【第9話】さようなら、初夏限定びわのタルト
季節は春から初夏へと移り変わり、王都に吹く風も少しずつ暖かさを増してきている。
「セレーネお嬢様、お出かけですか?」
玄関近くの庭先で、執事のアルフレッドが、なにやらソワソワしている。
「ええ。散歩しながらお菓子を買いにいこうかと思って。アルフレッドは何をしているの?」
「今日は皆既日食があるんですよ。今から楽しみで、落ち着かなくて」
そう言ってアルフレッドは、懐から日食グラスを取り出して微笑んだ。そういえば彼は天体マニアで、小さい頃から星座や星の動きをよく教えてくれたものだった。
「私もお出かけ中に見られるといいな。それじゃあ、いってきます」
私は馬車を使わず、一人で王都の繁華街へと足を向けた。
目的はただ一つ。お目当ての洋菓子店で、初夏限定の『びわのタルト』を買うことだ。
王都の中心部にあるその洋菓子店は、昼間でも行列ができるほどの人気店だ。
「使用人に買って来てもらえば?」とよくリゼットに言われるが、甘いもの好きとしては、ショーケースの中から一番美味しそうなものを選ぶ過程からすでに楽しみが始まっているのだ。
「ありがとうございましたー」
待つこと数十分、ようやく手に入れた艶やかなオレンジ色のびわがたっぷりと乗ったタルト。
甘酸っぱい香りがふわりと漂うそのタルトが専用の美しい箱に入れられ、さらに持ち運び用のバッグに収められたのを確かめると、私はホクホクとした気分で広場を歩き出した。
「ふふっ、早く帰ってシオンお兄様と一緒に、紅茶を飲みながら食べるのが楽しみだわ」
あの過保護なお兄様のことだから、きっと私が買ってきたと知れば大げさに喜んでくれるだろう。
そんなことを考えながら、噴水のある大きな広場に差し掛かった時のことだ。
ふと、噴水の向こう側を歩く人混みの中に、軽やかな金髪の青年の後ろ姿が見えた。
太陽の光を反射してきらきらと輝くその鮮やかな髪色を見て、私は自然と夜の相棒のことを思い浮かべていた。
金髪の青年なんて王都にはいくらでもいるけれど、どうしても彼の姿を連想してしまう。
今頃、アランは何をしているのかしら。
夜警団のパトロールではいつも元気いっぱいで、私を撫で回してはニコニコしている彼だけれど、昼間はどこかで真面目に仕事をしているのだろうか。
彼の言葉遣いや身のこなしからして、ただの平民ではないことはわかっている。
きっと、あの苦労人のジャックと一緒に、お堅い仕事をしているのかもしれない。
そしてひょっとしたら、彼らも昼間は居眠りしているのかもしれない。
そう考えると少しだけおかしな気分になって、私はクスリと笑みをこぼしながら、タルトの箱が入ったバッグを大切に抱え直した、その時だった。
ガシャァァーーッン!
という、耳をつんざくような破壊音が広場に響き渡った。
驚いて視線を向けると、広場の入り口付近にあった果物屋の屋台が完全にひっくり返り、木箱や果物が石畳の上に散乱していた。
そして、その原因となった一台の巨大な荷馬車が、砂煙を上げながら暴走しているのが見えた。
荷下ろしの最中に何かの大きな物音に驚いたのか、繋がれていた馬がパニックを起こしたらしい。
完全に正気を失った馬はいななきを上げながら、大勢の人々が行き交う昼間の広場の中へと猛スピードで突っ込んできたのだ。
「逃げろ!馬が暴走してるぞ!」
「きゃああああっ!」
悲鳴と怒号が飛び交い、のどかだった広場は一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに包まれた。
人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、次々と転倒していく。
止めなければ!
私は咄嗟にそう思った。
しかし、魔法の使えない昼間の人間の体では、暴走する馬を止めることなど到底不可能に近い。
頭ではわかっていながらも、私の体は勝手に動こうとしていた。
とりあえず馬を追わなければ。
被害を最小限に食い止めるために、今の自分でも何かできることがあるはずだ。
しかし、腕の中には大切な、本当に大切な『初夏限定のびわのタルト』がある。
全速力で走れば、間違いなくタルトは箱の中で無残に潰れてしまうだろう。
私は軽くため息を吐き、すぐ横の物陰で怯えてうずくまっていた幼い兄妹の元へしゃがみ込んだ。
「これ、あなたたちにあげる。絶対に箱をひっくり返さないでね。中身が崩れちゃうから」
「えっ……?お姉ちゃん……?」
呆然とする兄妹の腕の中にタルトの入ったバッグを半ば強引に押し付け、私は未練を断ち切るように立ち上がった。
さようなら、私の愛しのタルト様。
身軽になった私は、暴走する馬車の後を追って、タルトへの思いを断ち切るように全速力で駆け出した。
「はぁっ、はぁっ……!」
しかし、悲しいかな、昼間の私はただの非力な貴族の令嬢だ。
夜の黒猫の姿であれば、屋根から屋根へと飛び移り、一瞬で追いつける距離。
人間の身体がいかに重く不便なものか、これほど痛感したことはない。
パニック状態で疾走する馬との距離は、縮まるどころか残酷なほどにどんどん離されていく。
「くっ……待って!」
そんな中、馬の進行方向の先で、一つの小さな影が石畳に倒れ込むのが見えた。
逃げ遅れた小さな男の子が、群衆にぶつかられて転倒してしまったのだ。
男の子は恐怖で顔を引きつらせ、腰を抜かしたように動けなくなっている。
そして、暴走する巨大な馬車は、一直線にその子に向かって突進していく。
間に合わない。
私の足では、どう足掻いてもこの距離を埋めることはできない。
(誰かあの子を!…夜なら、魔法ですぐに助けられるのに……!)
絶望的な距離を見つめながら、強く、強くそう念じた瞬間だった。
ふと、頭上から照りつけていた初夏の強い日差しが、不自然なほど急激に失われていくのを感じた。
分厚い雲が覆いかぶさったわけではない。
見上げると輝く太陽が、月に蓋をされるかのように端から徐々に、しかし確実なスピードで欠け始めていた。
「なんだ……?空が暗くなっていくぞ」
「日食だ!太陽が隠れていく!」
数十年に一度しか起こらないと言われる、真昼の天体ショー。皆既日食だ。
真昼の王都が、まるで夜の闇に包まれるように急速に暗転していく。
完全に太陽が隠れ、空に塗りつぶされた黒い円だけが浮かび上がったその時。
闇が訪れたことを感知した私の体内で、眠っていたはずの強大な魔力が、ドクン、と大きな脈動を打って跳ね上がった。
『変身ができる!』
そう確信した私は、そのまま石畳を蹴り馬車へ向かって走り続けた。
私の身体は青い魔力の光につつまれ、徐々に変化をはじめる。
頭から耳が生え、爪が伸び、スカートの下から長いしっぽが現れた。
しかし、いつもと様子が違う。
本来であれば黒猫の姿へと完全に変わるはずの体が、なぜか途中で変化を止めてしまったのだ。
いわゆる、半獣状態だ。
日食による一時的な、不完全な闇だからだろうか。
戸惑っている暇はない。姿がどうであれ、魔法は使えそうだ。
私は足元に風を纏わせた。
ドンッ!という強烈な踏み込みの音と共に、私の体は目にも止まらぬ速さで広場を駆け抜けた。
人間の足では絶対に追いつけなかった絶望的な距離が、一瞬にしてゼロになる。
馬の太い蹄が、へたり込む男の子に迫る寸前。
私は風のように間に割って入り、男の子の体をしっかりと抱きかかえて、馬の導線から大きく飛び退いた。
強烈な風のクッションを生み出し、そのまま安全な場所へふわりと着地する。
「怪我はない?」
腕の中の男の子が、目を丸くしてぽかんと頷くのを確認すると、私は再び地面を蹴った。
暴走を続ける馬を止めなければ、広場の被害は拡大する一方だ。
私は風を操り、空高く跳躍した。
そして、パニックになっていななきを上げる巨大な馬の背中へと、猫のように軽やかに飛び乗ったのだ。
「大丈夫よ!落ち着いて!」
私は手綱をしっかりと握り、暴れ狂う馬の首筋を優しく撫で、耳元で落ち着かせるように声をかけた。
私の魔力と声に反応したのか、あるいはただの疲労か。
暴れ狂っていた馬は次第に足取りを緩め、やがて荒い息を吐きながら広場の中央で完全に停止した。
静まり返る広場。
人々は呆然として、馬の背にまたがる私の姿を見上げていた。
「黒髪の……猫の女の子?」
誰かがぽつりと呟いた。
ワンピースに黒い猫耳としっぽ。そして風になびく長い黒髪。
その奇妙で神秘的な姿に、大人も子供も目を奪われている。
その時、周りの闇がまるで夜が明けるかのように薄らぎはじめた。
見上げると、重なり合っていた太陽と月がずれ始め、再び眩しい太陽の光が地上へと差し込んできていた。
真昼の夜の終わりだ。
光が戻るにつれて、体内に満ちていた魔力が急速に引いていくのを感じる。
頭の猫耳やしっぽの感覚が薄れかけていた。
このままでは、アシュフォード伯爵令嬢セレーネだと完全にバレてしまう。
私は残された最後の魔力を振り絞り、足に風を纏わせた。
馬の背を蹴って空高く跳び上がり、近くの建物の屋根へと着地する。
そのまま振り返ることなく、私は風のように屋根から屋根へと逃走した。
「今のはいったい……。見ていたか?クロード」
「ええ。ただ、あの薄暗さでこの距離です。わかるのは、女性がすごい速度で馬を止めたということだけです」
後日、この白昼の出来事は瞬く間に市民の間で話題となった。
大勢の人が行き交う広場で起きた事件だ。目撃者は山のようにいる。
噂は尾ひれをつけて広がり、やがて一つの新しい絵本が出版されることになった。
タイトルは『子どもを助ける美しく優しい、黒髪の猫妖精』。
猫の女の子という目撃情報から、さらに神秘的に脚色されていたが、これが思わぬ効果をもたらした。
これまで、この王国において黒髪は「厄災の魔女」の象徴として忌避されてきた。
しかし、この絵本の流行により、人々の間で「黒髪はもしかしたら、私たちを守ってくれる妖精の印なのかもしれない」という新しい認識が生まれ始めたのだ。
国に深く根付いていた黒髪への偏見が、少しずつ、しかし確実に変わり始めている。
そのことを後日、学園のサロンでリゼットから聞かされた時、私は手元にある紅茶のカップを見つめながら一人静かに微笑んだ。
あの時、大好きな初夏限定のびわのタルトを犠牲にした甲斐があったというものだ。
お菓子一つで少しだけ世界が優しくなるのなら、安い代償だったのかもしれない。
と、自分に言い聞かせるセレーネであった。




