第21話 四〇二号室
朝になっても、名前と住所は消えていなかった。
高木正一。
西園町三丁目十二番六号。
メゾン夕映、四〇二号室。
目を閉じれば、窓から見えた学校まで思い出せた。校舎も、グラウンドも、体育館の屋根も。
あの人は、あの窓から学校を見ていた。
胸を押さえながら。
まだ治ると思いながら。
僕は布団の中で、何度も名前と住所を繰り返した。
忘れないためではない。
もう、忘れられそうになかった。
◆ ◆ ◆
今日は学校が休みだった。
朝食を食べたあと、僕はタブレットで地図を開いた。
西園町三丁目。
霞町から、それほど遠くはない。歩いて行けない距離ではなかった。
画面を動かして、十二番六号を探す。
そこに、建物の名前が表示された。
メゾン夕映。
同じだった。
夢の中にあった場所が、現実にもある。
それだけで、腹の奥が少し重くなった。
行く必要はないと思った。住所も名前も分かっている。警察に伝えるだけなら、わざわざ自分で確かめなくてもいい。
それでも僕は、外へ出る準備をした。
夢だけを信じて電話するのが、少し怖かった。
もし建物がなかったら。
住所が違っていたら。
高木正一という人がいなかったら。
僕が見たものは何だったのか。
それを考える方が怖かった。
◆ ◆ ◆
家を出て、西園町へ向かった。
空は曇っていた。暑くも寒くもなく、歩くにはちょうどよかった。
道を曲がるたびに、夢の中の景色を探した。見覚えがある気がする場所もあれば、まったく知らない場所もある。
でも、僕が見たのは窓の内側からだった。
外を歩いたことはない。
だから、同じ道なのかは分からなかった。
西園町三丁目に入ると、古い家と新しいアパートが並んでいた。
住所の数字を見ながら歩く。
十番。
十一番。
十二番。
少し先に、四階建ての建物が見えた。
薄い茶色の壁。外側に階段があり、入口の上に小さな看板がついている。
メゾン夕映。
僕は立ち止まった。
本当にあった。
夢でこの建物を外から見たことはない。
それでも、ここだと思った。
建物の前まで歩くと、入口の横に郵便受けが並んでいた。
一〇一。
一〇二。
二〇一。
上から順番に見ていく。
四〇二。
小さな名札が入っていた。
高木。
名字だけだった。
でも、十分だった。
僕は建物を見上げた。四階の端に窓があり、カーテンは閉まっている。
あの向こうで、高木正一は死んだ。
今も、いるのかもしれない。
誰にも見つけられずに。
僕は入口の前から動けなかった。
呼び鈴を押すことも考えた。でも、押したあとにどうすればいいのか分からない。
誰も出てこなかったら。
中から何か聞こえたら。
僕には、何もできない。
建物の中へ入ることもしなかった。
僕が入る必要はない。
僕が見つける必要もない。
警察に伝えればいい。
それだけだった。
建物から少し離れ、道路の反対側へ渡った。
振り返ると、四階の窓の向こうに学校の屋根が見えた。
校舎。
グラウンド。
体育館。
全部、夢と同じ位置にある。
僕はそれ以上、建物を見なかった。
◆ ◆ ◆
駅の方へ歩いた。
駅前には公衆電話がある。以前にも使ったことがあった。
スマホから警察に電話をすれば、番号が残る。家の電話も使えない。
だから、公衆電話を使う。
電話ボックスの中に入り、扉を閉めると、外の音が少し遠くなった。
受話器を持つ。
一一〇。
押すだけなのに、指が止まった。
電話をかけたところで、高木正一が生き返るわけではない。
もう、死んでいる。
救急車が間に合うこともない。
僕が夢を見る前に、全部終わっている。
それでも、あの部屋に一人で残ったままなのは嫌だった。
誰にも見つけてもらえないまま。
窓の向こうの学校だけを見ながら。
僕は番号を押した。
呼び出し音は、ほとんど鳴らなかった。
すぐに声が聞こえた。
「警察です。事件ですか、事故ですか」
僕は一度、息を吸った。
「人が死んでいます」
自分の声が、思っていたより小さかった。
「人が亡くなっているんですね。場所は分かりますか」
「西園町三丁目十二番六号」
住所を言う。
夢の中に残った順番のまま。
「メゾン夕映の四〇二号室です」
「四〇二号室ですね。亡くなっている方のお名前は分かりますか」
「高木正一」
電話の向こうで、何かを書く音がした。
「高木正一さんですね。あなたは今、現場にいますか」
「いません」
「高木さんとは、どういうご関係ですか?」
「関係はありません」
少し間があった。
「では、なぜ亡くなっていると分かったんですか」
答えられなかった。
夢で見た。
知らない人の体の中にいた。
胸が苦しくなって、まだ生きたいと思いながら死んだ。
そんなことを言っても、話が長くなるだけだった。
「確認してください」
僕は言った。
「胸の病気だと思います」
「胸の病気というのは、何か持病があると聞いているんですか」
「分かりません」
「あなたのお名前を教えていただけますか」
名前。
本当の名前は言えない。
宍戸耀と名乗れば、どうして知っているのか聞かれる。
家族にも知られるかもしれない。
学校にも。
でも、何も名乗らなければ、いたずらだと思われるかもしれない。
僕は受話器を握り直した。
「……SSです」
「SSさんですか」
「はい」
電話の向こうが少し静かになった。
紙を動かすような音がする。
「SSさんですね。本名を教えていただくことはできますか」
「場所と名前は伝えました」
「待ってください。もう少し詳しく――」
「場所と名前は伝えましたから」
自分でも、少し強い声だった。
「待ってください。もう少しお話を――」
僕は受話器を置いた。
硬い音がして、電話が切れた。
ボックスの中が静かになった。
僕はしばらく、そのまま立っていた。
心臓が速く動いている。
僕の心臓だった。
痛くはない。
息もできる。
まだ動いている。
◆ ◆ ◆
電話ボックスの外では、人が駅へ入っていく。
買い物袋を持った人。
制服を着た高校生。
小さな子どもの手を引いた母親。
誰も僕を見ていなかった。
僕は電話ボックスを出た。
これで、警察が確認に行くかどうかは分からない。僕の言葉を信じないかもしれない。いたずらだと思うかもしれない。
それでも、住所は伝えた。
名前も伝えた。
僕に分かることは、全部伝えた。
あとは、僕のすることではない。
高木正一は、もう助からない。
僕が見たのは、すでに終わった死だった。
いつもそうだった。
結局、僕が少し楽になりたかっただけなのかもしれない。
でも、できるなら助けたかった。
高木正一がまだ生きている時に、この場所を知りたかった。
胸が苦しくなっている時に、誰かを呼べたらよかった。
今までだって、たぶん同じだった。
何度も死ぬところを見た。
痛いのも、苦しいのも、怖いのも見た。
でも、僕が見る頃には、いつももう終わっている。
それに慣れてしまっただけだった。
助けられないことに。
間に合わないことに。
苦しんでいる人を見つける夢ではない。
これから死ぬ人を教える夢でもない。
死んだものの最後が、僕の中に入ってくる。
それだけだった。
だから、僕には誰も助けられない。
住所が分からないこともある。名前が分からないこともある。
動物なら、どこで死んだのかさえ分からない。
夢の中に壁しか見えなければ、その壁がどこにあるのかは分からない。暗い箱の中で死ねば、その箱を探すこともできない。
伝えたくても、何も伝えられない夜の方が多い。
今回は、違った。
住所があった。
名前があった。
現実に建物もあった。
だから、電話をした。
助けることはできなかった。
でも、何もしなかったわけでもない。
それだけだった。
駅から家まで歩いた。
来た時より、少しだけ足が軽かった。
気分がよくなったわけではない。
高木正一が死んだことは変わらない。胸の中に残っている、まだ生きたいという気持ちも消えていない。
でも、あの部屋に人がいることを、僕だけしか知らないわけではなくなった。
警察に伝えた。
聞いた人がいる。
それだけでよかった。
◆ ◆ ◆
家に着いた時には、昼を過ぎていた。
玄関を開ける。
「ただいま」
家の中から、母さんの声がした。
「おかえり」
いつもと同じ声だった。
僕も、いつもと同じように靴を脱いだ。
高木正一。
西園町三丁目十二番六号。
メゾン夕映。
四〇二号室。
もう、何度も繰り返さなくていい。
忘れてもいいとは思わなかった。
でも、僕一人だけが覚えている必要は、もうなかった。




