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【第5話】思い出のシナモンクッキー

夜の闇に溶けるように消えていった一匹の美しい黒猫。


僕は黒猫がふわりと飛び乗って去っていった、レンガ造りの塀の上をいつまでも名残惜しく見つめていた。


「まさか、殿下の言っていた幼少期の幻覚がすべて事実だったとは」


隣に立つ側近のクロード、今はジャックと名乗っている彼が、信じられないものを見たというように深く息を吐き出した。


「人語を話し、魔法が使える動物なんて聞いたことがありません。魔法で他の生き物に変身する魔法使いの記録はありますが、現在、そのような報告はないはずです。それにあの高度な風魔法の制御……ただの魔獣や突然変異した獣とは考えにくい」


冷静さを取り戻した彼は、持ち前の優秀な頭脳と知識で今の出来事を分析し始める。


しかし、僕にとって彼女の正体が何であるかなど、本当にどうでもいいことだった。


「僕の恩人なんだ。あの黒猫がなんであろうと関係ないよ。僕は単純に彼女と友達になりたいんだ」


僕が迷いなくそう告げると、ジャックは少しだけ声のトーンを落として尋ねてきた。


「なぜ言葉を話すあの黒猫に、そこまでご執心なんですか?」


彼の問いかけに、僕は夜空に浮かぶ満月を見上げた。


彼が僕の側近候補として行動を共にし始めたのは、あの頃から少し成長してからだ。


だから、彼にもまだ詳しく話していない幼少期の思い出がある。


「僕が七歳の頃、国王暗殺未遂事件があったのは知っているね」


「はい。たしか、他国から嫁がれた第三王妃様が黒幕だと疑われた事件ですね」


「そう。母上が疑われた。結局それは、王国と母上の故郷を戦争に持ち込もうとした第三国の陰謀だったのだけれどね。でも、その誤解が解けて真犯人が捕まるまでの数ヶ月間、母上は王城の離れにある塔に幽閉されてしまったんだ」


当時の絶望は、今でも鮮明に思い出せる。


「以前から命を狙われることがあった母上は、僕まで狙われるかもしれないと危険を感じて、信頼できる側近に頼み、僕の身分を隠して街の孤児院に預けたんだ。王宮にいれば、いつ暗殺者の毒牙にかかるかわからない。市井の孤児に紛れることこそが、一番の安全策だったんだよ」


「殿下が、孤児院に……」


ジャックが絶句する。


王宮のきらびやかな世界しか知らない彼にとって、王子が市井の孤児院に隠れ住んでいたという事実は衝撃だったのだろう。


「そうですか…それで定期的に孤児院に顔を出されていたんですね……」


「ああ、この街の孤児院はもう一つの僕の家だからね。ただ最初の頃は、毎日が暗闇の中にいるようだったよ。粗末なベッドで目を覚ますたびに、いつ刺客に殺されるかもしれない恐怖と、母上を奪われた悲しみが押し寄せてくる。誰にも自分の正体を明かすことはできず、頼れる大人もいなかった。孤独に押しつぶされそうだったんだ。」


僕は今でもあの頃の夢を見てうなされるということを、ジャックには伏せておくことにした。


「僕は夜な夜な孤児院の窓から抜け出しては、街で一番高い時計塔に登っていたんだ。昼間は観光名所になっている場所だけど、夜中の誰もいない時間に、最上階までの暗くて長い階段を一人で必死に登ってね。そこからだと、母上が幽閉されている塔が、遠くにかすかに見えるから」


僕はそこで一度言葉を切り、夜風の冷たさを感じながらふっと微笑んだ。


「そこで、彼女に出会ったんだよ。暗闇の中で一人震えていた僕の、たった一つの希望に」


僕の言葉を聞いて、ジャックは返す言葉を失ったのか、ただ静かにうなずいた。


仮面をつけているため目元の表情は完全には読み取れないが、姿勢を正したのがわかった。


生真面目で義理堅い彼のことだ。


僕がどれほどの孤独を味わい、その時に現れた黒猫がどれほどの救いだったのかを理解し、心の中で僕への忠誠をさらに深めてくれたのだろう。


やがて、彼はいつものように少し小言を言うような、けれど確かな気遣いのこもった温かい声で口を開いた。


「今後も続けるのであれば、酒場の喧嘩のときのような、危ない目にあわないように注意してくださいね」


「ありがとう、ジャック。気をつけるよ」


僕は小さく笑い、再び夜空へと視線を戻した。


あれは、今日のように冷たい風が吹く夜だった。


七歳の僕は、長い階段を登りきった疲労と息苦しさを感じながら、一人きりで時計塔の最上部、巨大な文字盤のすぐ上にある小さな展望台の冷たい石の床に座り込んでいた。


見下ろせば王都の美しい夜景が広がっている。


無数のガス灯が星屑のように瞬き、人々の温かい営みがそこにはあった。


なのに、僕の目にはその輝きはまったく映っていなかった。


ただ遠く、王城の端にそびえ立つ暗い塔の小さなシルエットだけを、涙をこらえながら見つめ続けていた。


母上は無事だろうか。


狭く冷たい部屋で、僕と同じように震えているのではないか。


僕はこのまま一生、本当の名前を名乗ることも許されず、あの孤児院で息を潜めて生きていくのだろうか。


誰にも弱音を吐くことは許されない。


もし泣き声を上げて素性がバレてしまえば、暗殺者に見つかって殺されてしまうかもしれない。


巨大な国同士の陰謀という重すぎる現実に、幼い僕の心は限界を迎えていた。


孤独と恐怖に押しつぶされそうで、僕は膝を抱えて顔をうずめた。


もう嫌だ。


何もかも投げ出してしまいたい。


助けて、母上。


声を殺して冷たい石畳に涙をぽつりと落とす。


満月の冷たい光だけが、世界でたった独りぼっちになってしまった僕を、ただ静かに照らしていた。


そんな風に、一人で絶望の底に沈んでいた僕の耳に、ふと場違いなほど穏やかな声が届いた。


「こんばんは。こんなところでどうしたの?泣いているの?」


驚いて顔を上げると、展望台の石の手すりの上に、一匹の黒猫が座っていた。


満月がそのまま映り込んだような、美しい金色の瞳が僕をじっと見つめている。


「ね、…猫がしゃべった!」


「ん?、何かおかしいかな。ここは私のお気に入りの場所なんだけど、あなたもここが好きなの?」


黒猫は僕が王子であることも、暗殺者に怯えていることも知らない。


ただの迷子の子供を見るような、気負いのないフラットな態度だった。


それが当時の僕にはどれほど救いだったか。


僕は自分が孤児院に預けられた孤児だと嘘をついた。


黒猫は深く追及することなく、「そうなんだ」とだけ言って僕の隣で丸くなった。


名前を聞くと自分も名乗らなければいけないと思い、聞くことができなかったが、黒猫は自分は女の子だと教えてくれた。


それから毎晩、彼女はその展望台に姿を現すようになった。


彼女は自分の身の上話はあまりしなかったけれど、その日街で見つけた面白いものや、お気に入りの散歩コースの話など、他愛のない世間話をたくさん聞かせてくれた。


暗殺の恐怖に怯えるばかりだった僕の夜は、彼女のおかげで少しずつ温かい時間へと変わっていった。


ある夜、彼女は小さな袋をくわえて時計塔にやってきた。


「これ、私が大好きなお店のお菓子なの。あなたにも分けてあげるわ。一緒にたべましょう」


袋の中に入っていたのは、素朴なシナモンクッキーだった。


「ありがとう」


遠慮がちに一つ手に取り、口に運ぶ。


サクッとした食感と共に、シナモンとバターの甘い香りが口いっぱいに広がった。


「美味しい!」


孤児院の質素な食事ばかりだった僕にとって、それは信じられないくらい美味しかった。


そして何より、僕のためにわざわざお菓子を持ってきてくれた彼女の優しさが嬉しくて、僕は自然と笑顔になっていた。


「甘いものを食べると、心が元気になるんだよ」


彼女は自分が発見したんだ、とばかりに自慢気に語った。


あの時のシナモンクッキーの味と、僕を見つめる金色の優しい瞳。


それこそが、僕を絶望の淵から救い出してくれた確かな光だった。


母上の誤解が解け、陰謀を企てた第三国の工作員が捕らえられたのは、それから数ヶ月後のことだった。


国に平和が戻り、僕はすぐさま王城へと呼び戻された。


あまりにも急な決定だったため、彼女にお別れを言う時間すら与えられなかった。


その後、僕は見聞を広めるために数年間、他国へ留学に出されることになった。


けれど、異国の美しい景色を見ても、豪華な晩餐を口にしても、僕の心からあの黒猫の姿とシナモンクッキーの味が消えることは一度もなかった。


今回、留学から戻ってきてすぐ、僕はジャックを巻き込んで夜の街へと繰り出した。


あの日、暗闇の中から僕を救い出してくれた恩人であり、初めての友達にもう一度会うために。


回想から抜け出し、僕は冷たい夜風を深く吸い込んだ。


そして僕は、自分の懐からもう一つの小さな袋を取り出す。


先ほど、彼女に渡したものと全く同じ、素朴なシナモンクッキーの入った袋だ。


「殿下、それは?」


「この味は、僕の思い出の味なんだ」


袋を開け、クッキーを一つ取り出してかじる。


あの夜、時計塔の冷たい風の中で食べた時と同じ、甘くて優しいバターとシナモンの香りが広がった。


「やっと見つけたんだ。今度は絶対に親友になって、僕が恩返しをするんだ」


「それは構いませんが、相手は猫ですよ。あまり重すぎる愛情をぶつけると逃げられますからね」


「ジャックは冷たいなぁ。でも、彼女は明日もここに来てくれる。僕にはわかるんだ」


僕はもう一つクッキーを口に放り込み、彼女が消えていった夜の街の屋根を愛おしく見つめた。


あの頃は助けられるばかりだったけれど、今度は僕が彼女を守り、彼女の隣に立つんだ。


十年越しの再会を果たした今夜の月は、あの時の時計塔で見た月よりも、ずっと明るく綺麗に輝いていた。

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