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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸 耀
第一章 死ぬ夢

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第23話 まだ


暗かった。


何も見えないわけではない。


高い壁。


濡れた床。


前を歩く、大きな背中。


この体も歩いていた。


足を一歩出すたびに、硬い音がする。


蹄が床に当たる音。


前からも。


後ろからも。


同じ音が続いていた。


空気のにおいが濃かった。


水。


鉄。


糞。


知らない牛たちのにおい。


それから。


血のにおい。


この体は、それを嫌がっていた。


何のにおいなのか分かっているわけではない。


でも、近づきたくないものだということだけは伝わってきた。


前へ進みたくない。


足が止まった。


すぐ後ろから、別の体が触れる。


押される。


前へ出るしかない。


細い通路だった。


振り返ることもできない。


横へ逃げることもできない。


前の牛が鳴いた。


低く。


長く。


その声を聞いた瞬間、この体の中に恐怖が広がった。


ここから出たい。


戻りたい。


外へ行きたい。


明るいところ。


風のあるところ。


草のにおいがするところ。


そんな景色が、一瞬だけ流れてきた。


広い場所。


柔らかい土。


顔の近くを飛ぶ小さな虫。


遠くから聞こえる、別の牛の声。


この体が前にいた場所だった。


戻りたい。


強く伝わってきた。


けれど、体は前へ進んだ。


人の声がした。


短い声。


何かを動かす音。


金属がぶつかる音。


前の牛の姿が消えた。


少しして、通路の先が開いた。


この体が中へ入る。


狭い。


左右から何かが迫ってくる。


首の近くが固定される。


体が暴れた。


床を蹴る。


首を振ろうとする。


けれど、動かない。


怖い。


怖い。


その気持ちが、僕の中へ入ってきた。


僕の恐怖ではなかった。


それでも、自分の胸まで苦しくなった。


この牛が、これから何をされるのか理解しているとは思えなかった。


でも。


逃げたい。


戻りたい。


ここにいたくない。


それだけは、はっきり伝わってきた。


血のにおい。


前へ進んだ牛が戻ってこなかったこと。


人に囲まれて、体を動かせなくなったこと。


全部が、この体を怯えさせていた。


嫌だ。


まだ行きたくない。


もう少し。


もう少し、生きていたい。


言葉ではなかった。


けれど、そうとしか思えなかった。


頭に、冷たいものが触れた。


体が大きく震えた。


何かが来る。


その瞬間。


牛の中から、たくさんのものが流れ込んできた。


草を噛んだ時の味。


日なたの暖かさ。


水を飲んだ時の冷たさ。


隣にいた牛の体温。


背中に止まった鳥。


眠る前に聞こえた声。


どれも、特別なものではなかった。


この牛にとっては、毎日のことだった。


それが、急に大切なものになった。


もう一度、草を食べたい。


もう一度、水を飲みたい。


もう一度、外に出たい。


痛くしないで。


怖いことをしないで。


まだ。


まだ。


まだ生きたい。


大きな音がした。


何かが額に当たった。


痛みを感じる前に、視界が消えた。


体の力が抜ける。


足が床から離れたのか。


倒れたのか。


分からなかった。


何も見えない。


音も、ほとんど聞こえない。


意識は消えた。


そのはずだった。


けれど。


牛が最後に残したものだけが、消えなかった。


まだ。


暗闇の中で、それだけが繰り返されていた。


首の近くに、何かが触れた。


皮膚が開く感覚があった。


でも、痛くなかった。


この体は、もう感じていなかった。


温かいものが、勢いよく外へ流れていく。


心臓はまだ動いていた。


一度。


また一度。


体の中に残ったものを、外へ押し出していた。


それでも意識は戻らない。


苦しくもなかった。


痛くもなかった。


ただ。


生きたかったという気持ちだけが、僕の中に残っていた。


苦しまなかったから、よかった。


そう思おうとした。


痛くなかった。


怖い時間も、それほど長くなかった。


気づかないうちに終わった。


だったら、まだよかった。


そう思えばいいはずだった。


けれど。


まだ生きたい。


その気持ちが、何度も流れ込んできた。


痛みよりも強く。


恐怖よりも深く。


消えていく体の中から、何度も。


まだ。


まだ。


まだ。


心臓の動きが弱くなる。


温かかった体が、少しずつ冷たくなる。


命が抜けていく。


最後まで、この牛は死にたくなかった。


食べられるために生きていたわけではなかった。


人に殺されるために、草を食べていたわけでもない。


ただ、生きていた。


昨日も。


今日も。


明日も、そのつもりだった。


それだけだった。


 ◇ ◇ ◇ 


目を覚ました。


暗い部屋だった。自分の布団の中にいる。


胸に手を当てると、心臓は動いていた。喉にも触れた。切れていないし、血も出ていない。


夢の中でも、ほとんど痛くなかった。


それなのに、気分が悪かった。


今まで見た死とは、少し違った。


痛みを受け取ったからではない。


死ぬ直前まで残っていたものを、受け取ったからだった。


まだ生きたい。


牛の声ではなかった。


言葉でもなかった。


それでも、そうとしか思えなかった。


僕は布団の中で目を閉じた。


牛は、たぶん肉になる。


誰かが食べる。


店に並ぶのかもしれない。


家の食卓に出るのかもしれない。


そう考えれば、何の意味もなく死んだわけではないのかもしれない。


豚の時もそうだった。


食べ物になる。


誰かが食べる。


それで生きている人がいる。


だったら、無駄ではないのかもしれない。


でも。


それと、あの牛が死にたくなかったことは別だった。


食べられるから。


無駄にならないから。


痛くなかったから。


だから、あの牛が死ぬことを受け入れていたわけではない。


最後まで逃げようとしていた。


戻ろうとしていた。


外へ行きたがっていた。


まだ生きたがっていた。


僕は今まで、痛くない死ならまだましだと思っていた。


苦しまなければ、それで少しはよかったと思える気がしていた。


それは、たぶん間違いではない。


苦しまない方がいい。


痛くない方がいい。


でも。


痛くないことと、死にたくないことは両立する。


あの牛は、ほとんど痛みを感じなかった。


それでも死にたくなかった。


僕はしばらく、暗い天井を見ていた。


死ぬことに意味があるのかは、僕には分からない。


食べられるなら意味がある。


誰かの命につながるなら無駄ではない。


そう考えることはできる。


でも、それは生きている側が後から考えることだった。


死ぬ側が、同じように思っているとは限らない。


あの牛は、そんなことを考えていなかった。


ただ。


まだ生きたかった。


豚の夢を見た時も、しばらく肉を見るのが嫌だった。


今回もしばらくは、牛肉を食べたいとは思えそうになかった。


でも、それより長く残りそうなのは、血のにおいでも、暗い通路でもなかった。



まだ。


言葉にならなかった、その気持ちだった。

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