第19話 二人だけの午後
二時までには帰ってきてね。
朝、母さんにそう言われていた。桜を一人にしないためだ。
家に着いたのは、一時四十分くらいだった。
玄関を開けると、母さんが廊下を歩いてきた。僕の顔を見るなり、壁の時計を確認する。
「よかった。間に合った」
「うん」
「お昼、食べた?」
「まだ」
「何か作るから、ちょっと待ってて」
母さんはそう言って、台所へ入った。
僕が手を洗っている間に、簡単な焼きそばができていた。冷蔵庫に残っていた野菜と、昨日使わなかった豚肉が入っている。
肉を見ても、前みたいな嫌な感じはそこまで強くなかった。奈落を歩いている途中から、ちゃんと腹が減っていたからかもしれない。
「全部食べなくてもいいからね」
母さんが言った。
「食べる」
「無理しなくていいのよ」
「大丈夫」
母さんは少しだけ僕の顔を見たけれど、それ以上は何も言わなかった。
焼きそばを半分くらい食べたところで、母さんは出かける準備を始めた。鞄を持って、鍵を確かめて、桜に声をかける。
「お兄ちゃんの言うこと聞くのよ」
「はーい」
「耀、悪いけどお願いね」
「うん」
「夕方には帰るから」
母さんはそう言って、すぐに家を出た。
玄関の扉が閉まり、鍵の音がする。
父さんも姉さんもいない。家の中にいるのは、僕と桜だけになった。
「お兄ちゃん」
居間から呼ばれた。
「ゲームしよう」
桜はすでにテレビの前に座っていた。手には二つのコントローラーがある。
「何やるの」
「これ」
桜が選んだのは、二人で対戦するレースゲームだった。
昔はよく一緒にやっていたけれど、最近はほとんどやっていない。
「お兄ちゃん、これ得意だったよね」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、すごく強かった」
「そうだっけ」
「そうだよ」
桜は一つのコントローラーを僕に渡した。
隣に座ってゲームを始める。明るい音楽が流れ、画面の中で僕と桜の車が並んで走り出した。
最初の曲がり角で、壁にぶつかった。二回目の曲がり角でも少し遅れて、気づいた時には桜の車がずっと先を走っていた。
東国町の家並み。
細い道。
奈落の入口。
佐倉の後ろ姿。
そんなものが、まだ頭の中に残っていた。
佐倉の家は、思っていたより近いのかもしれない。
学校が同じなのだから遠くはないと思っていたけれど、もしあの辺に住んでいるなら、僕の家からもそれほど時間はかからない。
だから何だという話だった。
近いからといって、会いに行くわけではない。一緒に遊ぶわけでもない。
佐倉は、ただの同級生だ。同じクラスにいるだけの人間だ。
画面の端に、ゴールの文字が出た。
桜の車が先に線を越え、少し遅れて僕の車もゴールした。
「勝った」
桜が嬉しそうに言った。
「うん」
「お兄ちゃんに勝った」
「そうだね」
「何考えてやってたの?」
「別に何も」
「絶対、別のこと考えてた」
桜が僕の顔をのぞき込む。
「ぼーっとしてたでしょ」
「少し」
「もう一回」
桜がすぐに次のコースを選んだ。
「今度はちゃんとやってよ」
「分かった」
「本気でね」
「うん」
今度は、画面だけを見ることにした。
曲がり角の前で減速する。道に落ちている道具を取る。
桜の車が前に出たら、後ろからぶつける。
「ずるい」
「そういうゲームだから」
「さっきまでぼーっとしてたくせに」
「今度は本気」
「大人げない」
「まだ大人じゃない」
桜は少し黙ってから、笑った。
二回目は僕が勝った。三回目も僕が勝った。
四回目は、ゴールの直前で桜が僕を抜いた。
「やった」
桜が両手を上げる。
「今のはたまたま」
「負け惜しみ」
「もう一回」
「お兄ちゃん、負けず嫌いだね」
「桜にだけは負けない」
「さっき負けたじゃん」
「今度は負けない」
「じゃあ、次はこれ」
桜は別のゲームを選んだ。
休みの日でなければ、こんなふうに二人だけで長く過ごすことはあまりなかった。
平日は、僕が帰る頃には桜も家にいる。でも桜は宿題をするし、僕は夕飯まで自分の部屋にいる。
夕飯の時には、母さんも父さんも姉さんもいる。
最近、桜が僕に話しかける時は、僕の顔色や食事のことが多かった。
今日は違った。
ゲームの話をした。
学校の話もした。
桜のクラスでは、席替えがあったらしい。前の席の男子が、授業中に消しゴムを落としてばかりいるらしい。
隣の席の女子は、鉛筆を十本以上持ってきている。
休み時間には友達と鬼ごっこをして、給食の牛乳をこぼした子がいた時には、みんなで雑巾を取りに行ったらしい。
桜は、次から次へと話した。
僕は、ほとんど知らなかった。
桜が学校で誰と話しているのか。どんな遊びをして、どんなことで笑っているのか。
同じ家に住んでいるのに、知らないことばかりだった。
「お兄ちゃんは、どこ行ってたの?」
ゲームの途中で、桜が聞いた。
「散歩」
「どこまで?」
「奈落の方」
桜の指が止まった。
画面の中で、桜のキャラクターが穴に落ちる。
「奈落?」
「うん」
「本当にあるの?」
「あるよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「悪いことすると落とされるところでしょ?」
「誰に聞いたの」
「学校」
桜はコントローラーを膝に置いた。
「すごく悪いことした人は、奈落に落とされるって」
「誰も落とさないよ」
「でも、奈落っていうんでしょ」
「名前がそうなだけ」
「どんなところ?」
「森の中に、深い谷みたいなところがある」
「谷?」
「うん。柵があって、中には入れない」
「中、入ったの?」
「入ってない。柵の外から見ただけ」
「怖くなかった?」
「少し暗かった」
「それだけ?」
「うん」
「おばけとかいないの?」
「見てない」
「人、落ちてない?」
「落ちてない」
桜は安心するどころか、さらに怖そうな顔をした。
「絶対、行きたくない」
「行かなくていいよ」
「お兄ちゃんも行かないで」
「どうして」
「落ちたら危ないから」
「落ちない」
「悪いことしたら落ちるかもしれない」
「しなければ大丈夫」
僕がそう言うと、桜は少し考えた。
「お兄ちゃん、悪いことする?」
「たぶん、しない」
「たぶんって何」
「しないよ」
「じゃあ大丈夫だね」
桜はようやく笑った。
悪いことをしなければ大丈夫。
自分で言っておいて、変な言葉だと思った。
悪いことをしていないのに、死ぬものはいる。逃げても、隠れても、何もしていなくても。
奈落に落ちるように、突然終わるものもいる。
けれど、桜には言わなかった。
言う必要のないことだった。
ゲームを再開すると、桜はまた学校の話をした。
僕はそれを聞いた。時々返事をして、時々質問した。
窓の外が少しずつ暗くなっていった。
母さんが帰ってくるまで、僕たちはゲームをして、話をした。
笑った。
僕もたぶん、一度だけ少し笑った。
こんな午後は、久しぶりだった。
いつ以来だったのかは、思い出せなかった。
◆ ◆ ◆
母さんが帰ってきたのは、外が暗くなり始めた頃だった。
夕食の時、桜は今日のことをよく話した。
僕にゲームで勝ったこと。
奈落の話を聞いたこと。
僕が一度だけ本気になったこと。
「耀が桜とゲームなんて、珍しいわね」
母さんが言った。
「そう?」
「最近、やってなかったでしょ」
「うん」
「お兄ちゃん、最初ぼーっとしてたんだよ」
桜が言う。
「でも、その後すごく本気になった」
「桜に負けたから?」
姉さんが笑った。
「一回だけ」
「負けたんだ」
「一回だけ」
父さんまで笑った。
僕も否定しなかった。
奈落のことも少し話した。
母さんは、危ない場所だから近づきすぎないようにと言った。父さんも同じことを言った。
姉さんは、そんな場所へ何をしに行ったのかと聞いた。
「散歩」
そう答えると、姉さんは変な顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
夕食が終わるまで、桜はずっと話していた。
学校のこと。
ゲームのこと。
僕が負けたこと。
いつもより、食卓の時間が長く感じた。
悪くはなかった。
◆ ◆ ◆
その後、風呂に入って自分の部屋へ戻った。
昼間は楽しかった。
たぶん、本当に。
けれど、布団を見ると、それとは別のことを考えた。
今日も眠る。
眠れば、また何かが死ぬ。
楽しかった日でも。
家族と話した夜でも。
眠りだけは、いつも同じだった。




