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今日も僕はまた死んだ  作者: 宍戸 耀


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第11話 マロ

目が覚めると、小さな小屋の中にいた。


暗かった。


でも、真っ暗ではない。


外から、玄関の明かりが少しだけ入ってきている。


木の床。


古い毛布。


自分の体の下にある、少し湿ったにおい。


土と、犬のにおい。


息が苦しかった。


吸っても、あまり入ってこない。


胸の奥が重い。


体も重かった。


起き上がろうとしている感覚があった。


でも、起き上がれなかった。


足に力が入らない。


前足も、後ろ足も、自分のものじゃないみたいに動かなかった。


いや。


僕のものではない。


これは、僕の体じゃない。


そう思ったとき、視界の端に何かが見えた。


小屋の外。


玄関先。


そこに、人間が立っていた。


三人。


男の人。


女の人。


小さな女の子。


女の子は泣いていた。


声を殺そうとしているのに、うまくできていなかった。


「マロ」


女の子が言った。


「マロ、大丈夫? 苦しくない?」


マロ。


それが、この体の名前らしかった。


僕は犬だ。


たぶん、そうだと思った。


玄関先に置かれた小屋。


その中で、動けなくなっている犬。


家族三人に見守られている犬。


この犬は、もうかなり年を取っている。


体の奥まで、長く生きた疲れがしみ込んでいる。


目がよく見えない。


耳も遠い。


鼻だけは、まだ少し分かる。


女の子のにおい。


母親のにおい。


父親のにおい。


家のにおい。


全部、知っているにおいだった。


僕の知っているにおいではない。


マロの知っているにおいだ。


女の子が、また言った。


「マロ、ねえ、大丈夫?」


大丈夫じゃない。


そう思った。


でも、この体は答えられない。


僕が答えられないのではない。


マロが、もうほとんど答えられない。


声を出してやりたいと思った。


大丈夫だと伝えてやりたいと思った。


でも、僕にはできない。


この体は、マロのものだった。


マロの意識は、薄くても、ちゃんと残っている。


僕はその中で、見ているだけだ。


感じているだけだ。


すると、マロの喉が小さく震えた。


くうん。


鳴いた、というより、息が漏れたみたいな声だった。


僕が鳴いたわけではない。


マロが、自分で鳴いた。


それが分かった。


女の子は顔を上げた。


「マロ」


嬉しそうなのか、悲しそうなのか分からない顔だった。


たぶん、その両方だった。


父親と母親は、その子の後ろに立っていた。


母親は口元を押さえている。


父親は、何も言わずに女の子の肩に手を置いていた。


マロはもう一度、体を動かそうとしていた。


でも、無理だった。


足は動かない。


首を上げるのもつらい。


息をするだけで、体力が削られていく。


この命は、もう長くない。


そう分かった。


いつもの夢とは違う。


車に轢かれるわけじゃない。


食われるわけじゃない。


潰されるわけでも、切られるわけでもない。


ただ、終わりに近づいている。


少しずつ。


ゆっくり。


確実に。


マロは頭を下げた。


小屋の中で、毛布に顔を伏せる。


目を閉じようとしている。


そのとき、女の子が小屋に近づいてきた。


「マロ」


近くで名前を呼ばれる。


小さな手が、頭に触れた。


あたたかい手だった。


いや。


頬は少し冷たかった。


泣いていたからかもしれない。


女の子は小屋の前にしゃがみ込んで、マロの頭を両手で抱えるようにした。


「マロ、やだよ」


その声を聞いて、マロの体が少しだけ動いた。


目を開けてやりたいと思った。


この子を見てやりたいと思った。


でも、僕がそう思ったところで、体は動かない。


動かすのはマロだ。


この体は、まだマロのものなのだから。


それでも、マロは目を開けた。


重そうなまぶたが、ゆっくり上がる。


首が、ほんの少しだけ持ち上がった。


女の子の顔が近い。


涙で濡れている。


マロは舌を出した。


ほんの少しだけ。


女の子の頬を舐めた。


冷たかった。


涙の味がした。


犬の舌で、人間の涙を舐める感覚。


そんなものまで、僕の中に入ってくる。


でも、それをしたのは僕じゃない。


マロだった。


僕はただ、その感覚を一緒に味わっているだけだった。


変な感じだった。


でも、嫌ではなかった。


こういう死に方は、嫌いではないと思った。


死ぬのは嫌だ。


それは変わらない。


でも、こういう死に方なら、まだましだと思ってしまった。


誰かに名前を呼ばれている。


誰かが泣いている。


誰かが頭を撫でている。


この犬は、きっと愛されていた。


女の子は、マロの頭を抱きしめた。


「マロ」


何度も名前を呼ぶ。


マロ。


マロ。


マロ。


そのたびに、この体の奥が少しだけあたたかくなった。


父親が静かに言った。


「そろそろ寝よう」


女の子は首を振った。


「いや」


「マロも疲れてる」


母親が言った。


「少し休ませてあげよう」


女の子はまだ泣いていた。


でも、父親と母親に肩を支えられて、ゆっくり立ち上がった。


「マロ、おやすみ」


女の子が言った。


「また明日ね」


また明日。


その言葉に、胸の奥が少しだけ痛くなった。


会えない。


たぶん、もう会えない。


そう思った。


でも、マロは何も返せなかった。


鳴くこともできない。


首を上げることもできない。


ただ、伏せたまま、女の子の声を聞いていた。


女の子は何度も振り返りながら、家の中へ入っていった。


玄関の扉が閉まる。


明かりが少しだけ暗くなる。


小屋の中に、静けさが戻った。


マロは伏せたまま、耳を少し倒した。


体を休める。


もう助からないだろう。


そう思った。


この犬自身も、たぶん分かっている。


苦しくないわけではない。


息は浅い。


胸も重い。


体も動かない。


でも、怖がってはいなかった。


ただ、疲れている。


長く生きた体が、もう終わろうとしている。


じっとしていると、頭の中に何かが流れ込んできた。


記憶だった。


たぶん、マロの記憶。


若い男の人がいた。


今の父親より、少し若い。


まだ結婚していなかったころの顔。


その人が、子犬だったマロを抱き上げている。


大きな手。


笑った顔。


まだ新しい首輪。


場面が変わる。


知らない女の人が家に来る。


今の母親だ。


最初は少し緊張したにおいがした。


でも、何度も会ううちに、そのにおいは家のものになっていく。


また場面が変わる。


小さな赤ん坊。


泣き声。


布団の上で手足を動かしている。


マロはそのそばに座っている。


父親と母親が笑っている。


赤ん坊だった女の子は、少しずつ大きくなった。


はいはいする。


立つ。


転ぶ。


泣く。


笑う。


マロの背中にしがみつく。


マロは、ずっとそこにいた。


庭を走る。


ボールを追いかける。


玄関で家族を待つ。


雨の日は小屋の中で丸くなる。


暑い日は日陰で寝る。


寒い日は毛布にくるまる。


いつも誰かの声があった。


マロ。


ごはんだよ。


散歩行くよ。


こっちおいで。


だめでしょ。


いい子だね。


マロ。


マロ。


マロ。


ずいぶん愛されていたんだな、と思った。


そう思って、少しだけ嫌な感じがした。


でも、すぐに消えた。


嫉妬とは少し違う。


うらやましい、に近いのかもしれない。


この犬は、家族の中にいた。


最初から最後まで、家族の中にいた。


その記憶の中には、いつも誰かの笑顔があった。


父親の笑顔。


母親の笑顔。


女の子の笑顔。


そして、マロのいる場所があった。


この体は、自分がもう助からないことを分かっている。


でも、悲しみだけではなかった。


よく生きた。


そんな感じがあった。


ただ、それだけではない。


あの女の子を心配する気持ちもあった。


残していく家族への感謝もあった。


でも、マロはもう疲れていた。


少し眠い。


みんなのにおいがする。


それで十分だ。


そんな思いが、僕の中に流れ込んでくる。


また、こういうやつか。


そう思った。


でも、正直、嫌いではなかった。


胸の奥に、少し熱いものがこみ上げてくる。


苦しいのに、あたたかい。


死ぬのに、怖さだけではない。


こういう感情は、僕は嫌いではない。


轢かれる死。


食われる死。


切られる死。


血を抜かれる死。


そういうものより、ずっとましだった。


穏やかな死の方が、僕には合っているのかもしれない。


そう思った。


もちろん、死にたいわけではない。


何度死んでも、死ぬのは嫌だ。


でも、どうせ死ぬなら、誰かに名前を呼ばれている方がいい。


小屋の外が、ふいに明るくなった。


玄関の電気がついた。


扉が少しだけ開く。


さっきの女の子だった。


寝巻きのまま、そっと外へ出てくる。


父親と母親に隠れて来たのかもしれない。


「マロ」


小さな声だった。


女の子は小屋の前にしゃがんだ。


「まだ起きてる?」


マロの耳が少し動いた。


それが限界だった。


目を開けようとしている。


でも、まぶたが重い。


体が動かない。


本当は、もう少し近くに来てほしかった。


もう少し撫でてほしかった。


そばにいてほしかった。


そう思ったのが、僕なのか、マロなのかは分からなかった。


でも、言えない。


鳴くこともできない。


足を動かすこともできない。


この体は、まだ生きている。


まだマロの意識も残っている。


だから僕は、動かせない。


ただ、息の苦しさと、女の子の手のあたたかさを一緒に感じているだけだった。


女の子はマロの頭を撫でた。


「大丈夫だよ」


そう言った。


大丈夫ではない。


でも、そう言ってくれるのは悪くなかった。


女の子の手が、何度も頭を撫でる。


ゆっくり。


やさしく。


「マロ、明日も会えるよね」


また、その言葉を聞いた。


会えない。


もう、会えない。


これは、今この瞬間に起きていることじゃない。


過去の場面だ。


マロが死ぬ前に見た、最後の記憶。


死んだあとに残ったものが、僕の中に流れ込んできている。


そうじゃなければ、僕のところに来るはずがない。


つまり、マロはもう死んでいる。


それが分かっているから、余計に胸が苦しくなった。


できるなら、教えてあげたかった。


マロは、幸せだった。


最後まで、ちゃんと君のことを見ていた。


君の声を聞いていた。


君に撫でられて、君の涙を舐めて、それを嫌だとは思っていなかった。


たぶん、嬉しかった。


あたたかかった。


安心していた。


だから、そんなに泣かなくていい。


そう言ってあげたかった。


でも、できない。


僕には、この子がどこの誰なのか分からない。


この家がどこにあるのかも分からない。


この記憶が、いつのものなのかも分からない。


ただ、マロが死ぬ前の景色と、感情だけが、僕の中に流れ込んできている。


それだけだ。


何かを伝えることはできない。


何かを変えることもできない。


僕はいつもそうだ。


見ているだけ。


感じているだけ。


死ぬところまで、一緒にいるだけ。


女の子はしばらくそこにいた。


何度も頭を撫でて、何度も名前を呼んだ。


それから、家の中から母親の声がした。


「何してるの?」


女の子はびくっとした。


「マロ見てただけ」


「寒いから入りなさい」


「うん」


女の子は立ち上がった。


また、振り返る。


「おやすみ、マロ」


マロは、片目だけ開けた。


ぼやけた視界の中で、女の子の姿が見える。


小さな背中。


玄関の光。


閉まっていく扉。


それが、最後に見えたものだった。


マロは、もう一度だけ息をした。


長く。


ゆっくり。


それから、体の力が抜けていく。


苦しさが遠くなる。


痛みも、重さも、全部少しずつ遠くなる。


眠い。


ただ、眠かった。


怖くはなかった。


少なくとも、今までの死よりは。


家のにおいがする。


女の子のにおいがする。


古い毛布のにおいがする。


自分の小屋のにおいがする。


マロは、その中で目を閉じた。


長い眠りに入るみたいに。


静かに。


本当に静かに。


意識が、ゆっくり沈んでいった。



目が覚めた。


白い天井が見えた。


僕の部屋だった。


朝だった。


僕はしばらく動かなかった。


体は人間に戻っている。


四本足ではない。


尻尾もない。


古い毛布のにおいもしない。


小屋の中でもない。


でも、胸の奥に、まだ何かが残っていた。


女の子の手。


涙の味。


マロと呼ぶ声。


最後に見た玄関の光。


僕は目元に手を当てた。


少し濡れていた。


泣いていたのかもしれない。


僕が。


それとも、マロが。


どちらなのかは分からなかった。


死ぬことには慣れたと思っていた。


でも、違った。


痛い死だけが、きついわけじゃない。


怖い死だけが、残るわけじゃない。


こういう死も、ちゃんと心に強く残る。


名前を呼ばれながら死ぬこと。


誰かに泣かれながら終わること。


幸せだったと伝えられないこと。


それは、思っていたよりずっと、胸の奥に残った。


僕は天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。


最悪な朝ではなかった。


でも、楽な朝でもなかった。

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