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【第2話】王都を駆ける黒猫

ふわり、と風に乗って王都の夜空を舞う。


足の裏に小さな風の渦を生み出し、赤茶色の屋根瓦から黒い隣の屋根へと跳躍する。


重力を感じさせない身軽な黒猫の身体は、私の意思に忠実だ。

「ふふっ……この感覚、やっぱり好き」

見下ろせば、ガス灯の淡いオレンジ色の光が、石畳を鈍く照らしている。


王都を東西に貫く運河の水面には満月が揺れ、夜風が運んでくる潮の香りが鼻先をなでた。


一年ぶりに味わう夜風は、何よりのごちそうだ。


屋根の端にちょこんと座り、私は尻尾を揺らしながら下界の様子を観察した。


「ああ、自由ってこういうことだったわ」


今頃、貴族たちは華やかなパーティーで愛想笑いを浮かべているだろう。


笑顔の裏では思惑が交差し、誰もが本音を飲み込んで夜を過ごす。


豪奢な装飾とは裏腹に、その世界は窮屈で、少しも自由がないのだ。


けれど、眼下に広がる市井の夜はもっと素朴で、生きる活気に満ちている。


少し離れた酒場からは、ジョッキがぶつかる音と陽気な笑い声が漏れ聞こえてくる。


裏路地の角にあるパン屋の裏窓からは、明日の朝に向けて仕込みを始めたらしい、パン生地をこねる音が響いてきた。


あくびを噛み殺しながら夜勤の交代に向かう衛兵や、重い荷物を運ぶ職人たちの足音が、静かな夜の街に心地よいリズムを刻んでいる。


昼間の堅苦しいしがらみが一切ない、この自由で少し泥臭い夜の街の空気を味わいながらの人間観察が、私は昔から大好きだった。


そもそも、私がこうして夜の街を黒猫の姿で駆け回れるのには理由がある。


私、セレーネ・アシュフォードの母方の血筋には、極めて稀な特殊体質が受け継がれているのだ。


数世代に一人、黒髪を持って生まれてきた者は、日が落ちると動物に変身することができる。さらに変身中は高度な魔法まで使えるようになるのだ。


一族の記録によれば、私の曾祖母はカラスに変身できたらしい。


空を飛べるのは少し羨ましいけれど、私はこのしなやかで可愛い黒猫の姿が最高に気に入っているから問題なしだ。


この魔法の力は代々大きな富と繁栄をもたらしてきたため、一族の中では『神の愛し子』として大切に扱われてきた。


私自身、両親や兄のシオンから愛情たっぷりに育てられた自覚がある。


けれど、一歩外の世界に出れば事情は少し違う。


王国において、黒髪はあまり歓迎される色ではないからだ。


髪色が一番の原因ではないと思うけれど、結果として彼から婚約破棄されたのは事実だ。


でも、今の私にあるのは圧倒的な解放感と感謝の気持ちだけ。


学園に入学して彼と婚約してからのこの一年間、私は本当に退屈だった。


婚約者として昼間は彼に合わせて行動しなければならない。


つまり、昼間に起きていなければならないのだ。


昼間に起きて活動するということは、当然大好きなお散歩を我慢して、夜は眠らなければならないということ。


夜行性だった本来の生活リズムを無理やり「普通」の形に矯正され、興味もない彼の自慢話を黙って聞き続ける一年間。


思い返すだけでため息が出るほどの苦行だった。


でも、それも今日で終わり。


私はもう誰にも縛られない。


夜はこうして風をまとって自由に王都を飛び回り、昼間は好きなだけうたた寝をすればいいのだ。


夜風に艶やかな漆黒の毛並みを撫でられながら、私は再び屋根を蹴って走り出す。


人間観察も楽しいけれど、今夜は久しぶりに自由なのだ。


まずは一番のお気に入りスポットに行って、この素晴らしい夜を心ゆくまで満喫しなくては。


目指すのは、街の中央にそびえ立つ、王都で一番高い時計塔。


私は弾むような足取りで、月明かりに照らされた屋根の橋を軽やかに渡っていった。


ーー


私は王都の中央にそびえ立つ大きな時計塔に久しぶりにやってきた。


そしてその頂上を目指して、一直線に階段を駆け上がった。


人間の身体では最上階まで登るのに一苦労するであろう距離も、黒猫のしなやかな四肢と風魔法があれば造作もない。


身体がふわりと宙に浮く感覚。


階段を一蹴りするたびに、夜の冷たい風を切り裂きながら、一気に十段以上を軽くまたいでいく。


一年間ずっと鈍っていた感覚が、みるみると鮮明に蘇ってくるのがわかった。


心地よい疲労感と共に、私は時計塔の最上部、巨大な文字盤のすぐ上にある小さな展望台にたどり着いた。


「やっぱりここからの景色は最高ね」


ふぅ、と息を吐き出しながら、私は冷たい石の床に香箱座りをした。


眼下には、王都の美しい夜景が360度広がっている。


無数のガス灯が星屑のように瞬き、入り組んだ路地や貴族たちの住む豪奢な屋敷の庭園も、ここからなら手のひらの上のミニチュアのように小さく見える。


一年ぶりに見るこの景色は、何も変わっていなかった。


夜風が私の真っ黒な毛並みを撫でていく。


その冷たさが、すこし火照った身体にはとても心地よい。


学年末パーティーでの騒動から、まだ数時間しか経っていないというのに、マクシミリアンやイザベラの顔はすでに私の記憶から薄れかけていた。


『婚約破棄』


貴族の令嬢にとっては、その後の人生を左右する大事件かもしれない。


けれど、私にとってはただの通過点、いや、むしろ幸せな出来事だ。


彼がイザベラをどれだけ大切にして、どんなに甘い言葉を囁こうが、私には一切関係のないこと。


今日から夜はこうして大好きな街を自由に散歩し、好きなだけお昼寝をすればいいのだから。


失ったものなんて、何一つない。


私は大きく伸びをしてから、夜空に浮かぶ満月を見上げた。


この時計塔は、王都を一望できる特等席というだけではない。私にとって、ここは少しだけ特別な思い出の場所でもあるのだ。


あれは私がまだ、七歳だった頃のこと。


当時の私は、夜の散歩の楽しさを覚えたばかりで、毎晩のようにこの時計塔に登っては街を見下ろしていた。


そんなある夜、この展望台に一人の少年がいた。


最近孤児院に入ったという彼は、毎晩部屋を抜け出して時計塔にのぼっていた。


そして、いつもどこか寂しそうな顔をして、はるか遠くに小さく見える、古びた塔をじっと見つめていた。


私はなんとなく彼を放っておけなくて、毎晩のようにここへ通っては、他愛のない話をしたものだ。


「こんばんは」と、初めて声をかけた時の、あの驚いた顔は今でも鮮明に思い出せる。


私が今日あった出来事を話したり、街で見つけた面白いものを教えたりするうちに、彼は少しずつ心を開き、嬉しそうに笑ってくれるようになった。


ある日、私が大好きなお店のシナモンクッキーを小さな袋に入れて持って行くと、彼はとても喜んでくれた。


サクサクと音を立ててクッキーを頬張るあの笑顔を、今でもはっきりと覚えている。


ただ、数ヶ月たったある日を境に、彼は突然この時計塔に来なくなった。


きっと、どこか遠くへ引き取られていったのだろう。


彼が今どこで何をしているのか、私に知るすべはない。


けれど、この時計塔から夜の街を見下ろしていると、ふとあの時の少年の寂しそうな横顔を思い出すのだ。


元気でやっているといいけれど。


もし、またあの時の少年に会えたら。


あの頃みたいに、ここに並んで座って、美味しいお菓子の話でもできたらいいな。


そんなとりとめのない感傷に浸りながら、私は目を細めた。


今はまだ、誰も知らない私だけの秘密の夜。


今夜、この街に何か大事件が起きているわけではないが、あの灯りの一つ一つにきっと物語があるのだろう。


明日の夜は、あの酒場の裏通りを歩いてみようか。


それとも、運河沿いの屋根を端から端まで走ってみようか。


やりたいことは山ほどある。


そして時間もたっぷりとあるのだ。


「今日はもう帰ろうかしら…シオンお兄様も心配しているかもしれないし」


そうだ、焦る必要なんてない。


明日からは一年ぶりに取り戻した自分だけの時間をゆっくりと味わって、私だけの物語を作っていこう。


月明かりの下、心地よい夜風の音だけが、私の耳元を優しく通り過ぎていった。

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