【第3話】黒猫と仮面の青年たちの出会い
ある日の夜の王都。
ガス灯の淡い光が石畳を照らし、冷たい風が頬を心地よく撫でる中、僕、第三王子『ルシアン・ド・オレリア』は相棒と共に路地を歩いていた。
身に纏っているのは、上質な素材を使いながらも動きやすさを重視した少しラフな軽装だ。
目元には、貴族が夜の街でお忍びで遊ぶ際によく用いる仮面をつけている。
この仮面は「私は身分を隠している貴族だ」と主張しているようなものだが、夜の街には暗黙の了解がある。
街の住人たちも相手が貴族だとわかっていながら、あえて畏まった敬語を使わず、平民として接してくれるのだ。
王宮の息苦しい作法から解放されるこの空気を、僕はとても気に入っていた。
「よお、仮面の兄ちゃんたち。今日も見回りかい?ご苦労なこったな」
すれ違った夜回りのおじさんが、気さくに声をかけてくる。
「ああ、こんばんは。冷えるから風邪をひかないようにね」
僕が手を挙げて応えると、隣を歩く側近のクロード、今はジャックと名乗らせている彼が、深々とため息をついた。
「毎日よく飽きずに続けられますね……そういう頑張りはもっと別の方向でお願いしたいのですが」
「僕は諦めないよ、絶対にあの黒猫にもう一度会うんだ」
「はいはい、殿下が小さい頃に出会ったっていう、しゃべる黒猫の話ですよね。もう何百回と聞きましたよ」
呆れたような声色には、長年僕の我儘に付き合わされてきた苦労が滲み出ている。
「こら、今はアランと呼ぶんだジャック。きっとあの黒猫は、今でもこの街で誰かの支えになっているはずなんだ」
「だからって毎晩猫を探しながら義賊ごっこなんて、陛下が知ったら私が怒られますよ」
「大丈夫だ、僕も一緒に怒られてやるから」
「私が怒られるのは決定なんですね」
胃のあたりを押さえるジャックをよそに、僕は夜の街並みに視線を巡らせる。
七歳の頃、暗闇の中でただ一人孤独に震えていた僕を救ってくれたのは、月明かりの中するりと現れた、人の言葉を話す一匹の黒猫だった。
あの美しい黒猫に再会して、どうしてもお礼を言いたい。
その一心で先月帰国して以来、こうして夜な夜な街を見回りながら王都を歩き回っているのだ。
その時ふと、前方から怒声と何かが割れる派手な音が響いた。
「てめえ、どこに目ぇつけて歩いてやがる!」
「あぁ!?そっちがぶつかってきたんだろうが!」
少し先の酒場の表で、ひどく酔っ払った男たちが胸ぐらを掴み合って喧嘩をしていた。
「ガハハッ、いいぞ、やれやれー!」
周囲には野次馬の人だかりができているが、はやし立てる者か、巻き込まれるのを恐れる者しかおらず、誰も止めに入ろうとしない。
「ジャック、行くよ」
「全く、仕方ありませんね」
僕たちは小走りで酒場の前に駆けつけ、男たちの間に割って入った。
「やめるんだ、二人とも。酒が不味くなるだろう?」
僕が明るく声をかけ、男の一人の腕を軽く制する。
しかし、すっかり頭に血が上った男の力は予想以上に強く、僕の手を荒々しく振り払った。
「うるせえ!すっこんでろ仮面野郎!」
さらに返すその腕で喧嘩相手の胸を強く押し、相手の男が勢いよく弾き飛ばされた。
相手は後ろによろめき、酒場の壁際に高く積まれていた木箱の山に勢いよく激突した。
「メシャッ」という嫌な音と共に、バランスを崩した木箱の山が大きく傾く。
中には空の酒瓶がぎっしりと詰まっていた。
それが、男をかばおうと一歩踏み出した僕の頭上に向かって、雪崩のように崩れ落ちてくる。
「危ないっ、アラン!」
ジャックの悲鳴が聞こえたが、逃げる余裕はない。
僕は反射的に身を固くし、迫り来る重たい木箱の塊に対して両腕で頭を庇った。
ーー
「にゃあ……」
王都の喧騒を見下ろす酒場の屋根の上。
私はしなやかな黒猫の姿で香箱座りをしながら、「まったく夜の酔っ払いは手に負えないわね」と心の中でぼやいていた。
一年ぶりの自由な夜。
今日は運河沿いや裏路地を気ままに歩き回って、人間観察を存分に楽しむつもりだったのに、いきなり派手な喧嘩に出くわしてしまった。
仲裁に入ったのは、目元を隠す仮面をつけた二人の青年だ。
身なりは良いが少しラフな軽装で、典型的なお忍びの貴族の格好だった。
彼らも夜の街の空気を好む同類なのだろうか。
静観を決め込もうとしたその時、喧嘩の中で酔っ払いが突き飛ばされ、積み上げられた酒瓶入りの木箱に激突した。
グラグラと傾いた重たい木箱の山が、金髪の仮面の青年めがけて容赦なく崩れ落ちていく。
あんなものが直撃したら、ただの怪我では済まない。
「危ない!」
私は考えるより先に、全身の魔力を解放していた。
屋根の上から金髪の青年へ向けて、一直線に風魔法を放つ。
生み出された突風が見えないクッションとなり、崩れ落ちてきた重たい木箱の山を空中でふわりと受け止めると、彼らに当たらない場所へと弾き飛ばした。
ガシャーンと派手な音を立てて木箱と空の酒瓶が少し離れた石畳に散乱する。
「なんだ今のは…まるで風が僕を守ってくれたような……」
間一髪で危機を脱した青年は、突然の不可解な風に何が起きたのかわからず、呆然として周囲を見回した。
「今のはまさか……魔法か…?」
アッシュグリーンの長い髪を後ろで束ねた、もう一人の青年がきょろきょろと周りを見回している。
私は風をまとって屋根からふわりと舞い、彼らの視線の先、少し離れた路地の塀の上に音もなく降り立った。
「怪我はないみたいね、よかった」
驚いてこちらを見つめる彼らに向けて一言だけ告げると、私は夜の闇に紛れるように立ち去ろうとした。
その時だった。
「待って!君は、あの時の黒猫なのか?!」
背後から、ひどく切羽詰まったような、それでいて歓喜に震えるような声が響いた。
振り返ると、木箱の下敷きになりかけた金髪の青年が、仮面越しの目を大きく見開いて私を見つめている。
彼はそっと両手を前に突き出し、一歩、また一歩と私の方へ歩み寄ってきた。
あの時の黒猫。
突然の言葉に私は首を傾げた。
王都で黒猫の姿になる人間は私くらいだろうけれど、彼のような立派な青年に知り合いはいないはずだ。
ただの猫好きの勘違いか、あるいは誰か別の猫と間違えているのかしら。
「しゃ、…しゃべった。ほ…本当に猫が、人間の言葉を」
一方、隣にいたもう一人の長髪の青年は、まるでこの世の終わりでも見たかのように呆然と立ち尽くしていた。
知的そうな雰囲気の彼だったが、今は仮面の奥の目を限界まで見開き、口をパクパクとさせている。
「殿下、いえ、アランの言っていた幼少期の幻覚は、本当だったというのですか。いや、しかし動物が魔法を使い、人語を解するなど、既存の魔法学の常識では…」
ぶつぶつと難解な言葉を呟きながら頭を抱える彼をよそに、金髪の青年『アラン』と呼ばれた彼は、私に向かって駆け出した。
「お願いだ、待ってくれ。君にずっと会いたかったんだ」
「にゃっ」
あまりの勢いに、私は思わず素の猫のような声を出してしまった。
いくら命の恩人とはいえ、初対面の相手に対してあの熱量は少し異常だ。
しかも、貴族の青年が野良猫に向けて発するものにしては、感情のベクトルが重すぎる気がする。
面倒事に巻き込まれるのは御免だわ。
私は考えるより先に塀を蹴り、隣の建物の屋根へと軽やかに跳躍した。
「あっ、待ってくれ!」
「アラン!一人で突っ走らないでください、なにかあったら怒られるのは私なんですよ。ちょっ、ちょっとお待ちください!」
私が逃げ出したのを見て、アランと呼ばれた金髪の青年が必死の形相で追いかけてくる。
そしてもう一人の長髪の青年も、半ばパニック状態のまま彼を追って走り出した。
こうして、王都の夜の街を舞台にした、奇妙な追いかけっこが幕を開けた。
私は屋根瓦の上を、足裏に生み出した風の渦を利用してふわりふわりと跳躍していく。
時折、風魔法を応用して建物の壁を蹴り、空中で弧を描くように別の屋根へと飛び移る。
猫の身体特有のしなやかなバネと魔法の力が組み合わされば、私にとって王都の街並みは巨大なアスレチックのようなものだ。
一方の彼らは、地上の路地を走りながら私を追跡していた。
「あっちだ。ジャック、見失うな」
「ですから、あの猫を追いかけてどうするつもりですか。向こうが逃げてる以上、追うのはヤボですよ。しつこい男は嫌われますよアラン」
屋根の上から見下ろしてみると、彼らは意外なほど俊敏だった。
入り組んだ裏路地や、運河にかかる小さな石橋、壁際に積み上げられた木箱などの障害物を、流れるような身のこなしで次々とクリアしていく。
その無駄のない動きは、明らかに高度な訓練を受けた騎士のそれだった。
お忍びの貴族にしてはずいぶんと身軽ね。
特に、あの金髪の青年は私の動きを先読みして最短ルートを走っているような気がする。
ただの暇つぶしではない、本気の追跡だ。
普通なら恐怖を感じるところだろうけれど、不思議と彼らから悪意や敵意は全く感じられなかった。
むしろ逃げていく私を絶対に逃がすまいと、笑顔で追ってくる金髪の青年に、純粋な歓喜のようなものが感じられたのだ。
「ふふっ、ちょっと面白くなってきちゃったかも」
一年ぶりの自由な夜。
一人で静かに街を散歩するのも好きだけれど、たまにはこうして誰かと本気で追いかけっこをするのも悪くない。
でもこれも、「絶対に捕まるわけはない」という確信があるからこその余裕だ。
私は少しだけペースを落とし、彼らがギリギリついてこられる速度を保ちながら、月明かりで輝く屋根の上を走り続けた。
「待ってくれ。君にどうしても伝えたいことがあるんだ」
下からは、相変わらず金髪の青年の切実な声が響いてくる。
何を伝えたいのかは知らないけれど、簡単には捕まってあげられないわ。
私は尻尾をピンと立ててご機嫌に揺らすと、夜風を全身にまといながら、さらに高く跳躍した。
満月の光に照らされた二人の青年と一匹の黒猫の影が、王都の石畳の上をどこまでも楽しげに踊り続けていた。




