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【第8話】元婚約者様はご勝手に

昼休みの学園は、午前の授業を終えた生徒たちの活気に満ちていた。


柔らかな日差しが差し込むサロンの壁際に寄りかかりながら、私はひたすら強烈な睡魔と戦っていた。


昨夜のパトロールでは、アランがあまりにもお菓子をくれるものだから、つい嬉しくなって王都中を駆け回ってしまった。


お陰で今日は朝からずっと頭がぼんやりとしていて、今にも意識を手放してしまいそうだ。


隣では、親友のリゼットが食後の紅茶を楽しみながら優雅に読書をしている。


このまま彼女の肩に寄りかかって少しだけ眠ってしまおうか。


そう考えて、うとうとと半分夢の世界へ足を踏み入れていた時だった。


不意に、耳障りで騒がしい足音が近づいてきた。


「やあ、セレーネ。相変わらず陰気で可愛げのない顔をしているな」


聞き覚えのある、けれど今の私にとっては虫の羽音よりもどうでもいい声が鼓膜に響く。


重い瞼をわずかに開けると、元婚約者のマクシミリアンと、彼にぴったりと腕を絡ませた男爵令嬢のイザベラ様が立っていた。


見事にセットされた栗色の髪を揺らすマクシミリアンは、勝ち誇ったような、そして私を見下すような表情を浮かべている。


「マクシミリアン様、そんな風に言ってはセレーネ様が可哀想ですわ。彼女は私にいじわるをしたせいで婚約破棄されて、今頃きっと深く反省して、毎日泣いていらっしゃるはずですから」


イザベラ様が、ふわふわの金髪を揺らしながら同情するような声を出した。


しかしその瞳の奥には、明らかな嘲りと優越感が滲んでいる。


私は彼らが何を言っているのか脳で処理する前に、ふぁっと小さなあくびを噛み殺した。


反省も何も、いじめなど完全に濡れ衣だ。


むしろ退屈な政略結婚を白紙に戻してくれて、大好きな夜の散歩を取り戻せたのだから、感謝の言葉を述べたいくらいなのだ。


しかし今の私には、それを口に出して説明する気力すら残っていなかった。


侯爵家の子息であるマクシミリアンに対して、座ったままではいられない私は、とりあえず気力を振り絞り重い腰をあげ、ただ無言で微動だにせず彼らを見つめていた。


いや、正確には見つめているのではなく、半分目を開けたまま意識が飛んでいて、立ったまま居眠りをしている状態だった。


淑女として、白目にならないように気を張るのに全力を注いでいる。


そんな私の無反応な態度が、反省しているどころか自分たちを完全に無視しているように見えたのだろう。


マクシミリアンが苛立ちの混じった声を荒らげる。


「おい、無視するとは何事だ!侯爵家の嫡男である僕と、聖女と呼ばれるイザベラの前だぞ!自分がどれだけ恥ずかしい立場にいるのか、まだわかっていないのか!」


「あら、恥ずかしい立場にいるのは一体どちらでしょうか」


私の代わりに静かに、けれどよく通る凛とした声で口を開いたのは、本を閉じて立ち上がったリゼットだった。


彼女はバラのような赤い髪を揺らし、極上の笑みを浮かべながらゆっくりと二人の前に進み出る。


その笑顔の裏に隠された絶対零度の怒りに、私はうとうとしながらも少しだけ背筋が伸びるのを感じた。


「マクシミリアン様。学年末パーティーでの一方的な婚約破棄、改めてお見事な茶番でしたわ。確たる証拠もないままセレーネを貶め、挙句の果てに真実とは異なる噂を学園に流す。次期侯爵ともあろうお方が、ずいぶんと軽率で浅はかな真似をなさるのですね」


「なっ…!証拠ならある!イザベラが泣いていたのが何よりの証拠だ!」


「まあ。女性の涙が証拠になるのなら、この国の裁判は随分とお手軽なものになりますわね。それに、公の場で元婚約者にわざわざ嫌味を言いに来るなど、ご自身の器の小ささと品位の低さを触れ回っているだけだと、どうしてお気づきにならないのかしら」


リゼットの流れるような、そして一切の隙もない正論に、マクシミリアンの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。


「い、イザベラは聖女なのだぞ!少しは敬意を払ったらどうだ!」


「ほんの少しの擦り傷を治せる程度で聖女と名乗れるのでしたら、街の薬師たちは全員大聖女になってしまいますわね。本当の教養と品格というものは、魔法の有無ではなく、こうして他者を思いやれるかどうかに表れるものですわ。あなた方には少し難しいお話だったかしら?」


リゼットはニコリと完璧な笑みを浮かべたまま、一切の容赦なく言葉の刃を突き刺し、彼らのプライドを粉砕していく。


周囲で様子を伺っていた生徒たちから、くすくすという笑い声や、リゼットに同調するようなひそひそ話が聞こえ始めた。


「……っ、ふん!負け犬の遠吠えだな。時間の無駄だ、行くぞ、イザベラ!」


「あ、お待ちくださいませ、マクシミリアン様!」


これ以上言い返せなくなったマクシミリアンは、顔を真っ赤にしてイザベラ様の手を乱暴に引くと、逃げるようにサロンから足早に去っていった。


嵐のような二人が去った後、サロンの空気は一変し、生徒たちの間から感嘆の溜息が漏れ始めた。


「見た?セレーネ様、マクシミリアン様にあんなに怒鳴られても全く動じてなかったわ」


「ええ。一言も発さず、ただ冷ややかな目で見下ろしていたわね」


「元婚約者を歯牙にもかけないなんて、なんてクールで気高いのかしら」


「それに引き換え、わざわざ絡みに行って言い負かされるマクシミリアン様って、みっともないわよね……以前はちょっといいな、って思ってたんだけどね」


周囲の生徒たちの間で、私に対する称賛と、マクシミリアンたちに対する呆れの声がさざ波のように広がっていく。


もちろん、当の私は彼らを冷ややかに見下ろしていたわけでも、気高い態度をとっていたわけでもない。


ただ単に、夜警の疲れから立ったまま目を開けて、半分寝ていただけなのだ。


「セレーネ、終わったわよ。もう大丈夫よ」


周囲のざわめきをよそに、リゼットが振り返り、いつもの優しい声で私に話しかけてきた。


「……ん?あら、二人とももう帰ったの?」


パチパチと瞬きをして、私が小さく首を傾げると、リゼットは目を丸くした後、肩を震わせて吹き出すように笑い始めた。


「ふふっ、あはは!あなた、あんなに騒がしかったのに、もしかして立ったまま寝ていたの?」


「え?ね、寝てないわよ。ちゃんと起きてたわよ」


人はどうして「寝てた?」と聞かれると、とっさに否定してしまうのであろうか。


「ふふっ、最高ね、セレーネ。本当にあなたには敵わないわ」


リゼットはお腹を抱えて笑いながら、私の肩をポンポンと軽く叩いた。


「あ、あの……セレーネ様!」


リゼットと笑い合っていると、不意に背後から声をかけられた。


振り返ると、少し緊張した面持ちの女生徒が立っていた。


彼女の制服のリボンから、一年生の後輩であることがわかる。


「はい、なんでしょうか?」


私が首を傾げると、彼女は顔を真っ赤にして、背中に隠していた小さな可愛らしい包みを差し出してきた。


「こ、これ、受け取ってください!私、ずっとセレーネ様のファンでした。イザベラ様がいじめられたなんて嘘だって、私たちみんなわかっています。これからも応援しています!」


一息に言い切った彼女の手元を見ると、その包みからはふわりと甘い焼き菓子の香りが漂っていた。


私の鼻がピクッと反応する。


お菓子。しかも手作りだろうか。


私は昼間の眠気も吹き飛ぶほどの喜びに胸を満たしながら、彼女からそっと包みを受け取った。


「まあ、嬉しいわ。私、甘いものが大好きなの。どうもありがとう、大切にいただくわね」


内心では黒猫の姿になって尻尾をピンと立て、喉をゴロゴロ鳴らしているほどのご機嫌だったけれど、淑女としての教育が染み付いている昼間の私は、感情を表に出さず静かに微笑みながらお礼を言う。


それが彼女の目にどう映ったのか、後輩の女生徒は「ひゃっ」と小さく悲鳴のような声を上げ、顔を限界まで赤く染め上げた。


「あ、あああ、ありがとうございます!失礼いたします!」


彼女はパタパタと小走りで、サロンの入り口で様子を伺っていた友人たちの元へ戻っていった。


「やったわ、ついに渡しちゃった!」


「ええっ、いいなぁ!どうだった?」


「目の前で見たら、すごく綺麗で優しかった……!あの微笑み、クールで月の女神様みたいだったわ!」


「キャー、私も一緒に渡せばよかった!」


キャッキャとはしゃぐ彼女たちの声が、少し離れた私とリゼットのところまで微かに聞こえてくる。


「ふふっ、セレーネは下級生にも大人気ね」


リゼットが嬉しそうに目を細めた。


「そうかしら?ただお菓子をくれただけよ。でも、こんな風に親切にしてくれる人がいるなんて、学園も悪くないわね」


私はもらったお菓子の包みを大切に両手で包み込んだ。


実のところ、イザベラ様の「聖女」という過剰な特別扱いや、マクシミリアン様の横暴な態度に反感を抱いている生徒は少なくない。


結果として、彼らに毅然とした態度を貫く私たちを、密かに支持し応援する層が確実に形成されていたのだ。


しかし、そんな和やかな雰囲気を、廊下の物陰からギリッと爪を噛んで睨みつけている人物がいた。


先ほどマクシミリアンに手を引かれて立ち去ったはずの、イザベラだった。


マクシミリアンをなだめて先に教室へ向かわせた後、自分がどれだけ優越感に浸れるかを確認するためにこっそり戻ってきていたのだ。


しかし、彼女の目に映ったのは、孤立して泣いているセレーネではなく、後輩から慕われ、涼しい顔でお菓子を受け取る羨望の的としての姿だった。


「……ふん、やっぱり気に入らないわ」


イザベラは苛立たしげに金髪を揺らし、持っていたハンカチをくしゃくしゃに握りしめた。


自分がどれだけ可憐な聖女として振る舞っても、セレーネのあの生まれ持った気高さと余裕には敵わない。


その事実が無意識のうちに彼女を苛立たせているのだった。


彼女は誰にも聞こえない声で毒づき、靴音を響かせてその場から去っていった。


一方の私は、そんな妬みの視線が向けられていたことなど微塵も気づかず、手の中のお菓子に思いを馳せていた。


「帰ったら、お兄様と一緒にこのお菓子でお茶にしようかしら。それとも夜の散歩の前に一人で楽しもうかしら」


「本当にあなたはマイペースね。でも、そんなあなたが私は大好きよ」


リゼットと顔を見合わせて笑い合い、私たちは午後の教室へと向かった。


婚約破棄という騒動のおかげで、私を取り巻く環境は間違いなく良い方向へと変わっている。


お菓子をくれた優しい生徒たち、守ってくれる親友と兄、そして夜の街で待っている騒がしくて温かい相棒たち。


「ふぁ……でもやっぱり、今は少しだけ眠いわ」


私は小さくあくびを噛み殺し、今夜のパトロールの時間を楽しみにしながら、穏やかな午後の陽だまりの中を歩いていった。

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