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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸 耀
第一章 死ぬ夢

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第17話 動けない肉


動けなかった。


最初から、動けなかった。


目が覚めた時には、もう体の下が何かにくっついていた。


床なのか。


紙なのか。


板なのか。


分からない。


ただ。


脚が動かない。


一本も。


前へ出せない。


引くこともできない。


体を起こそうとしても、腹の下がべったりと貼りついている。


羽も開かない。


背中まで押さえつけられているみたいだった。


動け。


そう思う。


動け。


逃げろ。


でも。


何も動かない。


脚の先が少し震えるだけだった。


熱かった。


焼けるような熱さではない。


逃げ場のない、ぬるい熱。


湿った空気が、体中にまとわりついている。


古い油。


腐りかけた食べ物。


ほこり。


排水口から上がってくる水と汚れのにおい。


何かが腐った甘ったるいにおい。


全部が温められて、狭い場所に溜まっていた。


ここから離れたい。


それだけなのに。


離れられない。


ほんの少し前へ行けば、もっと暗い場所がある。


隙間がある。


この体は、それを知っていた。


あそこまで行けば隠れられる。


たぶん涼しい。


でも。


行けない。


人間なら、一歩だったかもしれない。


この体でも、何秒か走れば届く距離なのかもしれない。


なのに。


一ミリも近づけない。


僕は脚を上げようとした。


いや。


僕が動かしているわけじゃない。


この体が、必死に動こうとしている。


前脚が震える。


持ち上がりかける。


粘ついたものが、それを下へ引く。


戻される。


もう一度。


持ち上げる。


戻される。


もう一度。


もう一度。


何度やっても同じだった。


体はここにいる。


ずっと同じ場所にいる。


動こうとしているのに。


景色が、少しも変わらない。


それが怖かった。


周りには、見覚えのある黒い虫がいた。


台所の隅。


流しの下。


夜に電気をつけた時、さっと逃げる黒い影。


人間だった僕なら、見つけた瞬間に嫌な顔をする虫。


それが何匹もいた。


壁を這うもの。


床の隙間へ消えるもの。


細い脚で素早く走っていくもの。


そいつらは動ける。


僕のすぐ横を通っていく。


一瞬で遠ざかる。


隙間へ入る。


見えなくなる。


僕だけが動けない。


近くには、僕と同じように貼りついているものもいた。


黒い脚がばたばたと震えている。


羽が粘着面を叩く。


体をひねっている。


でも、進まない。


さっきからずっと同じ場所にいる。


僕と同じだった。


動いている。


必死に動いている。


なのに、逃げていない。


動くことと。


移動することが。


別のことになっていた。


この体も何度も逃げようとしていたらしい。


脚の付け根が痛い。


何本かは変な方向へ引っぱられている。


羽も背中から剥がれそうだった。


それでも動く。


止まれない。


止まったら終わる。


そんな感じがした。


腹をねじる。


脚を持ち上げる。


羽を開こうとする。


そのたびに、粘着面が体を下へ引き戻す。


脚だけが伸びる。


関節が引っぱられる。


ぶち。


小さな音がした。


一瞬だけ。


体が軽くなった。


動けた。


そう思った。


違った。


前脚の先が、粘着面に残っていた。


脚が取れただけだった。


僕の体は。


まだ同じ場所にいた。


景色は変わらない。


逃げられていない。


ただ、脚が一本短くなった。


切れたところから、ぬるいものがにじんでいる。


遅れて痛みが来た。


それでも、この体は動こうとした。


残った脚で。


まだ逃げようとした。


痛いから止まるんじゃない。


痛くても動きたい。


ここから離れたい。


でも動けない。


遠くで、水の音がした。


ぽた。


ぽた。


一滴ずつ落ちる音。


触角がそちらへ向いた。


水。


この体には分かる。


近い。


ものすごく近い。


飲みたい。


渇いていた。


喉なんてない。


それでも、体中が水を欲しがっていた。


ぽた。


一滴落ちる。


行きたい。


ぽた。


また落ちる。


行けない。


水はそこにある。


僕はここにいる。


その距離が、絶対に縮まらない。


脚一本分。


それだけ動けば何かが変わるかもしれない。


でも、その脚一本分が動けない。


体が乾いていく。


水の音だけが聞こえる。


飲めない。


僕はまた動こうとした。


貼りついた腹が引っぱられる。


痛い。


それでも、もっと力を入れる。


動かない。


何も変わらない。


ずっと同じ場所。


ずっと同じ景色。


ずっと同じ熱。


それが終わるのを待つしかない。


嫌だった。


この体は、ひどく腹をすかせていた。


長い間、何も食べていない。


何でもよかった。


腐ったもの。


油。


紙。


死骸。


口に入るものなら何でもいい。


食べたい。


水がほしい。


動きたい。


逃げたい。


死にたくない。


全部、やることは同じだった。


動かなければならない。


でも。


動けない。


マロの時とは違った。


マロは自分の終わりを分かっていた。


怖がっていなかった。


まだ一緒にいたいとは思っていた。


でも、この体は違う。


受け入れていない。


終わりたくない。


ここから逃げれば。


水まで行けば。


食べ物を見つければ。


まだ生きられる。


そのはずなのに。


その最初の一歩すら動けない。


かさ。


近くで音がした。


触角が震えた。


暗がりの奥で、黒い影が動いている。


一つ。


二つ。


もっといる。


細い脚が床を叩く。


速い。


動ける。


自由に。


こっちへ来る。


この体が反応した。


逃げろ。


嫌な感じがする。


離れろ。


でも。


離れられない。


影は近づいてくる。


僕は動けない。


距離だけが縮んでいく。


向こうが近づいてくるから。


僕は一歩も動いていないのに。


大きくなる。


近くなる。


逃げたい。


脚を動かす。


動かない。


腹をねじる。


動かない。


羽を開く。


動かない。


黒い影が目の前まで来た。


触角が触れた。


顔に。


残った前脚に。


ちぎれたところに。


僕は離れたかった。


ほんの少しでいい。


体を引きたかった。


顔だけでも遠ざけたかった。


できない。


触角が何度も触れる。


相手の口が近づく。


見えている。


来るのが分かる。


でも。


避けられない。


ぼり。


前脚の先を噛まれた。


痛みより先に。


やっぱり逃げられなかった。


そう思った。


ぼり。


もう一度。


脚が短くなる。


僕は引こうとする。


引けない。


相手は追いかけてすらいない。


ただ、その場で食べている。


逃げない餌を。


僕は逃げたいのに。


逃げられないだけなのに。


別の影が横へ回った。


見える。


そっちへ来る。


腹の横に触角が当たる。


嫌だ。


そこは駄目だ。


そう思う。


でも。


体の向きを変えることすらできない。


ぼり。


殻の継ぎ目を噛まれる。


もう一度。


ぼり。


体をひねろうとする。


粘着面が離れない。


むしろ暴れたせいで、腹がさらに押しつけられる。


逃げようとするほど。


もっとくっつく。


ぶち。


腹が裂けた。


ぬるいものが外へ流れる。


粘着面に広がる。


それが体の下へ回り込む。


さらにべたつく。


自分の中身まで、僕をここへ貼りつけるものになっていく。


動け。


動け。


動け。


脚が震える。


進まない。


黒い影が腹へ頭を入れる。


それが見える。


止められない。


遠ざかれない。


腹の中で何かを噛まれる。


ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ。


体の奥が引っぱられる。


柔らかいものが、外へ伸びる。


この体が暴れる。


何も変わらない。


目の前の景色すらずれない。


ぬちゅ、ぬちょ、ぬちゅ。


中身が引きずり出される。


別の虫がそれを噛む。


まだ僕につながっているものを。


食べている。


ぼりぼり。


ぐちゅ。


ばりばり。


音がする。


痛い。


気持ち悪い。


怖い。


でも。


一番怖いのは。


全部分かっているのに、逃げられないことだった。


噛まれる前から分かる。


次にどこを噛まれるのか見える。


影が近づいてくる。


口が開く。


触角が触れる。


それでも。


体を一センチもずらせない。


食べられるたびに、もっと動けなくなる。


脚が減る。


腹が壊れる。


羽が裂ける。


残った体まで粘着面に沈む。


最初から動けなかった。


でも。


まださっきの方が動けた。


少なくとも、脚は残っていた。


今は違う。


逃げるための体そのものが、少しずつなくなっていく。


黒い影が増えた。


においで集まってきたのかもしれない。


一匹。


二匹。


三匹。


体の周りを自由に動いている。


僕の上を越える。


向きを変える。


好きな場所へ行く。


そして、好きな場所から僕を食べる。


僕だけが動けない。


腹から。


脚から。


背中から。


口が入る。


痛い、逃げたい。


死にたくない。


でも。


もう何を動かせば逃げられるのかも分からない。


脚がない。


腹は開いている。


羽も動かない。


それでも、この体はまだ動こうとする。


残っている部分を震わせる。


ほんの少しでも。


少しでも遠くへ。


でも。


行けない。


同じ場所。


ずっと。


同じ場所。


食べられる側は、ただ食べられているんじゃない。


逃げようとしている。


最後まで。


でも。


逃げられない。


動けないから食べられる。


それだけだった。


仲間。


同じ暗がりにいたもの。


同じにおいを持つもの。


でも、今の僕はもう仲間じゃない。


動けない肉。


逃げない肉。


まだ生きているのに。


逃げられないから。


餌になった。


痛みは、少しずつ遠くなっていった。


でも。


逃げたいという感覚だけは消えなかった。


体が半分なくなっても。


もうまともな脚が残っていなくても。


まだ。


動こうとしていた。


まだ。


行こうとしていた。


暗い隙間へ。


水のある方へ。


ここではない場所へ。


どこでもいい。


ここから離れたい。


でも。


動けない。


黒い影が顔の近くまで来た。


触角が触れる。


口が開く。


嫌だ。


離れたい。


顔を背けたい。


できない。


動け。


動け。


動け。


ぼり。


そこで。


何も分からなくなった。


 ◇ ◇ ◇ 


目が覚めると、部屋は暗かった。


僕は布団の中でしばらくじっとしていた。夢の中の感覚がまだ残っていて、最初に体を動かすのが少し怖かった。


右手の指を曲げてみる。


ちゃんと動いた。


手首を回し、腕を持ち上げる。布団から簡単に離れた。


次に足を動かした。膝を曲げて、伸ばしてみる。


それも普通に動いた。


僕は少し安心して、布団の中で体を横にずらした。さっきまで同じ場所から一ミリも動けなかったのに、今は簡単に景色が変わる。


起き上がって、自分の体を確かめた。


手もある。脚もある。腹も開いていないし、どこにも貼りついていない。


それでも、腹のあたりには妙な感覚が残っていた。


僕は服の上から腹を押さえた。


耳の奥には、まだ硬いものを噛み砕く音が残っている気がした。


あの体は、最後まで逃げようとしていた。


脚を食べられても、腹を開かれても、体がほとんど餌になっても、それでも動こうとしていた。


でも、一度も逃げられなかった。


最初から最後まで、ずっと同じ場所にいた。


痛かったことより、そのことの方が頭に残っていた。


目の前に危険がある。


逃げれば助かるかもしれない。


逃げなければ死ぬ。


それが分かっているのに、体が動かない。


僕はもう一度、手を開いて閉じた。


普通に動く。


それから布団を出て、床に足をつけた。


立ち上がる。


一歩歩く。


もう一歩。


ただそれだけで、さっきまでとは景色が変わった。


僕は部屋の中を少し歩いた。


別に行きたい場所があったわけではない。ただ、自分がちゃんと前へ進めることを確かめたかった。


窓の外は、まだ暗かった。


今日は学校がない。


家にいる時間が長い。


何もしていなければ、また眠くなるかもしれない。眠れば、また何かの死を見るかもしれない。


さっきみたいに、逃げたいのに動けない体になるかもしれない。


そう考えると、布団へ戻る気にはなれなかった。


僕は立ったまま、自分の足を見る。


今は動く。


逃げようと思えば、少なくとも動くことはできる。


耳の奥で、またあの音がした気がした。


ぼり。


僕はそれを振り払うように、もう一歩だけ前へ歩いた。



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