第24話 十桁の番号
目を覚ましても、まだ牛の感情が残っていた。
痛みではなかった。
怖かったこと。
前へ進みたくなかったこと。
まだ生きたかったこと。
それだけが、胸の奥に残っていた。
布団から出る。
今日は休み明けだった。学校へ行かなければならない。
顔を洗って、制服に着替えた。
朝食の席には肉はなかった。それでも、昨日までと同じようには食べられなかった。
餌を食べていた口。
水を飲んでいた喉。
最後まで動こうとしていた足。
思い出さないようにして、朝食を口へ運んだ。
「行ってきます」
家を出ようとすると、母さんの声が返ってきた。
「行ってらっしゃい」
桜も玄関まで来た。
髪には、昨日渡したピンクのリボンがついている。
「お兄ちゃん、似合ってる?」
「うん」
「学校で友達に見せるんだ」
桜は嬉しそうだった。
「行ってきます」
桜が先に外へ出る。
二つのリボンが、髪の後ろで揺れていた。
僕も家を出た。
◆ ◆ ◆
休み明けの道には、制服を着た生徒が多かった。
どこへ行ったとか、誰と遊んだとか、宿題が終わらなかったとか。
そんな声が聞こえる。
僕には、話せることがほとんどなかった。
知らない老人が死ぬ夢を見た。
その人の家を確かめに行った。
警察へ電話した。
牛として殺された。
桜にリボンを買った。
言えることと、言えないことが混ざっていた。
学校へ着くと、教室はいつもより少し騒がしかった。休みの間にあったことを、みんなが話している。
僕は自分の席へ座った。
先生が来るまで、まだ時間がある。
鞄から学校支給のタブレットを取り出した。
昨夜の牛のことが気になっていた。
検索欄を開く。
肉牛。
そう入力した。
食肉として牛肉を生産するために飼育される牛。
画面を下へ動かす。
黒毛和種。
交雑種。
乳用種。
昨夜の牛がどれだったのかは分からない。
体の色は覚えている。
柵も。
前にいた牛の背中も。
濡れた床の感触も。
でも、種類までは分からなかった。
別のページを開く。
肉になる牛は、生まれてからずっと同じ場所で育つとは限らないらしい。
子牛の頃は母牛と一緒に過ごし、生後八か月から十か月くらいで離され、市場を通して別の農家へ移る牛もいる。
そこで、肉になるまで育てられる。
母親と離れる。
知らない場所へ運ばれる。
知らない牛たちの中に入れられる。
それでも、餌を食べる。
水を飲む。
大きくなる。
昨夜の牛にも、子牛だった時があった。
母親のそばにいた時があったのかもしれない。
そのことを覚えていたのかは分からない。
夢の中には入ってこなかった。
さらに調べる。
牛には、一頭ずつ番号がつけられているらしい。
十桁の個体識別番号。
生まれた日。
育てられた場所。
移動した記録。
最後にどこへ行ったのか。
そういうものが、一つの番号につながっている。
名前とは違う。
でも、その牛一頭だけを指す番号だった。
昨夜の牛にも、番号があったはずだった。
耳についていたのかもしれない。
見たような気もする。
見ていない気もする。
夢の中で、僕は好きな場所を見ることができない。
牛が見ていなければ、僕にも見えない。
僕は別の言葉を検索した。
肉牛 育て方。
牛舎を清潔にする。
体調を管理する。
けがや病気を防ぐ。
餌を食べられているか確認する。
農家によって、育て方にもいろいろな工夫があるらしい。
少し驚いた。
肉になる牛に、そこまでする。
病気にならないように。
けがをしないように。
よく食べられるように。
できるだけ穏やかに過ごせるように。
大切に育てる。
そして、最後には殺す。
画面を見ていると、昨夜の感覚が戻ってきた。
前へ進みたくなかった。
逃げる場所を探した。
足に力を入れた。
それでも、後ろから押されて進んだ。
体を傷つけないように育てられていた。
苦しむ時間も、長くはなかった。
それでも。
あの牛は、死ぬことを受け入れていたわけではなかった。
「何を調べてるの?」
声がした。
顔を上げる。
佐倉が、僕の机の横に立っていた。
「牛」
「牛?」
「肉になる牛」
佐倉は画面を見るために、少し顔を近づけた。
細いカチューシャが見えた。
「どうして急に?」
少し迷った。
「昨日、牛だったから」
佐倉が僕を見る。
「夢?」
「うん」
「……死ぬところ?」
「うん」
それ以上は聞かれなかった。
佐倉はもう一度、画面を見る。
そこには十桁の番号について書かれていた。
「これ?」
「牛には、一頭ずつ番号があるらしい」
「十桁?」
「うん」
「番号で何が分かるの?」
「生まれた日とか、育った場所とか」
「そんなことまで分かるんだ」
「うん」
佐倉は少し考えた。
「人間より、ちゃんと記録されてるかも」
「そうかもしれない」
「名前もあるのかな」
僕は画面を見た。
「つける人もいると思う」
「そっか」
画面には、子牛と母牛の写真が表示されていた。
「かわいい」
佐倉が言った。
「でも、大きくなったら離される牛もいるんだね」
「うん」
「寂しくないのかな」
分からなかった。
昨夜の牛から、母親の記憶は入ってこなかった。
寂しかったのか。
もう覚えていなかったのか。
覚えていても、夢に入ってこなかっただけなのか。
「分からない」
そう答えた。
佐倉は別の記事を指で示した。
「でも、ちゃんと大切に育てられてるんだ」
「そうみたい」
「食べるためでも、大事にするんだね」
「うん」
僕は少しだけ黙った。
「痛かった?」
佐倉が聞いた。
「ほとんど」
「そっか」
佐倉は小さく息を吐いた。
「じゃあ……あんまり苦しまなかったんだね」
「うん」
それは間違っていない。
痛かった時間は、ほとんどなかった。
苦しんだ時間も長くなかった。
でも、それだけではなかった。
「でも」
「うん?」
「死にたくはなかったと思う」
佐倉が僕を見る。
「牛が?」
「うん」
僕は画面から目を離した。
「最後まで逃げようとしてた。前に進みたくなくて、ずっと足に力を入れてた」
「……そっか」
「外に戻りたがってた。草を食べたり、水を飲んだりしてたところに」
佐倉は黙って聞いていた。
「言葉じゃないけど」
僕は続けた。
「まだ生きたいって、そういう感じだった」
「……うん」
「食べるために育てられたのと、死にたかったかどうかは、別なんだと思う」
佐倉はしばらく何も言わなかった。
それから、小さく頷いた。
「そうだね」
本当に同じことを考えているのかは分からなかった。
でも、否定はしなかった。
「もうすぐ先生来るよ」
佐倉が言った。
教室を見ると、いつの間にか生徒が増えていた。
僕は検索画面を閉じた。
すると、佐倉が小さく言った。
「ありがとう」
「何が?」
「話してくれたから」
僕は佐倉を見る。
佐倉はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
タブレットの画面が暗くなる。
昨夜の牛の番号は分からない。
名前があったのかも分からない。
どこで生まれたのかも。
母親といつ離されたのかも。
何も分からない。
それでも。
あの牛が最後まで生きようとしていたことだけは、十桁の番号を知らなくても僕には分かった。




