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今日も僕はまた死んだ  作者: 雨宮 朔
第1章 死ぬ夢

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第16話 鏡


家に帰るころには、空はもう暗くなりかけていた。


玄関の前で、一度だけ息をした。


普通の顔。


普通の声。


普通のただいま。


そんなことを考えてから、ドアを開ける。


「ただいま」


自分では、普通に言えたと思う。


廊下の奥から、桜の声がした。


「おかえり」


桜はぱたぱたと走ってきた。


僕の顔を見る。


いつものように、少しだけじっと見る。


でも今日は、何も言わなかった。


顔色が悪いとも、眠そうとも、大丈夫とも言わなかった。


それだけで、少し安心した。


「手、洗ってくる」


「うん」


僕は鞄を置いて、洗面所に行った。


蛇口をひねる。


水の音がする。


手を洗ってから、鏡を見た。


学校のタブレットでは、自分の顔まではよく分からなかった。


ちゃんと見るなら、鏡の方がいい。


洗面所の鏡には、僕の顔がはっきり映っていた。


目の下。


口元。


頬。


首。


どこを見ても、普通かどうかは分からない。


そもそも、普通の顔というものを僕はよく知らない。


でも、苦しそうに見えなければいい。


疲れているように見えなければいい。


怖がっているように見えなければいい。


僕は少しだけ口の端を上げてみた。


変だった。


すぐにやめる。


もう一度やってみる。


やっぱり変だった。


笑顔というより、何かを我慢している顔に見える。


タブレットには、口角を上げると書いてあった。


目元の力を抜く。


背筋を伸ばす。


簡単そうに書いてあったのに、実際にやると全然簡単じゃない。


鏡の中の僕は、口の端だけを無理やり上げた変な顔をしていた。


これではだめだ。


桜なら、たぶん気づく。


母さんも、少しくらいは気づくかもしれない。


姉さんなら、変な顔と言いそうだ。


僕は口元の力を抜いた。


笑おうとするのをやめる。


何もしていない顔の方が、まだましだった。


「お兄ちゃーん、ご飯だって」


廊下の方から桜の声がした。


「分かった」


僕は鏡から目を離した。


 ◆ ◆ ◆ 


夕飯の時、僕は昼の給食の話をした。


自分から学校の話をするのは、少し珍しい。


母さんが味噌汁をよそいながら、少し驚いた顔をした。


「今日の給食、そんなにおいしかったの?」


「うん」


「何が出たの?」


「シチュー」


桜がすぐに顔を上げた。


「私も食べたい」


「まだ何のシチューか言ってない」


僕がそう言うと、桜は少しむっとした。


「シチューならおいしいもん」


それは、たぶん正しい。


母さんが笑った。


「どんな名前のシチューだったの?」


僕は少し考えた。


でも、ちゃんと覚えていた。


「牛タンの柔らか赤ワイン煮込み、マデラソースの香りと季節の温野菜を添えて」


言い終わると、母さんが笑った。


桜も、よく分かっていない顔のまま一緒に笑った。


「なにそれ。給食の名前じゃないみたい」


母さんが言った。


「名前だけでおいしそう」


桜も言った。


「名前だけじゃない」


僕は言った。


「本当においしかった」


自分で言ってから、少し不思議な気がした。


食べ物の話をしている。


今日食べたものを、ちゃんとおいしかったと言っている。


それを聞いて、桜が嬉しそうにしている。


母さんも笑っている。


姉さんはまだ帰ってきていなかった。


父さんもまだだった。


食卓には、母さんと桜と僕だけがいた。


「じゃあ今度、調べて作れそうだったら作ってみるね」


母さんが言った。


「ほんと?」


桜の声が明るくなった。


「うん。でも牛タンは高いかもしれないから、別のお肉かもしれないけど」


「いい。食べたい」


桜はすごく嬉しそうだった。


「お兄ちゃんも食べる?」


桜が僕を見る。


いつものように、顔色を確かめるためではなかった。


僕が食べられるか心配している顔でもない。


ただ、一緒に食べるのか聞いているだけだった。


「食べる」


僕が答えると、桜はまた笑った。


その時、少しだけ気づいた。


僕と桜が、僕の体調以外のことを話している。


朝ごはんを食べたかでもない。


顔色が悪いかでもない。


眠れているかでもない。


大丈夫かでもない。


シチューの話だった。


やたら長い名前の、給食のシチュー。


今度、母さんが作るかもしれないシチュー。


桜と一緒に食べるかもしれないシチュー。


こういう話を桜としたのは、久しぶりな気がした。


僕と桜の会話は、最近いつも僕の体調に引っ張られていた。


僕が食べたか。


僕が眠そうか。


僕が大丈夫なのか。


でも今日は違った。


桜はシチューを食べたいと言った。


母さんが作れるかもしれないと言った。


僕も食べると答えた。


それだけだった。


たぶん、兄妹ならこういう話をするのだと思う。


僕は少しだけ嬉しかった。


声に出すほどではない。


でも、こういう時間ならもっとあってもいいと思った。


桜は、僕の顔色を見ている時より、こういう顔をしていた方がいい。


僕がご飯を食べたかどうかで安心する顔より、ずっといい。


今日の夕飯では、桜は僕の体調について何も言わなかった。


僕も、自分の体調について何も言わなかった。


それでも、会話は続いた。


それが少し不思議だった。


たぶん、うまくいった。


でも、鏡の前で練習したからではない。


僕の方から、話したいことがあった。


昼に食べたシチューがおいしかったこと。


家でも食べてみたいと思ったこと。


桜にも食べさせてみたいと思ったこと。


それを話しただけだった。


夕飯を食べ終わるころには、外はもう暗くなっていた。


夜になる。


また布団に入る。


また眠る。


そしてきっと、また死ぬ。


それは変わらない。


でも、今はまだ食卓にいる。


桜が母さんに、さっきのシチューの話をしていた。


「赤ワインってぶどう?」


「そうね。お酒だけど、煮込むと風味になるのかな」


「マデラって何?」


「それはお母さんも調べないと分からない」


桜は楽しそうだった。


僕はそれを聞きながら、皿を台所に運んだ。


今日は、よかったのかもしれない。


最悪ではなかった。


桜と普通の話ができた。


それだけで、少し成功だった。


 ◆ ◆ ◆ 


僕は自分の部屋に戻った。


ドアを閉める。


部屋は静かだった。


布団が見える。


夜が、そこにある。


洗面所の鏡に映っていた、自分の顔を思い出した。


笑おうとすると、変な顔になった。


普通に見せようとすると、余計に普通じゃなくなった。


でも、さっきの食卓ではそんなことを考えていなかった。


シチューがおいしかったと話して。


桜が食べたいと言って。


僕もまた食べたいと答えた。


その時、自分がどんな顔をしていたのかは分からない。


鏡もなかった。


でも。


たぶん、あれでよかったのだと思う。


少なくとも桜は、僕の顔色ではなく、シチューの話をしていた。


僕は布団を見た。


夜はやっぱり嫌だった。


眠るのも怖い。


それを急に変えることはできない。


でも、普通の顔は。


鏡の前で作るものじゃないのかもしれない。


そんなことを、少しだけ思った。


僕は制服を脱いで、風呂に入り、いつものように寝る準備をした。


そうしている間にも、時間は進む。


部屋の外の音が少しずつ減っていった。


桜の声もしなくなった。


家の中が静かになる。


僕は布団に入った。


昼間は、悪くない日だった。


シチューはうまかった。


桜とも普通に話せた。


少しくらいなら、明日のことも考えられた。


でも、一日がどれだけ悪くなくても。


夜だけは別だった。


目を閉じれば、眠る。


眠れば、夢を見る。


そして夢の中で、僕は死ぬ。


今日は何になるのか。


どこで死ぬのか。


どうやって死ぬのか。


それは分からない。


僕は暗い天井を見た。


眠りたくない。


でも、眠らないまま朝までいられるわけでもない。


まぶたが少しずつ重くなる。


さっきまでのシチューの話も。


桜の笑った顔も、少しずつ遠くなっていく。


僕は目を閉じた。


今日もまた。


僕は、どこかで死ぬ。


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