表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸耀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/30

第21話 四〇二号室

 朝になっても、住所は消えていなかった。


 高木正一。


 西園町三丁目十二番六号。


 メゾン夕映。


 四〇二号室。


 目を閉じれば、窓から見えた学校まで思い出せた。


 校舎。


 グラウンド。


 体育館の屋根。


 あの人は、あの窓から学校を見ていた。


 胸を押さえながら。


 まだ治ると思いながら。


 僕は布団の中で、何度も住所を繰り返した。


 忘れないためではない。


 もう、忘れられそうになかった。


 今日は学校が休みだった。


 朝食を食べたあと、僕はタブレットで地図を開いた。


 西園町三丁目。


 霞町から、それほど遠くはない。


 歩いて行けない距離ではなかった。


 画面を少し動かす。


 十二番六号。


 そこに、建物の名前が表示された。


 メゾン夕映。


 同じだった。


 地図に載っている。


 夢の中にあった場所が、現実にもある。


 それだけで、腹の奥が少し重くなった。


 行く必要はないと思った。


 住所は分かっている。


 名前も分かっている。


 警察に伝えるだけなら、確かめなくてもいい。


 それでも僕は、外へ出る準備をした。


 夢だけを信じて電話するのが、少し怖かった。


 もし建物がなかったら。


 住所が違っていたら。


 高木正一という人がいなかったら。


 僕が見たものは何だったのか。


 それを考える方が怖かった。


 家を出て、西園町へ向かった。


 空は曇っていた。


 暑くも寒くもない。


 歩くにはちょうどよかった。


 道を曲がるたびに、夢の中の景色を探した。


 見覚えがある気がする場所もあった。


 まったく知らない場所もあった。


 でも、僕が見たのは窓の内側からだった。


 外を歩いたことはない。


 だから、同じ道なのかは分からない。


 西園町三丁目に入った。


 古い家と、新しいアパートが並んでいる。


 住所の数字を見ながら歩く。


 十番。


 十一番。


 十二番。


 少し先に、四階建ての建物が見えた。


 薄い茶色の壁。


 外側に階段がある。


 入口の上に、小さな看板がついていた。


 メゾン夕映。


 僕は立ち止まった。


 本当にあった。


 夢で見た建物を、外から見たことはない。


 それでも分かった。


 ここだと思った。


 建物の前まで歩く。


 入口の横に、郵便受けが並んでいた。


 一〇一。


 一〇二。


 二〇一。


 上から順番に見ていく。


 四〇二。


 小さな名札が入っていた。


 高木。


 名字だけだった。


 でも、十分だった。


 僕は建物を見上げた。


 四階の端に窓がある。


 カーテンは閉まっていた。


 あの向こうで、高木正一は死んだ。


 今も、いるのかもしれない。


 誰にも見つけられずに。


 僕は入口の前から動けなかった。


 呼び鈴を押すことも考えた。


 でも、押したあとにどうすればいいのか分からない。


 誰も出てこなかったら。


 鍵が開いていたら。


 中から何か聞こえたら。


 僕には、何もできない。


 建物の中へ入ることもしなかった。


 僕が入る必要はない。


 僕が見つける必要もない。


 警察に伝えればいい。


 それだけだった。


 建物から少し離れた。


 道路の反対側へ渡る。


 振り返ると、四階の窓の向こうに学校の屋根が見えた。


 夢と同じだった。


 校舎。


 グラウンド。


 体育館。


 全部、同じ位置にある。


 僕はそれ以上、建物を見なかった。


 駅の方へ歩いた。


 駅前には公衆電話がある。


 以前にも使ったことがあった。


 スマホから警察に電話をすると、番号が残る。


 家の電話も使えない。


 だから、公衆電話を使う。


 電話ボックスの中に入る。


 扉を閉めると、外の音が少し遠くなった。


 財布から硬貨を出した。


 受話器を持つ。


 一一〇。


 押すだけなのに、指が止まった。


 電話をかけたところで、高木正一が生き返るわけではない。


 もう、死んでいる。


 救急車が間に合うこともない。


 昨日の夜より前に、全部終わっている。


 それでも、あの部屋に一人で残ったままなのは嫌だった。


 誰にも見つけてもらえないまま。


 窓の向こうの学校だけを見ながら。


 僕は番号を押した。


 呼び出し音は、ほとんど鳴らなかった。


 すぐに声が聞こえた。


「警察です。事件ですか、事故ですか」


 僕は一度、息を吸った。


「人が死んでいます」


 自分の声が、思っていたより小さかった。


「人が亡くなっているんですね。場所は分かりますか」


「西園町三丁目十二番六号」


 住所を言う。


 夢の中に残った順番のまま。


「メゾン夕映の四〇二号室です」


「四〇二号室ですね。亡くなっている方のお名前は分かりますか」


「高木正一」


 電話の向こうで、何かを書く音がした。


「高木正一さんですね。あなたは今、現場にいますか」


「いません」


「高木さんとは、どういうご関係ですか?」


「関係はありません」


 少し間があった。


「では、なぜ亡くなっていると分かったんですか」


 答えられなかった。


 夢で見た。


 あなたたちは信じるだろうか。


 知らない老人の体の中に入った。


 胸が苦しくなった。


 まだ生きたいと思いながら死んだ。


 そんなことを言っても、話が長くなるだけだった。


「確認してください」


 僕は言った。


「胸の病気だと思います」


「胸の病気というのは、何か持病があると聞いているんですか」


「分かりません」


「あなたのお名前を教えていただけますか」


 名前。


 本当の名前は言えない。


 宍戸耀と名乗れば、どうして知っているのか聞かれる。


 家族にも知られるかもしれない。


 学校にも。


 でも、何も名乗らなければ、いたずらだと思われるかもしれない。


 僕は受話器を握り直した。


「……SSです」


「SSさんですか」


「はい」


 電話の向こうが少し静かになった。


 紙を動かすような音がした。


「SSさんですね。本名を教えていただくことはできますか」


「場所と名前は伝えました」


「待ってください。もう少し詳しく――」


「場所と名前は伝えましたから」


 自分でも、少し強い声だった。


「待ってください。もう少しお話を――」


 僕は受話器を置いた。


 硬い音がした。


 電話が切れる。


 ボックスの中が静かになった。


 僕はしばらく、そのまま立っていた。


 心臓が速く動いている。


 僕の心臓だった。


 痛くはない。


 息もできる。


 まだ動いている。


 電話の外では、人が駅へ入っていく。


 買い物袋を持った人。


 制服を着た高校生。


 小さな子どもの手を引いた母親。


 誰も僕を見ていなかった。


 僕は電話ボックスを出た。


 これで、警察が確認に行くかどうかは分からない。


 僕の言葉を信じないかもしれない。


 いたずらだと思うかもしれない。


 部屋の呼び鈴を押すだけで帰るかもしれない。


 それでも、住所は伝えた。


 名前も伝えた。


 僕に分かることは、全部伝えた。


 あとは、僕のすることではない。


 高木正一は、もう助からない。


 僕が見たのは、すでに終わった死だった。


 いつもそうだった。


 結局、僕が少し楽になりたかっただけなのかもしれない。


 そして、僕が見る時には、いつももう遅い。


 苦しんでいる人を見つける夢ではない。


 これから死ぬ人を教える夢でもない。


 死んだものの最後が、僕の中に入ってくる。


 それだけだった。


 だから、僕には誰も助けられない。


 住所が分からないこともある。


 名前が分からないこともある。


 動物なら、どこで死んだのかさえ分からない。


 夢の中に壁しか見えなければ、その壁がどこにあるのかは分からない。


 暗い箱の中で死ねば、その箱を探すことはできない。


 伝えたくても、何も伝えられない夜の方が多い。


 今回は、違った。


 住所があった。


 名前があった。


 現実に建物もあった。


 だから、電話をした。


 それだけだった。


 駅から家まで歩いた。


 来た時より、少しだけ足が軽かった。


 気分がよくなったわけではない。


 高木正一が死んだことは変わらない。


 胸の中に残っている、まだ生きたいという気持ちも消えていない。


 でも、あの部屋に人がいることを、僕だけしか知らないわけではなくなった。


 警察に伝えた。


 聞いた人がいる。


 それだけでよかった。


 家に着いた時には、昼を過ぎていた。


 玄関を開ける。


「ただいま」


 家の中から、母さんの声がした。


「おかえり」


 いつもと同じ声だった。


 僕も、いつもと同じように靴を脱いだ。


 高木正一。


 西園町三丁目十二番六号。


 メゾン夕映。


 四〇二号室。


 もう、何度も繰り返さなくていい。


 忘れてもいいとは思わなかった。


 でも、僕一人だけが覚えている必要は、もうなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ