表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸耀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/28

第16話 鏡

家に帰るころには、空はもう暗くなりかけていた。


玄関の前で、一度だけ息をした。


普通の顔。


普通の声。


普通のただいま。


そんなことを考えてから、ドアを開ける。


「ただいま」


自分では、普通に言えたと思う。


廊下の奥から、桜の声がした。


「おかえり」


桜はぱたぱたと走ってきた。


僕の顔を見る。


いつものように、少しだけじっと見る。


でも今日は、何も言わなかった。


顔色が悪いとも、眠そうとも、大丈夫とも言わなかった。


それだけで、少し安心した。


「手、洗ってくる」


「うん」


僕は鞄を置いて、洗面所に行った。


蛇口をひねる。


水の音がする。


手を洗う。


それから、鏡を見た。


学校のタブレットでは、自分の顔まではよく分からなかった。


ちゃんと見るなら、鏡の方がいい。


洗面所の鏡には、僕の顔がはっきり映っていた。


目の下。


口元。


頬。


首。


どこを見ても、普通かどうかは分からない。


普通の顔というものを、僕はよく知らない。


でも、苦しそうに見えなければいい。


疲れているように見えなければいい。


怖がっているように見えなければいい。


僕は、少しだけ口の端を上げてみた。


変だった。


すぐにやめる。


もう一度、やってみる。


やっぱり変だった。


笑顔というより、何かを我慢している顔に見えた。


画面には、口角を上げると書いてあった。


目元をやわらかくすると書いてあった。


背筋を伸ばすと書いてあった。


でも、鏡の中の僕は、口の端だけを無理やり上げた変な顔をしている。


これではだめだ。


桜なら気づくかもしれない。


母さんも、たぶん少しは気づく。


姉さんなら、変な顔と言うかもしれない。


僕は口元の力を抜いた。


今度は、笑おうとしないで、普通にする。


ただ、何もない顔。


大丈夫そうな顔。


それなら少しはましだった。


「お兄ちゃーん、ご飯だって」


廊下の方から桜の声がした。


「分かった」


僕は鏡から目を離した。


普通に返事をする。


普通に歩く。


普通に席につく。


夕飯の時、僕は昼の給食の話をした。


自分から学校の話をするのは、少し珍しい。


母さんが味噌汁をよそいながら、少し驚いた顔をした。


「今日の給食、そんなにおいしかったの?」


「うん」


「何が出たの?」


「シチュー」


桜がすぐに顔を上げた。


「私も食べたい」


「まだ何のシチューか言ってない」


僕がそう言うと、桜は少しむっとした。


「シチューならおいしいもん」


それは、たぶん正しい。


母さんが笑った。


「どんな名前のシチューだったの?」


僕は少し考えた。


でも、ちゃんと覚えていた。


「牛タンの柔らか赤ワイン煮込み、マデラソースの香りと季節の温野菜を添えて」


言い終わると、母さんが笑った。


桜も、よく分かっていない顔のまま一緒に笑った。


「なにそれ。給食の名前じゃないみたい」


母さんが言った。


「名前だけでおいしそう」


桜も言った。


「名前だけじゃない」


僕は言った。


「本当においしかった」


自分で言ってから、少し不思議な気がした。


食べ物の話をしている。


今日食べたものを、ちゃんとおいしかったと言っている。


それを聞いて、桜が嬉しそうにしている。


母さんも笑っている。


姉さんはまだ帰ってきていなかった。


父さんも、まだだった。


食卓には、母さんと桜と僕だけがいた。


それが少しだけ、楽だった。


「じゃあ今度、調べて作れそうだったら作ってみるね」


母さんが言った。


「ほんと?」


桜の声が明るくなった。


「うん。でも牛タンは高いかもしれないから、別のお肉かもしれないけど」


「いい。食べたい」


桜はすごく嬉しそうだった。


「お兄ちゃんも食べる?」


桜が僕を見た。


いつものように、顔色を確かめるためではなかった。


僕が食べられるかを心配している顔でもなかった。


同じものを一緒に食べるのか、ただ聞いているだけだった。


「食べる」


僕が答えると、桜はまた笑った。


その時、少しだけ気づいた。


僕と桜が、僕の体調以外のことを話している。


朝ごはんを食べたかでもない。


顔色が悪いかでもない。


眠れているかでもない。


大丈夫かでもない。


シチューの話だった。


やたら長い名前の、給食のシチュー。


今度、母さんが作るかもしれないシチュー。


桜と一緒に食べるかもしれないシチュー。


そんなことを桜と話したのが、いつ以来なのか思い出せなかった。


久しぶりなのかもしれない。


でも、久しぶりだと言えるほど、前に話した記憶もなかった。


もしかすると、ほとんど初めてに近いのかもしれない。


僕と桜の会話は、いつも僕のことばかりだった。


僕が食べたか。


僕が眠そうか。


僕が大丈夫なのか。


桜の話をしているようでも、最後には僕の体調の話になっていた。


今日は違った。


桜は、シチューを食べたいと言った。


母さんが作れるかもしれないと言った。


僕も食べると答えた。


それだけだった。


普通の話だった。


たぶん、兄妹ならこういう話をするのだと思う。


僕は、少しだけ嬉しかった。


声に出すほどではない。


顔に出す必要もない。


でも、こういう時間なら、もっとあってもいいと思った。


桜は、僕の顔色を見ている時より、こういう顔をしていた方がいい。


僕がご飯を食べたかどうかで安心する顔より、ずっといい。


今日の夕飯では、桜は僕の体調について何も言わなかった。


僕も、自分の体調について何も言わなかった。


それでも、会話は続いた。


それが少し不思議だった。


たぶん、うまくいった。


普通の顔。


普通の返事。


普通の会話。


まだちゃんとできているのかは分からない。


でも、少なくとも今日は、桜に心配されなかった。


それだけではない。


桜と、別の話ができた。


これを続ければいい。


そう思った。


夕飯を食べ終わるころには、外はもう暗くなっていた。


夜になる。


また布団に入る。


また眠る。


そしてきっと、また死ぬ。


それは変わらない。


変えられない。


でも、それを顔に出してはいけない。


箸を置く。


「ごちそうさま」


普通に言う。


皿を運ぶ。


普通に動く。


桜がまだ、母さんにシチューの話をしていた。


「赤ワインってぶどう?」


「そうね。お酒だけど、煮込むと風味になるのかな」


「マデラって何?」


「それはお母さんも調べないと分からない」


桜は楽しそうだった。


僕はそれを聞きながら、台所に皿を置いた。


今日は、よかったのかもしれない。


最悪ではなかった。


普通の話ができた。


それだけで、今日は少し成功だった。


僕は自分の部屋に戻った。


ドアを閉める。


部屋は静かだった。


布団が見える。


夜が、そこにある。


洗面所の鏡に映っていた、自分の顔を思い出した。


笑おうとすると、変になる。


だから今は、何もない顔でいい。


怖くないように見える顔。


大丈夫そうに見える顔。


桜と、普通の話ができる顔。


僕は息をした。


顔に出さないように。


普通の顔で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ