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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸耀


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第17話 動けない肉

動けなかった。


最初から、動けなかった。


目が覚めた時には、もう体の下がくっついていた。


床なのか。


紙なのか。


板なのか。


分からない。


ただ、足の先がそこから離れない。


腹の下も、べったりと貼りついていた。


熱かった。


焼けるような熱さではない。


逃げ場のない、ぬるい熱だった。


湿った空気が、体にまとわりついている。


古い油。


腐りかけた食べ物。


ほこり。


排水口から上がってくる水と汚れのにおい。


全部が温められて、狭い場所に溜まっていた。


空気が重い。


人間の肺のようなものがあるわけではない。


それでも、この体が息苦しがっていることは分かった。


熱が逃げない。


湿っているのに、体は乾いていく。


喉はない。


でも、渇いていた。


口の中も。


腹の奥も。


硬い殻の内側まで。


全部が乾いていた。


周りには、見覚えのある黒い虫がたくさんいた。


台所の隅。


流しの下。


夜に電気をつけた時、さっと逃げる黒い影。


人間だった僕なら、見つけた瞬間に嫌な顔をする虫。


それが何匹も、近くにいた。


壁に張りついているもの。


床の隙間に半分だけ入っているもの。


長い触角を動かしているもの。


そして、僕と同じように、何かに貼りついて動けなくなっているもの。


黒い脚が、ばたばたと震えている。


薄い羽が、粘ついた床にこすれている。


腹の下が、べったりと離れない。


この体も同じだった。


同じ黒い虫。


同じ場所にいるもの。


同じにおいを持つもの。


人間から見れば、全部まとめて気持ちの悪い虫。


でも、この体にとっては、たぶん違う。


仲間。


そう呼ぶものなのかもしれない。


何度も動こうとしたのだと思う。


体には、逃げようとした跡が残っていた。


脚の付け根が痛い。


腹の下が乾いている。


薄い羽が、背中ごと貼りついている。


体のあちこちが、もう自分のものではないみたいに重かった。


それでも、この体は動こうとした。


一度。


二度。


何度も。


貼りついた脚を持ち上げようとする。


腹をねじる。


羽を開こうとする。


そのたびに、粘ついたものが体を下へ引き戻した。


脚の付け根が引っぱられる。


硬い殻の内側まで、ゆっくり裂かれていくように痛む。


ぶち。


小さな音がした。


脚の先の何かが剥がれたのかもしれない。


遅れて、鋭い痛みが走った。


それでも、この体は止まらなかった。


痛いから動かないのではない。


痛くても、動かなければ死ぬと分かっている。


逃げたい。


暗い隙間へ戻りたい。


水がほしい。


食べ物がほしい。


この熱から離れたい。


そんな感情が、まとまらないまま僕の中へ流れ込んでくる。


遠くで、水の音がした。


ぽた。


ぽた。


一滴ずつ落ちる音。


この体には、水のにおいも分かっていた。


近い。


すぐ近くにある。


それなのに届かない。


脚一本分も動けない。


水の音を聞きながら、乾いていく。


食べ物のにおいを嗅ぎながら、腹を減らしている。


ここがどこなのか、僕には分からなかった。


でも、この体は知っていた。


隙間。


壁の裏。


床の端。


人間の目が届かない場所。


そういう場所を、この体は知っている。


そして、この体は、ひどく腹をすかせていた。


ただの空腹ではなかった。


朝ごはんを抜いたとか。


昼まで我慢したとか。


そういうものではない。


もっと長い。


何日も。


何週間も。


もしかしたら、一か月より長い。


この体は、ずっと食べていなかった。


腹の中は空だった。


空腹で痛むものすら、もう残っていない。


ただ、食べたいという感覚だけがあった。


何でもいい。


腐ったものでも。


油でも。


紙でも。


仲間の死骸でも。


口に入るものなら、何でもよかった。


食べたい。


水がほしい。


動きたい。


逃げたい。


死にたくない。


それだけが、熱の中で何度も繰り返されていた。


マロの時とは違った。


マロは、苦しくても、どこか静かだった。


疲れていた。


もう十分だと、体の奥のどこかで分かっていた。


でも、この体は違う。


終わりたくない。


まだ動きたい。


まだ食べたい。


まだ暗い隙間に戻りたい。


その気持ちが、僕の中に直接流れ込んでくる。


細くて。


黒くて。


汚くて。


必死な感情だった。


嫌だった。


でも、それは確かに、生きたいという気持ちだった。


かさ。


近くで音がした。


この体の触角が、わずかに震えた。


何かが来る。


暗がりの奥で、黒い影が動いていた。


一つではない。


二つ。


いや、もっといる。


細い脚が床を叩く音。


硬い体が壁にこすれる音。


触角が、空気を探る音。


それらが少しずつ近づいてくる。


同じにおい。


同じ形。


同じ暗い場所を這うもの。


仲間。


この体は、たぶんそう思った。


助けではない。


そんなものが来るはずがない。


それでも、この体は反応した。


黒い影の一つが、体の前まで来た。


もう一つは、横に回った。


近い。


近すぎる。


触角が触れた。


脚が触れた。


硬い体同士がこすれた。


この体は震えた。


助けに来たわけではない。


それが分かるまで、ほとんど時間はかからなかった。


ぼり。


音がした。


最初、何の音か分からなかった。


ぼり。


もう一度。


硬いものが、硬いものを噛む音。


前脚の先がなくなっていた。


痛みが少し遅れて届いた。


熱い。


噛まれた場所だけが、周りの空気よりさらに熱くなった。


細い脚の中身が露出し、そこをまた噛まれた。


ぼり。


ぼり。


硬い殻が砕かれる。


小さな欠片が剥がれる。


この体は脚を引こうとした。


でも、粘ついた床に固定されたまま動かない。


逃げようとすればするほど、残っている脚の付け根まで裂けそうになった。


黒い影は、止まらなかった。


仲間だと思ったものが、この体の先を食べている。


少しずつ。


確かめるように。


ぼり。


ぼり。


横から来た別の影が、腹に噛みついた。


硬い殻と殻の間。


柔らかいところ。


体の弱いところ。


そいつは、そこを知っていた。


食べ方を知っていた。


ぼり。


ぬちゅ。


違う音がした。


腹が開いた。


熱い空気が、体の中へ直接触れた。


さっきまで殻に守られていた場所へ、湿った空気と油のにおいが入り込む。


内側を外にさらされる。


それだけで、体中が縮むようだった。


何かが引っぱられた。


腹の中の柔らかいものだった。


ゆっくり。


途中で引っかかりながら。


切れずに、長く伸びていく。


ぬちゅ。


ぐちゅ。


引きずり出されたものを、別の口が噛んだ。


痛い。


痛い。


痛い。


でも、声は出ない。


叫ぶ口もない。


それでも、全身が叫んでいた。


触角が狂ったように動く。


残った脚が空気を掻く。


羽が粘ついた床を叩く。


何も押し返せない。


何も守れない。


何も届かない。


ただ、食べられている。


生きたまま。


熱い空気の中で。


腹を空かせたまま。


自分より先に、自分の体が食べ物へ変わっていく。


ぼり。


ぐちゅ。


ぼり。


ぐちゅ。


音が近い。


自分の体が壊れる音が、すぐそばで聞こえる。


それなのに、この体はまだ死んでいなかった。


まだ感じている。


まだ分かっている。


まだ腹が減っている。


食べられているのに、腹が減っている。


それが一番嫌だった。


自分の体が、誰かの食べ物になっている。


なのに、この体もまだ食べ物を欲しがっている。


食べたい。


逃げたい。


生きたい。


死にたくない。


その全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。


どれがこの体の気持ちで、どれが僕の気持ちなのか分からない。


僕は、見ているだけのはずだった。


これは、もう死んだ命の最後の記憶のはずだった。


でも、マロの時よりずっと近い。


痛みも。


飢えも。


恐怖も。


まだ死にたくないという気持ちも。


全部が、僕の方へ直接返ってくる。


やめろ。


そう思った。


でも、声にはならない。


この体の口は、何かを訴えるためのものではなかった。


食べるためのものだった。


噛むためのものだった。


今、その口ではなく、別の口がこの体を噛んでいる。


反対側の前脚も、もうほとんどなかった。


腹は開いていた。


中身が減っている。


体の半分が、もう自分ではなくなっている。


黒い影が、腹の中に頭を入れていた。


別の影が、脚の付け根を噛んでいた。


さらに別の影が、背中の殻を削っていた。


仲間。


この体は、たぶんそういうにおいを感じていた。


同じ暗がりにいたもの。


同じものを食べていたもの。


同じ隙間を這っていたもの。


でも、弱った瞬間に、それは仲間ではなくなった。


動けない肉。


逃げない餌。


それだけになった。


食べられる側は、ただ食べられているだけではない。


嫌だと思っている。


逃げたいと思っている。


最後まで、体は動こうとしている。


でも、動けない。


動けないものは、食べられる。


熱さだけは、最後まで消えなかった。


体の半分がなくなっても、残った殻の内側にぬるい熱がこもっている。


空気が重い。


においが濃い。


油。


腐った食べ物。


湿った床。


それに、自分の中身のにおいまで混ざっている。


痛みは、少しずつ遠くなっていった。


食べられている音も、遠くなる。


それでも、腹の減りだけが最後まで残っていた。


おかしいと思った。


こんなに食べられているのに。


こんなに体がなくなっているのに。


まだ、この体は食べたいと思っている。


生きたいと思っている。


まだ。


まだ。


まだ。


黒い影が、顔の近くまで来た。


触角が触れた。


同じにおいがした。


仲間のにおいだった。


その口が、僕のすぐ前で開いた。


ぼり。


そこで、何も分からなくなった。


目が覚めた。


部屋は暗かった。


布団の中だった。


僕は口を閉じたまま、しばらく動けなかった。


手がある。


指がある。


腹もある。


ちゃんとある。


そう分かっているのに、腹のあたりが冷たかった。


さっきまで、熱い空気にさらされていたはずなのに。


何かを引きずり出されたような感じが、まだ残っている。


口の中には、何も入っていない。


それでも、硬いものを噛む音が耳の奥に残っていた。


ぼり。


ぼり。


僕は自分の前腕を触った。


肘。


手首。


指。


全部ある。


次に、腹へ手を当てた。


皮膚がある。


中身も、たぶんある。


それでも、少し強く押さえていないと、開いてしまいそうだった。


仲間。


あれは、仲間だったのだろうか。


同じ場所にいるから。


同じにおいがするから。


同じ形をしているから。


それだけで、仲間なのだろうか。


弱ったら食べられるのに。


動けなくなったら、腹から食われるのに。


あの虫たちは、たぶん悪いとは思っていなかった。


腹が減っていた。


食べられるものがあった。


だから食べた。


ただ、それだけだった。


僕は布団の中で、自分の腹を押さえた。


生きている。


まだ、僕は生きている。


でも、あの体も最後まで生きていた。


食べられながら。


壊れながら。


半分なくなりながら。


それでも、死にたくないと思っていた。


窓の外は、まだ暗い。


今日は学校がない。


それを思い出して、少しだけ嫌になった。


学校がない。


家にいる時間が長い。


何もしていなければ、また眠くなるかもしれない。


眠れば、また死ぬかもしれない。


僕は目を閉じなかった。


閉じたら、またあの暗い隙間に戻る気がした。


熱くて。


狭くて。


水の音だけが近くにあって。


動けないまま、少しずつ食べられる場所へ。


ぼり。


耳の奥で、まだ音がしていた。

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