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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸耀


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第12話 普通の朝

朝起きても、胸の奥にまだ何かが残っていた。


マロと呼ぶ声。


小さな手。


涙の味。


古い毛布のにおい。


最後に閉まっていく玄関の光。


全部が、はっきり残っているわけではない。


目が覚めてしばらくすると、夢の細かいところは少しずつ薄くなる。


それでも、胸に刺さったものだけは残った。


痛い、というほどではない。


苦しい、というほどでもない。


でも、なくならない。


胸の中に、あたたかいものと重いものが一緒に入っている感じだった。


こういう感情は、嫌いではない。


むしろ、嫌いではなかった。


轢かれる夢や、食われる夢や、血を抜かれる夢よりはずっといい。


ただ、いい夢だったかと言われると、たぶん違う。


死んだのだから。


マロは、もう死んでいるのだから。


僕は布団から起き上がった。


体は重くなかった。


もう首も痛くない。

息も苦しくない。

足も動く。


いつもの人間の体だった。


洗面所で顔を洗う。


鏡を見ると、目が少し赤い気がした。


でも、昨日ほどひどい顔ではなかった。


少なくとも、豚の夢を見た朝よりはましだった。


台所へ行くと、朝食の匂いがした。


白いご飯。

味噌汁。

卵。

焼いた野菜。

小さな漬物。


肉の匂いも、魚の匂いも強くない。


それだけで、少し安心した。


「おはよう」


母さんが言った。


「おはよう」


僕は席に座った。


父さんはもう新聞を広げている。


姉さんはスマホを見ながら、眠そうに味噌汁を飲んでいた。


桜は僕の顔を見て、少し首をかしげた。


「お兄ちゃん、今日の顔ふつう」


「ふつうの顔って何」


「昨日より元気そう」


「そう」


僕は箸を持った。


ご飯を口に入れる。


普通に食べられた。


味噌汁も飲む。


卵も食べる。


喉につかえない。


胃が重くならない。


それだけのことなのに、少し変な感じがした。


最近は、朝食を普通に食べられる日の方が少なかった気がする。


桜が目を丸くした。


「お兄ちゃん、今日ちゃんと食べてる」


「うん」


「すごい」


「すごくはない」


「すごいよ。昨日もあんまり食べてなかったもん」


桜は嬉しそうだった。


本当に嬉しそうに見えた。


それを見て、少し胸が痛くなった。


昨日、心配させたのかもしれない。


昨日だけじゃない。


その前も。

その前も。

何度も。


僕が朝ごはんを残すたびに、桜はたぶん見ていた。


顔色が悪いのも。

食べるのが遅いのも。

何も言わずに水だけ飲むのも。


理由は分かっていない。


分かるはずがない。


それでも、心配してくれていたのだと思う。


少し申し訳なくなった。


「今日は元気?」


桜が聞いた。


「たぶん」


「たぶんじゃなくて」


「昨日よりは」


「よかった」


桜は笑った。


その笑顔を見て、こういうのも悪くないと思った。


朝ごはんを食べる。


妹が喜ぶ。


ただそれだけのことだ。


でも、悪くなかった。


父さんは新聞から少しだけ目を上げた。


「今日は食べてるな」


「うん」


「その方がいい。朝飯は食べた方がいい」


「分かってる」


父さんはそれ以上何も言わなかった。


母さんも、僕の茶碗を見て少し安心したような顔をしただけだった。


この人たちは、僕に問題がなければ何も言わない。


何かあれば注意する。


何もなければ何も言わない。


たぶん、それが普通なのだと思う。


姉さんも同じだった。


僕が食べなければ、少し変な顔をする。


僕が普通に食べていれば、何も言わない。


僕にあまり関心がないのかもしれない。


少なくとも、深く知ろうとはしてこない。


それは楽でもあった。


でも、少しだけ寂しい気もした。


「響、スマホ見ながら食べない」


母さんが言った。


「見てない」


「見てるでしょ」


「ちょっとだけ」


姉さんはスマホを伏せた。


桜が小さく笑う。


僕も、少しだけ笑いそうになった。


笑わなかったけれど。


桜は、まだ素直に人のことを心配する。


お兄ちゃん大丈夫、と聞いてくる。


ご飯食べないと元気出ないよ、と言ってくる。


余計なお世話だと思うこともある。


でも、嫌ではない。


桜には、姉さんみたいにはなってほしくないと思った。


姉さんが悪いわけではない。


ただ、何も見ないふりをする人にはなってほしくない。


心配しても、面倒だから黙る人にはなってほしくない。


もっと優しい子のままでいてほしい。


そんなことを、勝手に思った。


僕が言えることではないのに。


僕だって、何も言わない。


夢のことも。

死ぬことも。

朝ごはんを食べられない理由も。


何も言わないくせに、桜には優しくいてほしいと思っている。


自分勝手だと思った。


「お兄ちゃん?」


桜が僕を見ていた。


「何?」


「ぼーっとしてた」


「してない」


「してたよ」


「してない」


桜は納得していない顔をした。


でも、それ以上は聞いてこなかった。


僕は味噌汁を飲んだ。


あたたかかった。


それだけで、少しだけ胸の奥が落ち着いた。


朝食を食べ終える。


今日は残さなかった。


「ごちそうさま」


そう言うと、桜がまた嬉しそうにした。


「全部食べた」


「見れば分かる」


「えらい」


「えらくない」


「えらいよ」


桜はそう言って笑った。


僕は返事をしなかった。


でも、少しだけ悪くないと思った。


部屋に戻って、学校の準備をする。


教科書。

ノート。

筆箱。

水筒。


いつもと同じものを鞄に入れる。


制服の襟を直して、玄関へ向かった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


母さんが言った。


「気をつけろよ」


父さんが新聞の向こうから言った。


「行ってら」


姉さんが適当に手を振った。


桜は玄関まで来た。


「お兄ちゃん、給食も食べてね」


「たぶん」


「またたぶん」


「食べる」


「ほんと?」


「たぶん」


桜は少し頬を膨らませた。


僕は桜の頭に、軽く手を置いた。


「行ってくる」


「うん。行ってらっしゃい」


玄関を出る。


外の空気は、少し湿っていた。


朝の道を歩く。


今日は、普通の朝だった。


体も軽い。

胃も重くない。

口の中に腐った味もしない。

血の匂いもしない。


いつもこんな朝だったらいいのに、と思った。


毎朝、普通に起きる。


普通に朝ごはんを食べる。


普通に学校へ行く。


それだけでいい。


それだけで、かなり幸せなのかもしれない。


でも、歩いているうちに、またマロのことを思い出した。


あの家族は、どうなったのだろう。


あの女の子は、朝になってマロを見つけたのだろうか。


昨日なのか。

おとといなのか。

もっと前なのか。


それすら分からない。


でも、たぶん朝は来た。


マロの小屋にも、朝は来た。


玄関の扉が開いて、あの子が出てくる。


「マロ」


そう呼ぶ。


でも、マロはもう動かない。


耳も動かない。

目も開けない。

頬を舐めることもない。


あの子は、きっと泣いただろう。


父親も、母親も、泣いたかもしれない。


あれだけ大切にしていた。


夢の中で、それが分かった。


マロは幸せだった。


そう教えてあげたいと思った。


最後まで、ちゃんと君の声を聞いていた。


君の手を感じていた。


君がそこに来てくれて、たぶん嬉しかった。


そう言ってあげたかった。


でも、僕にはできない。


どこの家かも分からない。


あの子の名前も知らない。


マロがいつ死んだのかも分からない。


僕に分かるのは、マロの最後だけだ。


それも、死んだあとに流れてきた記憶だけ。


僕はいつも、見ているだけだ。


感じているだけだ。


何もできない。


そう思った時だけ、胸の奥がまた少し痛くなった。


でも、それ以外は普通の朝だった。


たぶん、悪くない朝だった。


僕は学校へ向かって歩いた。

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