
体が一気に縮む。
八本の脚が糸をかきむしった。
痛い。
離れたい。
けれど、体は大きな蜘蛛から離れなかった。
腹を噛まれたまま、別の部分が動き続けている。
何かを相手へ押しつける。
何かを渡そうとしている。
僕には、それが何なのか分からない。
ただ、それだけは止めてはいけなかった。
大きな蜘蛛が、僕の腹を食べ始める。
体の中身が失われていく。
脚に力が入らない。
痛みが広がる。
それでも。
あと少し。
もう少し。
そんな感覚が流れ込んできた。
ここまで来た。
これだけは終わらせる。
体を失いながらも、残った部分が動き続ける。
そして。
何かが終わった。
何をしたのかは分からない。
何を渡したのかも分からない。
ただ、終わったということだけは分かった。
その瞬間。
体の中へ、別の感情が流れ込んできた。
痛みとも。
恐怖とも違う。
温かいものだった。
明るいものだった。
喜びに似ていた。
間に合った。
届いた。
これでいい。
そんな感情が、一度に広がった。
僕には理解できなかった。
腹を食べられている。
体はもうほとんど動かない。
もうすぐ死ぬ。
それでも、この蜘蛛は喜んでいた。
死ぬことを喜んでいるわけではない。
死にたくないという感覚は、まだ残っている。
痛みも。
恐怖も。
それでも。
ここまで来たことは、無駄ではなかった。
この体がなくなっても、何かは残る。
そんな満足があった。
死ぬ。
でも、ただ死ぬわけではない。
蜘蛛が本当にそんなことを考えていたのかは分からない。
ただ、その感情を人間の言葉にするなら、そうとしか言えなかった。
嬉しかった。
やるべきことを終えたことが。
自分が消えたあとにも、何かが続くことが。
それでも、生きたかった。
二つは消し合わなかった。
死にたくない。
無駄ではなかった。
その両方が、この蜘蛛の中に残っていた。
やがて八本の脚から力が抜けていく。
糸の振動が遠くなる。
大きな蜘蛛が、残った体を食べている。
最後に残ったのは、恐怖だけではなかった。
喜び。
満足。
まだ生きたいという気持ち。
それを抱いたまま。
何も感じなくなった。
◇ ◇ ◇
目を開けると、部屋の電気はついたままだった。カーテンの隙間から朝の光が入っている。
僕はベッドの上で体を丸めていた。息が速く、両手で腹を押さえている。
傷はない。穴も開いていないし、食べられてもいない。
脚も二本だった。
時計を見ると、もう朝だった。風呂にも入らず、そのまま眠ってしまったらしい。
起き上がろうとすると、太ももの奥が強く痛んだ。昨日よりも張っている。
昨日サッカーをしたせいだ。
腹に残る蜘蛛の感覚とは違う、自分の体の痛みだった。
僕はベッドへ座り直した。
死にたくなかった。
怖かった。
それなのに、最後には喜んでいた。
牛の時とは違う。
あの牛は、最後まで逃げようとしていた。死ぬことを受け入れてはいなかった。
蜘蛛も、死にたくなかったことは同じだった。
でも、それだけではなかった。
自分が何かをやり終えた時、確かに満足していた。
どうして。
僕は机の上に置いたスマートフォンを取った。
覚えているのは、小さな雄らしい蜘蛛と、大きな雌らしい蜘蛛。それから、自分から体を反転させ、腹を牙へ近づけたことだった。
何と調べればいいのか迷ってから、検索欄に文字を入れる。
『メスに食べられる オス 蜘蛛』
いくつもの画像と記事が表示された。
黒い蜘蛛や茶色い蜘蛛。腹に赤い模様のあるものもいる。
似た蜘蛛はいくつもあったけれど、どれが夢の蜘蛛なのかは分からなかった。
さらに、
『自分から腹を向ける 蜘蛛』
と検索する。
表示された記事には、交尾中に雌へ捕食される雄や、性的共食い、雄が体を反転させる行動について書かれていた。
一つの記事を開く。
小さな雄が、大きな雌の腹の下にいる写真があった。
夢の中と似ている。
文章を読むと、雄は雌へ近づき、交尾中に体を反転させて、自分の腹部を雌の口元へ向けることがあるらしい。
そこまで読んだ時。
「耀、起きてる?」
下から母さんの声がした。
「朝ご飯よ」
僕は画面を見たまま止まった。
記事の続きは、まだ下にある。
どうして体を反転させるのか。
何をしていたのか。
最後に流れ込んできた喜びは、何だったのか。
まだ分からない。
「耀?」
「今行く」
返事をした。
記事を閉じようとして、少し迷う。
あとで読めるように、そのままスマートフォンを伏せた。
立ち上がると、また足が痛んだ。
昨日、自分で走ったから痛む足だった。
死にたくなかった。
それでも、無駄ではなかった。
その二つが同時にあることを、僕はまだうまく理解できなかった。
スマートフォンを机に残し、ゆっくりと部屋を出た。




