第12話 普通の朝
朝になっても、マロのことは残っていた。
でも、豚の夢を見た朝とは違った。気分が悪いわけでも、何かを食べられないわけでもない。
胸の奥が、少し重いだけだった。
マロと呼ぶ声。
小さな手。
最後に閉まっていった玄関の光。
夢の細かいところは、目が覚めてしばらくすると少しずつ薄くなっていく。
それでも、あの女の子を心配していた気持ちだけは、まだ残っていた。
僕は布団から起き上がった。
体はいつもの人間のものだった。息も苦しくないし、足も普通に動く。
洗面所で顔を洗う。
鏡を見ると、目が少し赤い気がした。
でも、昨日ほどひどい顔ではない。
少なくとも、豚の夢を見た朝よりはずっとましだった。
◆ ◆ ◆
台所へ行くと、朝食の匂いがした。
白いご飯と味噌汁。卵と焼いた野菜、それに小さな漬物が並んでいる。
肉や魚の強い匂いはしなかった。
それだけで、少し安心した。
「おはよう」
母さんが言った。
「おはよう」
僕は席に座った。
父さんは新聞を広げている。姉さんは眠そうに味噌汁を飲んでいた。
桜は僕の顔を見ると、少し首をかしげた。
「お兄ちゃん、今日の顔ふつう」
「ふつうの顔って何」
「昨日より元気そう」
「そう」
僕は箸を持った。
ご飯を口に入れる。
普通に食べられた。
味噌汁も飲む。卵も食べる。
喉につかえない。
胃も重くならない。
それだけのことなのに、少し変な感じがした。
「お兄ちゃん、今日ちゃんと食べてる」
桜が目を丸くした。
「うん」
「すごい」
「すごくはない」
「すごいよ。昨日あんまり食べてなかったもん」
桜は嬉しそうだった。
本当に、それだけで嬉しそうにしている。
昨日、心配させていたのかもしれない。
昨日だけじゃない。
僕が朝ごはんを残した日。
顔色が悪かった日。
何も言わずに水ばかり飲んでいた日。
桜は、たぶんずっと見ていた。
理由は知らない。
僕が教えていないから、知るはずもない。
それでも心配していたのだと思う。
「今日は元気?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「昨日よりは」
「よかった」
桜は笑った。
朝ごはんを食べる。
それを見て、妹が喜ぶ。
ただそれだけだった。
でも、悪くなかった。
父さんが新聞から少しだけ目を上げた。
「今日は食べてるな」
「うん」
「その方がいい。朝飯は食べた方がいい」
「分かってる」
父さんはそれ以上何も言わなかった。
母さんも、僕の茶碗を見て少し安心したような顔をしただけだった。
昔は、もっといろいろ聞かれた。
どんな夢だったのか。
大丈夫なのか。
病院へ行った方がいいんじゃないか。
実際、何度か病院にも連れていかれた。
でも、何も分からなかった。
僕も少しずつ夢のことを話さなくなった。
聞かれても答えなくなった。
今では、向こうから詳しく聞かれることもほとんどない。
聞いたところでどうしようもないと、みんな分かってしまったのかもしれない。
それは楽だった。
でも、たまに少しだけ寂しくなることもある。
「響、スマホ見ながら食べない」
母さんが言った。
「見てない」
「見てるでしょ」
「ちょっとだけ」
姉さんはスマホを伏せた。
桜が小さく笑う。
僕も少しだけ笑いそうになった。
桜は、今でも普通に僕を心配する。
「お兄ちゃん大丈夫?」
「ちゃんと食べないと駄目だよ」
そう言ってくる。
余計なお世話だと思うこともある。
でも、嫌ではない。
桜には、このままでいてほしいと思った。
僕が少し変なら気づいて。
心配したら、そのまま心配だと言う。
そういう子のままでいてほしかった。
僕が言えることでもない。
僕自身は、何も言わないのだから。
夢のことも。
死ぬことも。
朝ごはんを食べられなくなる理由も。
何も言わないくせに、桜には今のままでいてほしいと思っている。
自分勝手だと思った。
「お兄ちゃん?」
桜が僕を見ていた。
「何?」
「ぼーっとしてた」
「してない」
「してたよ」
「してない」
桜は納得していない顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
僕は味噌汁を飲んだ。
あたたかかった。
朝食を食べ終える。
今日は残さなかった。
「ごちそうさま」
そう言うと、桜がまた僕の茶碗を見る。
「全部食べた」
「見れば分かる」
「えらい」
「えらくない」
「えらいよ」
桜は笑った。
僕は返事をしなかった。
でも、少しだけ悪くないと思った。
◆ ◆ ◆
部屋に戻って、学校の準備をした。
教科書とノート、筆箱、水筒。
いつもと同じものを鞄に入れる。
制服の襟を直して、玄関へ向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母さんが言う。
「気をつけろよ」
父さんが新聞の向こうから言った。
「行ってら」
姉さんが適当に手を振る。
桜は玄関までついてきた。
「お兄ちゃん、給食も食べてね」
「たぶん」
「またたぶん」
「食べる」
「ほんと?」
「たぶん」
桜が少し頬を膨らませた。
僕はその頭に軽く手を置いた。
「行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
玄関を出た。
◆ ◆ ◆
外の空気は、少し湿っていた。
朝の道を歩く。
今日は普通の朝だった。
体も軽い。
胃も重くない。
口の中に腐った味もしないし、血の匂いもしない。
いつもこんな朝だったらいいのにと思った。
普通に起きる。
普通に朝ごはんを食べる。
普通に学校へ行く。
それだけでいい。
それだけで、かなり幸せなのかもしれない。
歩いていると、また少しだけマロのことを思い出した。
あの女の子は、もうマロが死んだことを知っているのだろう。
朝になって小屋へ行き、何度も名前を呼んだのかもしれない。
マロは幸せだった。
最後まで、あの子のことを心配していた。
それを教えてあげられたらと思う。
でも、やっぱり方法はない。
僕はあの子の名前も知らない。
どこに住んでいるのかも知らない。
顔だって、夢の中で見ただけだ。
探しようがなかった。
僕にできることは、何もない。
今は。
ただ、マロの気持ちが僕の中に残っているだけだった。
胸の奥が少しだけ重くなる。
それでも、足は止めなかった。
今日は普通に学校へ行ける。
普通に朝ごはんも食べられた。
たぶん、悪くない朝だった。
僕はそのまま、学校へ向かって歩いた。




