第16話 鏡
家に帰るころには、空はもう暗くなりかけていた。
玄関の前で、一度だけ息をした。
普通の顔。
普通の声。
普通のただいま。
そんなことを考えてから、ドアを開ける。
「ただいま」
自分では、普通に言えたと思う。
廊下の奥から、桜の声がした。
「おかえり」
桜はぱたぱたと走ってきた。
僕の顔を見る。
いつものように、少しだけじっと見る。
でも今日は、何も言わなかった。
顔色が悪いとも、眠そうとも、大丈夫とも言わなかった。
それだけで、少し安心した。
「手、洗ってくる」
「うん」
僕は鞄を置いて、洗面所に行った。
蛇口をひねる。
水の音がする。
手を洗ってから、鏡を見た。
学校のタブレットでは、自分の顔まではよく分からなかった。
ちゃんと見るなら、鏡の方がいい。
洗面所の鏡には、僕の顔がはっきり映っていた。
目の下。
口元。
頬。
首。
どこを見ても、普通かどうかは分からない。
そもそも、普通の顔というものを僕はよく知らない。
でも、苦しそうに見えなければいい。
疲れているように見えなければいい。
怖がっているように見えなければいい。
僕は少しだけ口の端を上げてみた。
変だった。
すぐにやめる。
もう一度やってみる。
やっぱり変だった。
笑顔というより、何かを我慢している顔に見える。
タブレットには、口角を上げると書いてあった。
目元の力を抜く。
背筋を伸ばす。
簡単そうに書いてあったのに、実際にやると全然簡単じゃない。
鏡の中の僕は、口の端だけを無理やり上げた変な顔をしていた。
これではだめだ。
桜なら、たぶん気づく。
母さんも、少しくらいは気づくかもしれない。
姉さんなら、変な顔と言いそうだ。
僕は口元の力を抜いた。
笑おうとするのをやめる。
何もしていない顔の方が、まだましだった。
「お兄ちゃーん、ご飯だって」
廊下の方から桜の声がした。
「分かった」
僕は鏡から目を離した。
◆ ◆ ◆
夕飯の時、僕は昼の給食の話をした。
自分から学校の話をするのは、少し珍しい。
母さんが味噌汁をよそいながら、少し驚いた顔をした。
「今日の給食、そんなにおいしかったの?」
「うん」
「何が出たの?」
「シチュー」
桜がすぐに顔を上げた。
「私も食べたい」
「まだ何のシチューか言ってない」
僕がそう言うと、桜は少しむっとした。
「シチューならおいしいもん」
それは、たぶん正しい。
母さんが笑った。
「どんな名前のシチューだったの?」
僕は少し考えた。
でも、ちゃんと覚えていた。
「牛タンの柔らか赤ワイン煮込み、マデラソースの香りと季節の温野菜を添えて」
言い終わると、母さんが笑った。
桜も、よく分かっていない顔のまま一緒に笑った。
「なにそれ。給食の名前じゃないみたい」
母さんが言った。
「名前だけでおいしそう」
桜も言った。
「名前だけじゃない」
僕は言った。
「本当においしかった」
自分で言ってから、少し不思議な気がした。
食べ物の話をしている。
今日食べたものを、ちゃんとおいしかったと言っている。
それを聞いて、桜が嬉しそうにしている。
母さんも笑っている。
姉さんはまだ帰ってきていなかった。
父さんもまだだった。
食卓には、母さんと桜と僕だけがいた。
「じゃあ今度、調べて作れそうだったら作ってみるね」
母さんが言った。
「ほんと?」
桜の声が明るくなった。
「うん。でも牛タンは高いかもしれないから、別のお肉かもしれないけど」
「いい。食べたい」
桜はすごく嬉しそうだった。
「お兄ちゃんも食べる?」
桜が僕を見る。
いつものように、顔色を確かめるためではなかった。
僕が食べられるか心配している顔でもない。
ただ、一緒に食べるのか聞いているだけだった。
「食べる」
僕が答えると、桜はまた笑った。
その時、少しだけ気づいた。
僕と桜が、僕の体調以外のことを話している。
朝ごはんを食べたかでもない。
顔色が悪いかでもない。
眠れているかでもない。
大丈夫かでもない。
シチューの話だった。
やたら長い名前の、給食のシチュー。
今度、母さんが作るかもしれないシチュー。
桜と一緒に食べるかもしれないシチュー。
こういう話を桜としたのは、久しぶりな気がした。
僕と桜の会話は、最近いつも僕の体調に引っ張られていた。
僕が食べたか。
僕が眠そうか。
僕が大丈夫なのか。
でも今日は違った。
桜はシチューを食べたいと言った。
母さんが作れるかもしれないと言った。
僕も食べると答えた。
それだけだった。
たぶん、兄妹ならこういう話をするのだと思う。
僕は少しだけ嬉しかった。
声に出すほどではない。
でも、こういう時間ならもっとあってもいいと思った。
桜は、僕の顔色を見ている時より、こういう顔をしていた方がいい。
僕がご飯を食べたかどうかで安心する顔より、ずっといい。
今日の夕飯では、桜は僕の体調について何も言わなかった。
僕も、自分の体調について何も言わなかった。
それでも、会話は続いた。
それが少し不思議だった。
たぶん、うまくいった。
でも、鏡の前で練習したからではない。
僕の方から、話したいことがあった。
昼に食べたシチューがおいしかったこと。
家でも食べてみたいと思ったこと。
桜にも食べさせてみたいと思ったこと。
それを話しただけだった。
夕飯を食べ終わるころには、外はもう暗くなっていた。
夜になる。
また布団に入る。
また眠る。
そしてきっと、また死ぬ。
それは変わらない。
でも、今はまだ食卓にいる。
桜が母さんに、さっきのシチューの話をしていた。
「赤ワインってぶどう?」
「そうね。お酒だけど、煮込むと風味になるのかな」
「マデラって何?」
「それはお母さんも調べないと分からない」
桜は楽しそうだった。
僕はそれを聞きながら、皿を台所に運んだ。
今日は、よかったのかもしれない。
最悪ではなかった。
桜と普通の話ができた。
それだけで、少し成功だった。
◆ ◆ ◆
僕は自分の部屋に戻った。
ドアを閉める。
部屋は静かだった。
布団が見える。
夜が、そこにある。
洗面所の鏡に映っていた、自分の顔を思い出した。
笑おうとすると、変な顔になった。
普通に見せようとすると、余計に普通じゃなくなった。
でも、さっきの食卓ではそんなことを考えていなかった。
シチューがおいしかったと話して。
桜が食べたいと言って。
僕もまた食べたいと答えた。
その時、自分がどんな顔をしていたのかは分からない。
鏡もなかった。
でも。
たぶん、あれでよかったのだと思う。
少なくとも桜は、僕の顔色ではなく、シチューの話をしていた。
僕は布団を見た。
夜はやっぱり嫌だった。
眠るのも怖い。
それを急に変えることはできない。
でも、普通の顔は。
鏡の前で作るものじゃないのかもしれない。
そんなことを、少しだけ思った。
僕は制服を脱いで、風呂に入り、いつものように寝る準備をした。
そうしている間にも、時間は進む。
部屋の外の音が少しずつ減っていった。
桜の声もしなくなった。
家の中が静かになる。
僕は布団に入った。
昼間は、悪くない日だった。
シチューはうまかった。
桜とも普通に話せた。
少しくらいなら、明日のことも考えられた。
でも、一日がどれだけ悪くなくても。
夜だけは別だった。
目を閉じれば、眠る。
眠れば、夢を見る。
そして夢の中で、僕は死ぬ。
今日は何になるのか。
どこで死ぬのか。
どうやって死ぬのか。
それは分からない。
僕は暗い天井を見た。
眠りたくない。
でも、眠らないまま朝までいられるわけでもない。
まぶたが少しずつ重くなる。
さっきまでのシチューの話も。
桜の笑った顔も、少しずつ遠くなっていく。
僕は目を閉じた。
今日もまた。
僕は、どこかで死ぬ。




