第18話 奈落
朝、鏡を見た。
顔色は悪かった。
昨日の夜の夢のせいだと思う。
手はある。
指もある。
腹もある。
ちゃんと、昨日までと同じ体だった。
それでも、腹のあたりにはまだ、何かを引きずり出されたような感じが残っている。
布団から出ても。
顔を洗っても。
服を着替えても。
なかなか消えなかった。
鏡の中の僕は、一晩中何かを失い続けていたような顔をしていた。
目の下。
頬の色。
唇。
これは、たぶん隠せない。
タブレットで調べた時は、簡単そうに書いてあった。
口角を上げる。
目元をやわらかくする。
背筋を伸ばす。
明るい声で話す。
それだけで、相手に与える印象は変わるらしい。
でも、顔色の悪さはどうにもならない。
僕は鏡の前で、少しだけ笑ってみた。
変だった。
顔色の悪い人間が、無理に笑っている。
それだけだった。
もう一度やる。
今度は、もう少し大きく口の端を上げた。
目も少し細くする。
頬にも力を入れる。
鏡の中の僕は、さっきより変な顔になった。
でも、心配される顔ではないかもしれない。
心配されるよりは、変だと思われる方がいい。
僕は、その顔を少しだけ覚えた。
朝食の席へ行くと、桜が僕を見た。
いつものように、じっと見ている。
顔色。
目。
食欲。
眠そうかどうか。
たぶん、そういうものを見ている。
僕は、鏡の前で覚えた顔をした。
口角を上げる。
目元をやわらかくする。
大丈夫そうに見せる。
桜は一瞬、黙った。
それから、ぷっと笑った。
「お兄ちゃん、変な顔」
母さんもこちらを見た。
「何してるの?」
「別に」
僕はすぐに顔を戻した。
失敗だったのかもしれない。
でも、桜は顔色が悪いとは言わなかった。
眠そうとも言わなかった。
大丈夫なのかとも聞かなかった。
ただ、僕の顔を見て笑った。
それなら、完全な失敗ではない。
心配されるよりは、笑われる方がいい。
朝ごはんは、あまり食べたくなかった。
昨日の夢が、まだ腹の奥に残っていた。
食べられているのに、腹が減っていた感覚。
腹の中を引きずり出されているのに、それでも食べようとしていた感覚。
思い出すと、箸が止まりそうになった。
でも、止めなかった。
普通に箸を動かす。
普通に噛む。
普通に飲み込む。
味噌汁を飲む。
ご飯を食べる。
卵焼きも食べる。
食べたくなくても、食べる。
無理をしているようには見せない。
桜はもう、僕ではなくテレビを見ていた。
それでいい。
母さんが言った。
「今日はどうするの?」
「少し出かける」
「どこか行くの?」
「歩くだけ」
母さんは少し考えてから、時計を見た。
「じゃあ、午後は桜のこと見ててくれる?」
桜が顔を上げた。
「お母さん、出かけるの?」
「買い物と、ちょっと用事。長くはかからないけど」
母さんは僕を見た。
「二時くらいまでには帰ってこられる?」
「うん」
すぐに答えた。
家にいる時間を減らせる。
午後には帰る理由もできる。
桜の面倒を見る。
少し面倒ではあった。
でも、何もない休日よりはよかった。
何もすることがないと、眠くなる。
眠ると、また何かが死ぬ。
それに気分転換も兼ねて外を歩きたい、
だから、午後に予定があるのは助かる。
「二時までには帰る」
僕が言うと、桜は少し嬉しそうにした。
「じゃあ、あとでゲームして」
「少しなら」
「やった」
桜は笑った。
僕の顔色を見て笑うより、こういうことで笑っていた方がいい。
朝食を終えて、僕は家を出た。
学校は休みだった。
制服ではない服で外を歩くと、少し変な感じがした。
普段なら、西へ行く。
僕の家から西へ少し歩けば、学校がある。
今日は、反対の東へ向かった。
僕の住んでいる霞町の東には、東国町がある。
北の方には、森がある。
その森の中に、深い谷のような場所があった。
本当の名前は知らない。
地図には、緑地とか保全区域とか、別の名前が書かれているのかもしれない。
でも、町の人間はだいたい、そこを奈落と呼んでいた。
底が見えないから。
落ちたら戻れないと言われているから。
森の中に、黒い穴が開いているように見えるから。
呼ばれるようになった理由はいくつか聞いた。
どれが本当なのかは知らない。
周りには柵がある。
立入禁止の看板も立っている。
大人たちは、近づくなと言う。
僕も、小さい頃に父さんと近くを通ったことがあるくらいだった。
その時は、柵の向こうを少し見ただけだった。
木が多くて。
暗くて。
底は見えなかった。
風の音だけが、下の方から聞こえてきた。
今日は、奈落へ行こうと思っていたわけではない。
ただ、気分を変えるため東へ歩いた。
休みの日の午前中は、平日の朝とは少し違う。
ランドセルを背負った小学生はいない。
制服を着た中学生も、ほとんどいない。
店のシャッターが半分だけ開いている。
自転車のかごにネギを入れた女の人が通る。
犬を連れた老人が、ゆっくり歩いている。
普通の休日だった。
僕も、たぶん普通の顔で歩いていた。
そう思いたかった。
霞町から東国町へ抜ける道には、小さな坂がある。
坂を下りると、道が少し広くなる。
新しい家も増える。
僕は特に目的もなく、その辺りを歩いた。
眠らないため。
家にいすぎないため。
普通の休日らしくするため。
それだけだった。
横断歩道の近くで、見覚えのある人を見つけた。
佐倉だった。
女の人と一緒に歩いている。
たぶん、母親だと思う。
佐倉と同じように細くて、静かな雰囲気の人だった。
片手に買い物袋を持っている。
佐倉は私服だった。
学校で見る時よりも、少し小さく見えた。
眼鏡は同じ。
髪も同じ。
細いカチューシャもしていた。
ただ制服ではないというだけで、少し違う人みたいだった。
佐倉はこちらには気づいていなかった。
母親と何かを話しながら歩いている。
僕は声をかけなかった。
声をかけたら、挨拶をしないといけない。
そのあと、何かを話さなければならない。
昨日のこともある。
何を話せばいいのか分からなかった。
だから、そのままにした。
この辺りに住んでいるのだろうか。
それとも、ただ買い物に来ただけなのか。
分からない。
でも、休日の午前中に母親と一緒に歩いている。
家は、それほど遠くないのかもしれない。
そう思った。
覚えてどうするのかは分からない。
ただ、覚えた。
佐倉の手首は、長袖で隠れていた。
僕は、そこを見てしまった。
昨日見たものを思い出した。
細い傷。
何本も並んでいた跡。
見ても、今日は何も分からない。
何も聞けない。
聞くつもりもない。
それでも、見てしまう。
僕は佐倉たちが歩いていくのを、少しだけ見ていた。
二人は細い道を曲がり、家の間へ消えた。
僕も歩き出した。
東国町をしばらく歩いたあと、霞町の方へ引き返した。
まだ二時までは時間がある。
そのまま家へ帰ってもよかった。
けれど、途中で北へ続く道が目に入った。
道の向こうには、森が見えた。
奈落のある方角だった。
せっかく近くまで来たのだから、見てみようと思った。
それだけだった。
北へ続く道を歩く。
少しずつ家が減っていく。
塀が低くなる。
空き地が増える。
やがて、森を囲む金網の柵が見えた。
柵の向こうには、木が並んでいた。
白い看板に、赤い文字が書かれている。
立入禁止。
危険。
柵の外側には、森を囲むように細い道が続いていた。
人が普通に歩ける道だった。
草は刈られている。
ところどころ舗装が古くなっていたけれど、歩きにくくはなかった。
僕は柵の前で立ち止まり、中を見た。
木の間から、斜面が下へ続いているのが見える。
その先は暗く、底までは見えなかった。
小さい頃に見た時と、あまり変わっていないように思えた。
奈落。
名前だけを聞くと、もっと特別な場所に思える。
でも、外から見れば森だった。
木が生えている。
葉が揺れている。
鳥の声もする。
ただ、その下に深い谷がある。
僕は柵の外の道を歩き始めた。
奈落の周りを、一周してみることにした。
何かを探していたわけではない。
中へ入るつもりもない。
ただ、どのくらいの大きさなのか気になった。
道は、柵に沿ってゆるく曲がっていた。
場所によって、森の見え方が少しずつ違う。
木が密集していて、ほとんど何も見えない場所。
木と木の間が広く、斜面が見える場所。
地面に落ち葉が積もっている場所。
柵に蔓が絡みついている場所。
何度か、立入禁止の看板が立っていた。
どれも同じようなことが書かれている。
危険なので、柵の中へ入らないでください。
柵を越えないでください。
奈落の中から、何か音が聞こえるわけではなかった。
不思議なものが見えるわけでもない。
風が吹けば、枝が揺れる。
鳥が飛べば、葉が鳴る。
それだけだった。
柵の外の道では、何人かとすれ違った。
犬を散歩させている人。
運動するような服を着て歩いている人。
自転車を押している老人。
みんな、奈落の中を見ることもなく、普通に通り過ぎていく。
町の人にとっては、昔からある場所なのだと思う。
怖い場所というより、入ってはいけない森。
そのくらいなのかもしれない。
しばらく歩くと、道の向こうに住宅が見えた。
奈落のすぐ近くにも、普通に家が建っている。
庭に洗濯物が干されている。
窓が開いている。
遠くから、テレビの音も聞こえた。
奈落は町から離れた場所にあるわけではない。
普通の家の近くにある。
普通の道の隣にある。
それでも、柵の内側だけは暗かった。
僕はそのまま歩いた。
思っていたよりも広かった。
すぐに一周できると思っていたけれど、道はなかなか最初の場所へ戻らない。
何度か時計を確認した。
まだ時間はある。
道は平らだった。
急ぐ必要もない。
森を右側に見ながら、ゆっくり歩いた。
途中に、小さな公園があった。
滑り台と、古いベンチだけが置かれている。
公園のすぐ後ろにも、奈落を囲む柵が続いていた。
子どもは誰もいなかった。
ベンチに座っている人もいない。
僕も立ち止まらず、そのまま通り過ぎた。
もう少し進むと、見覚えのある看板が見えてきた。
最初に見た、立入禁止の看板だった。
一周したらしい。
結局、どこから見ても底は見えなかった。
何かが分かったわけでもない。
ただ、奈落が思っていたよりも広いことが分かった。
それだけだった。
僕は時計を見た。
昼を過ぎていた。
そういえば、昼ごはんを食べていない。
朝はあまり食欲がなかったのに、今は普通に腹が減っている。
腹の奥に残っていた昨日の感覚も、歩いているうちに少し薄くなっていた。
今の空腹は、夢の中のものではない。
ただ、昼ごはんを食べていないから腹が減っている。
それが少し嬉しかった。
二時までには帰ると約束している。
桜もゲームを待っている。
僕は奈落に背を向けた。
帰り道では、朝よりも体が軽くなっていた。
桜に変な顔だと笑われた。
佐倉を見かけた。
奈落を一周した。
特別なことは、何もしていない。
でも、今日は朝から、昨日より少しだけうまくやれている気がした。
家に着いたのは、二時より少し前だった。
玄関の前で、一度だけ息をする。
普通の顔。
普通の声。
普通の休日。
今朝よりは、少し簡単にできそうだった。
「ただいま」
玄関を開ける。
家の中から、桜の声がした。
「おかえり。早かったね」
「うん」
靴を脱ぐ。
腹は減っていた。
昼ごはんは、まだ食べていない。
でも、二時までには帰ってきた。
今日は今のところ、うまくやれている。




