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【第4話】追いかけっこと、鍵探し

夜の冷たい空気を切り裂きながら、私は王都の屋根から屋根へと軽快に飛び移っていた。


背後からは、地上を走る二人の青年の足音がどこまでもついてくる。


「あっちだ。見失うな」


「ハァ、ハァ……アラン、あの猫、体力がおかしいですよ」


息を切らしながらも必死に私を追う彼らの執念には、素直に感心するしかない。


けれど、私にとってこの程度の運動は散歩の延長にすぎない。


一年ぶりに取り戻した夜の時間を堪能しながら、私は運河へと続く、石畳の坂道を見下ろせる屋根の上に降り立った。


その時ふと、視線の先で動く影があった。


運河沿いに建つ小さな家の前で、一人の腰の曲がったおばあさんが、地面を這うようにして何かを探している。


街灯の乏しい路地裏で、ひどく困り果てた様子だった。


私が立ち止まってその様子を眺めていると、地上を走っていた二人も追いついてきた。


「いたぞ、あの屋根の上だ」


金髪の青年アランが、嬉しそうに私を指差す。


しかし、彼の視線はすぐに私から外れ、足元でうずくまるおばあさんへと向けられた。


「おっと、どうしたんですか。こんな夜更けに、何かお探し物ですか」


アランは迷うことなくおばあさんに駆け寄り、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「家の鍵を落としてしまって。目が悪くて、この暗さでは見つからないんですよ」


途方に暮れた声を聞いて、アランはすぐさま立ち上がった。


「ジャック、僕たちで鍵を探そう」


「いいんですか?猫を追わなくて」


ジャックと呼ばれた青年が、屋根の上の私を気にしながら尋ねる。


それに対して、アランは私の方を一度だけ軽く見上げ、ふっと微笑んだ。


「いいんだ。きっと彼女とはまた会える。そんな気がするんだ」


何の根拠もない自信。


けれど、その迷いのない声と、自分の目的よりも目の前で困っている人を優先できる誠実さに、私は少しだけ興味がわいた。


ただの変なストーカーかと思っていたけれど、どうやら悪い人たちではないらしい。


私は屋根の縁に香箱座りをし、彼らのお手並みを拝見することにした。


二人はおばあさんが通ってきたという道を戻り、目を凝らして石畳の隙間や壁際を丹念に探し始めた。


「アラン、たぶんアレじゃないでしょうか?あそこです」


しばらくして、ジャックが何やら指差して立ち止まった。


私も少し場所を移動し、彼らの手元が見える低い塀の上へと降り立った。


そこには、運河から街の生活用水を引き込むための浅い水路があった。


水流は足首ほどの浅さで緩やかだ。


澄んだ水の底に敷かれた石畳が透けて見えており、その上に小さな金属製の鍵が落ちているのがはっきりとわかった。


「鍵が転がって落ちてしまったようだ。手は届かないし、金網は道具がないと外せないな」


水路の前でしゃがみ込んだアランが、困ったように眉をひそめる。


鍵が落ちている場所の上には、落ち葉やゴミを防ぐための頑丈な鉄の金網がはめ込まれていた。


手を入れる隙間はなく、力づくで外せるようなものでもない。


今から道具を探してくるのは時間がかかる。


まだ夜は冷えるし、おばあさんをあまり待たせるのも可哀想だ。


困り果てる二人を見下ろしながら、私は短く息を吐いた


お人好しの彼らに免じて、少しだけ手を貸してあげるのも悪くない。


「まったく、しょうがないわね…」


私は足の裏に魔力を集め、水路の底に向けてふわりと優しい風を放った。


ちゃぷん、と小さな水音が夜の路地に響く。


水路の底に沈んでいた鍵が、目に見えない風の手ですくい上げられるように、ゆっくりと水中から浮かび上がった。


金網の隙間をすり抜け、水滴を纏った鍵が宙を舞う。


ガス灯の淡いオレンジ色の光が濡れた金属に反射し、まるで夜空に小さな星が生まれたかのようにキラキラと美しく輝いた。


そのままふわりと風に乗り、鍵は驚いて目を見開いているアランの手のひらへと、音もなく優しく収まる。


「これは……風魔法」


呆然と呟いたアランが、ゆっくりとこちらを見上げる。


塀の上に佇む私と、彼の視線が真っ直ぐに交差した。


「きみが助けてくれたんだね。どうもありがとう」


どういたしまして。


声には出さず、私は視線だけでそう告げると、再び夜の闇へ立ち去ろうと背を向けた。


その時だった。


「待ってくれ。君にお礼がしたいんだ。おいしいお菓子があるから受け取ってもらえないか?」


アランの必死な声が響く。


「お菓子…?」


その魅惑的な単語に、私の口から思わず人間の言葉がこぼれ、足がピタリと止まってしまった。


ゆっくりと振り返ると、金髪の青年が懐から小さな包みを取り出し、キラキラと期待に満ちた目でこちらを見上げていた。


「一緒におばあさんのところまで行ってくれたら、これをご馳走するよ」


アランは犬でも手懐けるような甘い声でそう提案してきた。


誇り高き伯爵令嬢であり、夜の街を愛する気高き黒猫である私が、そんな子供騙しのエサで釣られるとでも……。


まぁ…釣られてあげるのも、たまにはいいでしょう。


私は甘いものには目がないのだから仕方ない。


そう、これは本能なのよ。


目を閉じずに、くしゃみができないのと同じことなのよ。


私は小さく鼻を鳴らすと、塀の上からふわりと飛び降り、彼らの前を歩いておばあさんの待つ家へと向かった。


金髪の青年アランはとても嬉しそうに、私の後ろにピッタリとついて歩いていた。


「ああっ、私の鍵。本当に見つけてくださったんですね。ありがとうございます、お兄さんがた!」


アランが手渡した鍵を受け取り、おばあさんは涙ぐみながら喜んだ。


「いいえ、見つけてくれたのは、この猫ちゃんです」


「そうかい、ありがとうね、美人の黒猫ちゃん」


しわくちゃの手で頭を優しく撫でられ、私は少しだけ誇らしい気分になりながら喉を鳴らした。


一人で夜の街をお散歩するのも楽しいけれど、こうして誰かに感謝されるのも悪くない。


何より市民のために尽くすのは、貴族としての義務だ。


おばあさんがゆっくり家路に就くのを見届ける。ひと仕事終えた私たちも、このまま夜の路地で立ち話を続けるわけにはいかない。


「近くにガゼボがある公園があるの。移動しましょう」


「ああ、あそこか。知っているよ」


私たち三人、いや一匹と二人は、近くの小さな公園へと移動した。


町外れの小さな公園は意外にも手入れが行き届き、春には黄色いモッコウバラの見事なアーチが見られるのだ。


以前、馬車の窓から見かけて「今度ゆっくり来てみよう」と思ったのがキッカケだ。


昼間はさすがに自由に歩き回れないから、その願いを叶えたのは猫になった夜。


それ以来、気が向くとふらりと訪れては、公園を一周して帰るのが密かな楽しみになっていた。


私たちはガゼボのベンチに並んで腰掛けた。


ガス灯が静かに照らすなか、アランが約束通りお菓子の小袋を差し出してくる。


私は足元に小さな風の渦を作り、袋を空中にふわりと浮かべた。


そして爪の先で巾着を開き、中身を覗き込む。


隣に立つジャックが、風魔法で小袋を浮かべる私の姿を見て口元を押さえていたが、そんなことよりも今は中身だ。


「あ、シナモンクッキー。私これ大好きなの。どうもありがとう!」


香ばしいシナモンとバターの匂いに、私はご機嫌でお礼を言った。


そんな私を、アランはどこか懐かしむような、ひどく優しい目で見つめていた。


「やっぱり君は、困っている人を見ると放っておけないようだね」


「やっぱり?」


私は不思議に思って首を傾げた。


初対面のはずなのに、まるで私を知っているかのような口ぶりだ。


私の反応を気にする様子もなく、アランは少しだけ身を乗り出して口を開いた。


「僕らはいつも夜の街をパトロールしているんだ。もしよければ君にも手伝ってほしいんだけど。お礼はこのお菓子でどうだろう?」


彼の提案に、私は少しだけ考え込んだ。


一人きりで夜の街を縦横無尽に駆け回るのも、自由で最高の時間だ。


誰にも縛られず、人間関係のしがらみもない。


けれど、夜の街で誰かと一緒に過ごすというのも、ひょっとしたら新鮮で楽しいかもしれない。


昼間の退屈だった元婚約者との時間とは違い、彼らと一緒ならきっと退屈しないだろう。


何より、先ほど私の追跡をあっさりと諦めて、迷わずおばあさんを助けようとした彼らの誠実さは、私の心に深く響いていた。


お人好しで、少しお節介で、信用できそうな人たちだ。


それに、お礼にお菓子までもらえるというのだから、悪い話ではない。


…断じて、お菓子につられたわけではない!お菓子は…その、嬉しいおまけだ。


「まぁ、考えておくわ」


気持ちは大きくパトロールを引き受ける方に傾いていたが、食いしん坊だと思われたくなくて、わざとそっけなく答えた。


風魔法でお菓子の小袋をふわりと自分の横に浮かせたまま、彼らに背を向けて歩き出す。


塀の上に飛び乗り、屋根へと跳躍する私に向かって、背後からアランの弾むような声が響く。


「引き受けてくれるなら、明日またこの時間に、ここで待ってるから!」


私は振り返らず、ただピンと立てた尻尾を一度だけ軽く揺らして返事の代わりとした。


見上げれば、雲一つない夜空に満月が輝いている。


月明かりを浴びながら屋根の上を駆け、夜風を切って屋敷への帰路を急いだ。


自室の窓は今夜も開け放たれている。私は軽やかに窓枠へ飛び乗ると、そのまま部屋へ滑り込み、黒猫の姿を解いた。


身体が淡い青い光に包まれ、視界が高くなり、しなやかな長身と黒髪のロングヘアを持つ本来の私の姿へと戻った。


人の姿に戻ったことで魔法が使えなくなった私は、落下しかけた小袋をふわりと両手で受け止め、中から素朴なシナモンクッキーを一つ取り出す。


サクッ、と心地よい音を立ててかじると、口いっぱいにシナモンとバターの甘い香りが広がった。


どこか懐かしいような、とても優しい味がする。


「ふふっ、悪くないかも」


月明かりの差し込む部屋で、私はクッキーの甘い余韻を楽しみながら、一人静かに微笑んだ。

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