第10話 放課後
放課後になった。
教室の空気が、少しだけ軽くなる。
帰るやつ。
部活に行くやつ。
机を寄せて、まだ話しているやつ。
僕は鞄を持って立ち上がった。
百人一首クラブへ行くためだ。
「宍戸」
声をかけられた。
振り向くと、小林健太がいた。
また小林だった。
こいつは何なんだろう。
僕のことを嫌いなんじゃないのか。
陰気くさいとか。
反応が薄いとか。
何を考えているか分からないとか。
そういうことをしょっちゅう言うくせに、やたらと声をかけてくる。
「部活?」
「うん」
「百人一首だっけ」
「うん」
「よく続くな、それ」
「別に」
「また別にかよ」
小林は呆れたように笑った。
僕だけに話しかけているわけではない。
小林は、他の男子にも声をかける。
女子にも、わりと普通に話しかける。
佐倉にも、この前何か言っていた。
たぶん、クラスの中にいる人間には、だいたい一度は声をかけるやつなのだと思う。
まったく騒がしい。
この前のハエの羽音と同じくらいうるさい。
そんなことを思った。
「お前さ」
小林が言った。
「何」
「百人一首って楽しいの?」
「別に」
「楽しくないのにやってんの?」
「うん」
「意味分かんねえ」
小林は本当に分からなさそうな顔をした。
僕にも、小林のことはよく分からない。
毎朝ぎりぎりに来る。
昼休みは騒ぐ。
給食はすぐ食べる。
放課後も、元気そうに廊下へ出ていく。
体を動かして、声を出して、誰かと話している方が落ち着くのだろう。
僕とは違う。
「サッカーとかやればいいのに」
小林が言った。
「やらない」
「即答かよ」
「疲れる」
「そりゃ疲れるだろ。部活なんだから」
僕は何も言わなかった。
疲れるのが嫌だった。
体を動かして疲れると、眠くなる。
眠くなると、夜が近づく。
僕は、できるだけ眠りたくない。
だから、走りたくない。
大声も出したくない。
腹にボールを受けたくもない。
昨日みたいな夢のあとに、そんなことをしたら、たぶんその場で気分が悪くなる。
でも、それを小林に説明する気はなかった。
「まあいいや」
小林はそう言って、廊下の向こうへ歩いていった。
僕も歩き出した。
文化部室の方へ向かう。
運動部の声が、外から聞こえてくる。
サッカー部の掛け声。
野球部のボールを打つ音。
体育館から響く足音。
どれも遠かった。
僕は百人一首クラブに行った。
いつものように札を並べた。
いつものように一人取りをした。
いつものように、六時になった。
それだけだった。
十分くらいで終わったような気がした。
本当は二時間以上いたはずなのに、終わってみれば短かった。
夜から逃げるための時間は、いつもすぐに終わる。
部活が終われば、もう帰るしかない。
家に帰れば、夕飯がある。
風呂に入る。
部屋に戻る。
布団に入る。
そこまで行けば、あとは眠るだけだ。
眠れば、また死ぬ。
部室を出る。
廊下の電気が、夕方の校舎に白く光っていた。
鍵を返して、昇降口へ向かう。
外に出ると、空は夕方と夜の間の色をしていた。
この時間が嫌いだ。
まだ夜ではない。
でも、もう昼でもない。
夜が、ゆっくりこっちへ来ている。
家までの道は、歩いて十分くらいしかない。
かなり近い。
それを、他のやつは羨ましいと言う。
学校から近くていいな。
すぐ帰れていいじゃん。
電車乗らなくていいの楽だよな。
そう言われたことがある。
でも、僕にとってはそうではなかった。
駅まで歩いて、電車に乗って帰る人間の方が、僕には羨ましい。
電車の中なら、時間がかかる。
揺れがある。
音がある。
人がいる。
窓の外の景色が流れていく。
そういうものに混ざっていれば、夜のことを少しは考えずに済むかもしれない。
でも、僕の家は近い。
歩けば着く。
どれだけゆっくり歩いても、十分と少しで着いてしまう。
学校を出た瞬間から、気分は下り坂だった。
今日は、またどんな夢を見せられるのだろう。
虫。
魚。
鳥。
猫。
豚。
それとも、人間。
考えたくないのに、考えてしまう。
僕が見る死には、何か条件があるのだろうか。
近くで死んだもの。
強く死にたくないと思ったもの。
まだ生きようとしていたもの。
分からない。
ただ、虫の夢より、猫や魚や豚の夢の方が強く残っている気がする。
それは、体が大きいからなのか。
感覚が多いからなのか。
それとも、死にたくないという気持ちが強いからなのか。
食べたい。
逃げたい。
息をしたい。
死にたくない。
そういう欲が、体の奥に強く残っている。
だから、僕の中に強く入ってくるのかもしれない。
でも、そうなると、一番強いのは人間なのだろうか。
人間は、たぶんいろいろ考える。
死にたくない。
帰りたい。
助けてほしい。
どうして自分が。
あいつが許せない。
そういうものを、最後まで持っていそうな気がする。
でも、人間の死を毎晩見るわけではない。
それもよく分からなかった。
知りたいと思う。
どうして僕は、こんな夢を見るのか。
どういう死が、僕の中に入ってくるのか。
それを知れば、避けられるのかもしれない。
でも、知ろうとすれば、もっと嫌なものを見ることになる気がした。
死に近づくことになる。
死んだものを探すことになる。
そんなことはしたくなかった。
知りたいけれど、知りたくない。
その二つが、頭の中にずっとある。
そんなことを考えているうちに、家に着いてしまった。
玄関の前で、少し立ち止まる。
中から夕飯の匂いがした。
今日は何だろう。
魚は嫌だ。
豚肉も嫌だ。
できれば、肉も魚も出てほしくない。
そんなことを思う。
文句を言いたいわけではない。
母さんが作ってくれる夕飯に文句を言う気はない。
でも、できれば、今日はそういうものを出さないでほしかった。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
母さんの声が台所から返ってきた。
靴を脱いで、手を洗う。
食卓につくと、夕飯が並んでいた。
僕は皿を見た。
豚肉ではなかった。
魚でもなかった。
見た感じ、肉や魚が中心の料理ではない。
それだけで、少しだけ安心した。
今日は食べられそうだった。
「いただきます」
桜が元気に言った。
姉さんも席についている。
父さんも新聞をたたんで、箸を持った。
僕も箸を持つ。
一口食べる。
大丈夫だった。
喉を通った。
もう一口食べる。
普通に食べられる。
それだけで、かなりましだった。
桜が僕を見る。
「お兄ちゃん、今日は食べてる」
「うん」
「朝はご飯ばっかりだったのに」
「そうだっけ?」
「そうだよ。おかず食べなかった」
桜はよく見ている。
僕より、僕の食べ方を覚えているかもしれない。
姉さんも僕の皿をちらっと見た。
「今日は普通じゃん」
「普通って何?」
「普通に食べてるってこと」
「そう」
姉さんはそれ以上何も言わなかった。
でも、少し安心したような顔をしていた気がする。
母さんも、たぶん同じだった。
この家の人たちは、僕が少し変なことをするとすぐ気づく。
朝ごはんを食べない。
おかずを残す。
いつもより早く家を出る。
桜の頭を撫でる。
そういうことには敏感だ。
でも、どうしてそうなったのかまでは、あまり聞いてこない。
聞いても、僕が答えないからだと思う。
答えたとしても、分からないからだと思う。
僕は夕飯を食べた。
今日は、ちゃんと食べた。
それだけで家の空気が少し柔らかくなった気がした。
夕飯が終わる。
風呂に入る。
部屋に戻る。
やることは、もうほとんどなかった。
僕には、一人部屋がある。
かなり前からだ。
いつからだったか、はっきりとは覚えていない。
小学校のころには、もう一人で寝ていた気がする。
たぶん、家族は僕と同じ部屋で寝るのが嫌だったのだと思う。
気味が悪かったのかもしれない。
夜中にうなされる。
寝言を言う。
叫ぶ。
布団の中で体をこわばらせる。
僕自身には記憶がない。
でも、たぶんそういうことがあったのだと思う。
小さいころ、母さんが夜中に僕の部屋へ来たことがある。
父さんが、廊下で何かを言っていたこともある。
姉さんが「また?」と眠そうに言ったことも、何となく覚えている。
桜はまだ小さかったから、たぶんよく分かっていなかった。
それから、僕は一人で寝るようになった。
一人部屋。
普通なら、嬉しいのかもしれない。
自分だけの部屋。
自分だけの机。
自分だけの布団。
でも、僕にとっては、それは、夜を一人で過ごすための、ただの居場所だった。
誰にも聞こえないように死ぬ場所。
毎晩、何かになって死ぬ場所。
僕は部屋の電気をつけたまま、しばらく机の前に座っていた。
宿題は終わっている。
明日の準備もした。
もう、やることがない。
やることがないと、夜のことを考えてしまう。
今日は何になるのだろう。
分からない。
分からないまま、眠らなければいけない。
それが一番嫌だった。
布団を見る。
ただの布団だ。
でも、僕には死への入口にさえ見える。
どこかの死へ続く白い入口。
僕は立ち上がって、部屋の電気を消した。
暗くなる。
天井がぼんやり見える。
外から、車の音がした。
家の中は静かだった。
桜の声もしない。
姉さんの足音もしない。
父さんと母さんの話し声も遠い。
夜だった。
また、夜が来た。
僕は布団に入った。
目を閉じる。
眠りたくなかった。
でも、人間の体は勝手に眠くなる。
僕の気持ちなんて、何も聞かない。
暗いところへ、少しずつ落ちていく。
今日もまた、僕はどこかで死ぬ。
そう思いながら、意識が沈んでいった。




