第13話 ゴールデン・レトリバー
教室に入ると、まだ人は少なかった。
朝の教室は静かだ。
机。
椅子。
黒板。
窓から入ってくる光。
人が増える前の教室は、少しだけ呼吸がしやすい。
僕は自分の席に座って、鞄を横にかけた。
昨日の夢は、まだ胸の奥に残っていた。
マロ。
そう呼ぶ声。
小さな手。
涙の味。
最後に閉まっていく玄関の光。
目が覚めてからも、完全には消えなかった。
怖い夢ではなかった。
少なくとも、豚の夢や虫の夢とは違う。
でも、軽い夢でもなかった。
胸の奥に、あたたかいものと重いものが一緒に残っている。
僕は机の中からタブレットを出した。
授業で使うためのものだ。
朝の時間なら、少しだけ調べものをしていても変ではない。
検索欄に、犬、と打った。
犬の寿命。
老犬。
最後。
犬の記憶。
いくつかのページが出てくる。
僕はしばらく画面を見ていた。
犬は人間と長く暮らしてきた動物らしい。
においや声で、家族を覚える。
しっぽや耳で、気持ちを表す。
人間のそばにいることを覚えた生き物。
そんなことが書いてあった。
分かる気がした。
マロは、においを覚えていた。
女の子のにおい。
母親のにおい。
父親のにおい。
家のにおい。
あれは、ただの情報じゃなかった。
全部、大事なものだった。
犬にとって、家族はにおいなのかもしれない。
声なのかもしれない。
手なのかもしれない。
「おはよう」
声がした。
顔を上げると、佐倉がいた。
眼鏡をかけて、髪をいつもみたいにきちんと整えている。
細いカチューシャも同じだった。
「おはよう」
僕は答えた。
佐倉は少しだけ驚いた顔をした。
「今、ちゃんと返事した」
「した」
「珍しいね」
「そう」
佐倉は小さく笑った。
僕はタブレットに視線を戻した。
佐倉は僕の画面をのぞき込むようにした。
「犬?」
「うん」
「犬、好きなの?」
「別に」
「また別に」
佐倉はそう言って、少し笑った。
画面には、犬の写真が出ていた。
毛の長い、大きめの犬。
金色に近い毛。
優しそうな顔。
昨日の夢の中で見たマロに、少し似ていた。
完全に同じかは分からない。
夢の中の視界は、はっきりしていなかった。
目も悪かった。
でも、あの毛の感じと、大きさは、たぶんこれに近い。
「かわいいね」
佐倉が言った。
「うん」
「宍戸くんが犬調べてるの、ちょっと意外」
「そう」
「うちにも犬いるよ」
僕は指を止めた。
「いるんだ」
「うん。小さいけど」
佐倉はそう言って、自分の席の方をちらっと見た。
まだ周りに人はあまりいない。
「名前は?」
僕が聞くと、佐倉は少し嬉しそうな顔をした。
「ココ」
「ココ」
「うん。雑種。茶色くて、耳がちょっと垂れてる」
「へえ」
「かわいいよ」
佐倉の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
犬の話をしているからかもしれない。
花壇の話をするときにも、少し似た声になる。
何かを育てている時の声。
何かを大事にしている時の声。
僕は画面をスクロールした。
ゴールデン・レトリバー。
そういう名前が出てきた。
大型犬。
人懐っこい。
賢い。
穏やか。
家族に対して愛情深い。
そんな説明が並んでいる。
「ゴールデン・レトリバー」
僕は小さく読んだ。
「大きい犬だよね」
佐倉が言った。
「知ってるの?」
「名前だけ。テレビとかでよく見るから」
「たぶん、昨日見た犬がこれだった」
言ってから、少し失敗したと思った。
佐倉が僕を見た。
「昨日?」
「……夢で」
「夢?」
「うん」
佐倉はすぐには笑わなかった。
普通なら、変な顔をしてもいいところだ。
犬を夢で見たから、朝から犬の生態を調べている。
自分で言っても、少し変だと思う。
でも佐倉は、画面を見たまま言った。
「どんな夢?」
僕は答えなかった。
答えたくなかった。
マロが死ぬ夢。
そう言えば、佐倉は困る。
かわいそう、と言うかもしれない。
気持ち悪い、と思うかもしれない。
どちらでも嫌だった。
「もう忘れた」
「そっか」
佐倉はそれ以上聞かなかった。
それが少しありがたかった。
僕はまた画面を見る。
ゴールデン・レトリバーは、人間と一緒にいることを好むらしい。
子供にも比較的優しい。
家族の中にいるのが好きな犬。
マロもそうだったのだろうか。
玄関先の小屋。
家族の声。
女の子の手。
あの場所が、マロの世界だった。
「大きい犬って、優しそうだよね」
佐倉が言った。
「そうとは限らないと思う」
「まあ、犬によるよね」
「うん」
「でも、この子は優しそう」
佐倉は画面の写真を見て言った。
写真の犬は、口を少し開けて、笑っているみたいに見えた。
犬が本当に笑うのかは知らない。
でも、そう見えた。
「たぶん、優しかった」
僕は言った。
「夢の犬?」
「うん」
「名前とかあったの?」
僕は少し黙った。
言わない方がいいと思った。
でも、口から出た。
「マロ」
佐倉は小さく繰り返した。
「マロ」
その名前を聞くだけで、胸の奥が少し重くなる。
変な感じだった。
僕の犬ではない。
会ったこともない。
どこの家かも分からない。
なのに、名前だけが残っている。
「かわいい名前」
佐倉が言った。
「うん」
「大事にされてた感じがする」
僕は佐倉を見た。
「なんで?」
「なんとなく」
佐倉はそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「名前って、そういうの出る気がするから」
犬は、飼い主の声や表情に敏感だと書いてあった。
人間の気持ちを読む。
楽しい声。
怒った声。
悲しい声。
そういうものに反応する。
マロは、女の子の泣き声を分かっていたのだろう。
だから、最後に舌を出した。
自分で。
僕が動かしたのではなく。
マロが、自分で。
「犬ってさ」
佐倉が言った。
「何?」
「家の空気とか、分かるのかな」
「空気?」
「うん。人が怒ってるとか、怖いとか」
僕は画面に目を落とした。
「分かるんじゃない?」
「そっか」
「たぶん」
佐倉は少しだけ黙った。
その沈黙が、変だった。
犬の話をしているだけなのに、佐倉の声が少し沈んだ。
「うちのココね」
佐倉が言った。
「うん」
「お父さんが帰ってくると、吠えるんだ」
僕は指を止めた。
「毎回?」
「毎回じゃないけど」
佐倉は笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「機嫌悪い日だけ、すごく吠える」
教室の外から、誰かの足音が聞こえた。
朝の騒がしさが、少しずつ近づいてくる。
僕は佐倉の手を見た。
袖の端から、手首が少しだけ見えていた。
青っぽい跡。
前に見たものより、少し濃い気がした。
「それ」
僕は言いかけた。
佐倉はすぐに袖を引いた。
動きが早かった。
「何でもないよ」
まだ何も聞いていないのに、佐倉はそう言った。
何でもない。
その言葉を聞くと、胸の奥が少しざらつく。
僕もよく言う。
大丈夫。
別に。
何でもない。
本当は、何でもなくない時ほど、そう言う。
「犬って、分かるんだと思う」
佐倉は画面を見ながら言った。
「何を?」
「近づいちゃいけない人とか」
僕は何も言えなかった。
佐倉はすぐに顔を上げて、いつものような声に戻した。
「ごめん。変なこと言った」
「別に」
「犬の話だったのにね」
「うん」
佐倉は自分の席に戻ろうとした。
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
「セーフ!」
小林の声が響いた。
まだ予鈴も鳴っていない。
でも、小林は毎回ぎりぎりに来たみたいな顔をする。
「今日も間に合った!」
うるさい。
本当にうるさい。
朝は十分うるさい。
佐倉は小さく笑って、自分の席へ戻った。
僕はタブレットの画面をもう一度見た。
ゴールデン・レトリバー。
家族に対して愛情深い犬。
子供にも優しい犬。
人の気持ちに敏感な犬。
マロは、最後まであの子を見ていた。
佐倉の家のココは、父親に吠えるらしい。
それが何を意味するのか、僕は考えたくなかった。
でも、もう考えていた。
予鈴が鳴った。
先生が教室に入ってくる。
「席につけ」
教室の音が、少しずつ授業の形に変わっていく。
僕はタブレットを閉じた。
犬のにおいは、もうしない。
古い毛布のにおいもしない。
でも、佐倉の袖の下に見えた青い跡だけは、頭から消えなかった。
犬は、近づいちゃいけない人が分かる。
佐倉はそう言った。
だったら。
ココは、何に吠えているのだろうか。




