【第1話】婚約破棄?これから楽しくなりそうね
王立学園の大広間では豪奢なシャンデリアが眩い光を放ち、着飾った生徒たちのざわめきが満ちていた。
今日は私たち一年生と二年生が、もうすぐ卒業を迎える三年生を送るための学年末パーティー。
本来、婚約者がいるならば、その相手にエスコートされて入場するのが貴族令嬢としての作法だ。
しかし、私の婚約者である侯爵家嫡男のマクシミリアンは、約束の時間になっても迎えにはこなかった。
結果として、私は兄であるシオンにエスコートされて会場の扉をくぐることになった。
明るい茶色の髪を整えたシオンお兄様は正装姿で鋭く目を細めている。高い背丈も相まって、立っているだけで周囲を圧倒する威圧感がある。不機嫌そうにしているお兄様には申し訳ないけれど、私としてはエスコートが婚約者でなくてもどうでもよかった。
けれど、そんな私のささやかな平穏は、広間の中央で待ち構えていた人物たちによって呆気なく破られた。
「セレーネ・アシュフォード!今日この場をもって、お前との婚約を破棄させてもらう!私が愛しているのはお前ではない!そして私は……聖女であるイザベラ・バートンを、新たな婚約者候補とする!」
楽団が奏でていた優雅な演奏がピタリと止まり、周囲の視線が一斉に私たちへと集まる。
高らかに宣言した声の主は私の婚約者であるマクシミリアンだった。
彼は自信に満ちた表情で私を指差し、その隣には、彼に腕を絡めてぴったりと寄り添うようにして立つ小柄な令嬢の姿があった。
男爵令嬢の、イザベラ・バートンだ。
ほんの少しの擦り傷を治す程度の回復魔法が使えるというだけで、学園の一部から聖女と持て囃されている女生徒だ。
ただこの国では魔法の才を持つものが非常に少ないため、聖女という呼び名もあながち間違いともいえない。
イザベラはふわふわの金髪に、宝石のように輝く大きなスミレ色の瞳、小柄で妖精のような愛らしさの少女だ。おまけに細身の体に不釣り合いなほど豊かな胸元が、女性らしさを感じさせる。
一方の私はというと、長身でストレートの長い黒髪に、切れ長の目と金色の瞳。胸はどちらが前なのかわからないくらいに貧相だ。
彼女はマクシミリアンの腕にすがりつき、長いまつ毛に縁取られた潤んだ瞳で私を見つめながら、いかにも可哀想な被害者を演じるように身を縮こまらせていた。
「セ、セレーネ様っ、そんなに睨んで、私のことが気に入らないのですね…どうかお許しください…!」
イザベラが震える声でそう言うと、マクシミリアンは空いている方の腕で彼女の肩を抱き寄せ、私を忌々しげに睨みつけた。
なるほど、男性にはあんな風にすがりつくと喜ばれるのか、覚えておこう。
……いやしかし、私のような外見の女性があんな態度をとると、さぞ気持ち悪いだろう、やはり覚えておくのはやめよう。
「安心しろ、イザベラ。私が君を守る。セレーネ、お前が聖女であるイザベラをいじめたと報告を受けている!嫉妬に狂い、彼女を階段から突き落とそうとしたり、教科書を隠したり……数々の陰湿な嫌がらせ、もう見過ごすことはできない!」
私は内心で小さくため息をついた。
階段から突き落とそうとした?
教科書を隠した?
そんな無駄な労力を使うくらいなら、私は少しでも自分の好きなことに時間を使う。
そもそも、彼女の存在に今日まで興味を抱いたことがない。
最近の私は王都の人気菓子店『ハリス』の新作スイーツのことで頭がいっぱいで忙しいのだ。
けれど、マクシミリアンは私の呆れなど知る由もなく、さらに声を張り上げた。
「やはりお前は厄災の魔女だ。その黒髪が証明している!建国神話に記された通り、その忌まわしい黒い髪は、国に災いをもたらす証なのだ!」
広間がざわめいた。
生徒たちが私を遠巻きにし、ひそひそと囁き交わす。
またこの話か……私は幼い頃から聞かされてきたこの話にいい加減うんざりしていた。
建国神話に登場する『厄災の魔女』。
その魔女の髪色が黒だからという理由で、この国では黒髪を持つものや、黒毛の動物たちは縁起が悪いと忌み嫌われている。
さらにこの国では黒髪の人物はほとんどいないため、物珍しい顔で見られることも少なくはない。
そう、まるで動物園の珍獣のように……そういえば、ずいぶんと動物園に行っていないな。
そうだ、今度の休みは動物園…いや、やはり水族館も捨てがたい、お兄様も誘って一緒に…。
私が次の休日の予定に思いを馳せながら隣を見ると、シオンお兄様が今にもマクシミリアンに掴みかかりそうな気配で拳を握りしめている。
さらに、群衆をかき分けて鮮やかな赤い髪を揺らしながら進み出てきたのは、親友のリゼット公爵令嬢だ。シャンパンゴールドのドレスには精緻な刺繍が施され、あしらわれた宝石が照明を受けてキラキラと輝いている。私と目が合うと、極上の笑顔の奥に静かなる怒りを滲ませ目配せを送ってきた。
「マクシミリアン様?今、なんとおっしゃいましたの?根拠の欠片もない話を前提に、公衆の面前でアシュフォード伯爵令嬢を侮辱したこと、侯爵家として責任を取れるお覚悟がおありなのですわね?」
「リゼット嬢、君は騙されているんだ!この女の本性を知れば……」
「黙りなさい!」
リゼットが冷ややかに睨みつけると、マクシミリアンが言葉を詰まらせた。さすがに、王家の血を引くリゼットには何も言い返せないようだ。
シオンお兄様も一歩前に出ようとしている。
(やめて、私のために争わないで!)
そんな、まるでお芝居のようなセリフを叫ぶ場面を、頭の中で一瞬思い描く。人生で一度あるかないかのチャンスかもしれない。だが、そんな妄想をしている場合ではなさそうだ。
このままでは兄と親友が彼らを徹底的に粉砕しかねない。
まあ、それはそれで大いに結構だけれど、今の私にはそんな茶番よりもはるかに優先すべき喜ばしい事実があった。
私はシオンお兄様とリゼットを片手で静かに制し、マクシミリアンとイザベラに向かって淡々と言葉を紡いだ。
「婚約破棄の件、承知いたしました。それではお二人とも、どうぞお幸せに……」
私は優雅に膝を折り、非の打ち所がないカーテシーを披露した。
広間が水を打ったように静まり返る。
糾弾された令嬢が、涙を流すわけでも、怒りに震えて反論するわけでもなく、ただ今日の天気を告げるかのようにあっさりと身を引いたのだから、彼らが呆然とするのも無理はない。
私はそのまま、彼らに一瞥もくれることなく、くるりと踵を返した。
怒り心頭の兄と親友をこの場に残していくのは心苦しかったけれど、私の心は今、この一年間で最も強い喜びに満ち溢れていた。
これで、また私だけの秘密の時間を取り戻せる。
入学と同時にマクシミリアンと婚約してからのこの一年間、学園での私は彼に合わせて行動しなければならなかった。
昼間の活動で体力を奪われるせいで、大好きな夜の散歩をずっと我慢していたのだ。
彼との婚約は政略的なものだ。本人のことは好きでもなければ嫌いでもない、その程度の存在だった。
煩わしいしがらみが消え去った圧倒的な解放感に頬が緩む。
私は派手好きなマクシミリアンが好んだ真紅のドレスの裾をひるがえし、足早にパーティー会場を後にした。
ーー
帰りの馬車に一人で揺られ、私は窓の外を流れる夜の街並みをぼんやりと眺めていた。
マクシミリアンとは親同士が決めた婚約だった。
栗色の髪に鼻筋の通った顔立ち、そこそこ整った容姿と明るい人柄に加え、侯爵家の嫡男でもある。そう考えれば当然なのかもしれないが、彼は意外にも女生徒から人気があるらしい。
ところが、一年間婚約者として彼と一緒に過ごしてきたけれど、楽しいと思うことは本当にただの一度もなかった。
彼は口を開けば自分の話ばかりで、私の口数の少なさを、奥ゆかしいと勘違いしていたのだからある意味でおめでたい人だ。
まあ、私は別に奥ゆかしいわけではないのだが。
幼い頃にお母様に「ベラベラと思ったことをしゃべるのは、淑女ではありませんよ」と言われたため、心の中で話すようにしているだけだ。
とにかく今の私は、彼がイザベラという新しいお気に入りを見つけてくれたおかげで、開放感に包まれている。
…お父様とお母様はきっと落胆されるはず。家同士の付き合いも社交界の体面もある。婚約破棄は喜ばしい事ではないのだから……それでも、
「…嬉しい…!」
馬車の音にかき消されるほど小さな声が溢れた。
心地よい揺れを感じながら、私の意識はすでにこれからの夜の時間へと向かっていた。
一年ぶりの、誰にも縛られない自由な夜。
頬を撫でる心地よい夜風、そして静寂に包まれた街の気配。
久しぶりにあの自由な本来の私に戻れるかと思うと、感情の起伏が乏しい私でも、胸が強く高鳴るのを感じる。
やがて馬車は王都を見渡せる丘の上に建つ、アシュフォード伯爵家の屋敷に到着した。
馬車の到着に合わせ、筆頭執事のアルフレッドが出迎える。
「アルフレッド、私、これからちょっと出かけてくるわ」
私の生き生きとした様子に、彼は少し目を丸くしたあと、優しく微笑んだ。
「さようでございますか。旦那様と奥方様にはお伝えしておきます。それではお嬢様、よい夜を」
玄関で出迎えた他の使用人たちに軽く労いの言葉をかけ、侍女の着替えの手伝いの申し出を断ると、私は足早に自室へと向かう。
きっと今頃、会場に残されたシオンお兄様とリゼットは私を心配して、急いで後を追ってきているはずだ。
あの二人のことだから、マクシミリアンたちに特大の釘を刺してからこちらへ向かっているだろうけれど。
シオンお兄様、リゼット、ごめんなさい。
でも、今日のところは私を一人にしてちょうだい。
自室の窓辺に立ち、私は躊躇うことなくその大きなガラス窓を開け放った。
途端に、ひんやりとした心地よい夜風が頬を撫で、部屋の空気を一気に入れ替えていく。
見上げれば、雲一つない満天の星空。
そして、ぽっかりと浮かぶ大きな満月が、眠りにつきかけている王都の街並みを淡い琥珀色に照らし出していた。
「完璧な夜だわ」
私はゆっくりと目を閉じ、自分の身体の奥底に眠る魔力へと意識を集中させる。
全身が夜空のような青色の魔力の光に包まれ、私の視界がゆっくりと沈み込む。
私の身体は徐々に小さくなっていき、やがて前かがみになり両手を床につけた。
ドレスに包まれていた長身の身体はしなやかな四つ足の獣のものへと変わり、忌み嫌われた黒髪は、艶やかで美しい漆黒の毛並みへと姿を変えた。
そっと目を開け、ドレッサーに映った自分の姿を確認する。
そこには、ピンと立った耳と、満月をそのまま映し出したような真ん丸な金色の瞳を持つ、一匹の黒猫の姿があった。
「ふふっ、目がくりくり……うん。やっぱりこっちの私、すっごく可愛いわ」
艶やかな毛並みは月明かりを受けてほのかにきらめき、尻尾はしなやかに揺れ愛らしい。つまり私は、自分の黒猫の姿が最高に可愛くて、たまらなくお気に入りなのだ。
感情をあまり表に出さないと言われる私だけれど、この姿の時だけは特別だ。
一年間、婚約者というしがらみに縛られ、昼間の重苦しい空気に耐え続けてきた。
その鬱憤が、今この瞬間にすべて吹き飛んでいく。
「にゃあ」
試しに小さく鳴いてみると、自分でも感心するほど愛らしい声が出た。
「久しぶりだけど、猫の鳴きまねも完璧ね。さぁ、行くとしましょうか」
四つの足にぎゅっと力を込め、私は魔力で小さな風の渦を生み出す。
風を四本の足にまとい「トン」っと白い窓枠を蹴ると、私の身体は軽やかに広い夜の空へと跳躍した。
眼下に広がるのは、一年間ずっと恋焦がれていた夜の街の景色。
待っててね、私の大好きな夜の街。
一年分の遅れを取り戻すくらい、今夜は思い切り楽しむんだから。
月明かりの下、一匹の黒猫は魔法の風を従えて、ふわりふわりと夜の街の中へ、屋根から屋根へと駆けだした。
ーー
私が夜の空へと駆け出してから、わずか数分後のこと。
アシュフォード伯爵家の廊下を、足早に進む二つの影があった。
パーティー会場から急いで戻ってきた、兄のシオンと親友のリゼットである。
「ああ、シオンお坊ちゃま。さきほどセレーネお嬢様が……」
アルフレッドの言葉も耳に入らず、二人はセレーネの部屋の前に駆けつけた。
コンコンコン!
「セレーネ、いるか?私だ、シオンだ。リゼットも心配で来てくれている」
シオンが焦った様子で扉を強くノックするが、当然、部屋の中からは何の返事もない。
隣に立つリゼットも、とても心配そうに眉をひそめている。
婚約破棄という令嬢にとって最大の屈辱を大勢の前で味わったのだ。
もしかしたら部屋で一人、泣き崩れているかもしれない。
二人は最悪の事態を想定していた。
「セレーネ、開けるぞ」
シオンがドアノブを回し、勢いよく扉を開け放つと同時に、二人の頬を冷たい夜風が優しく撫でた。
月明かりが差し込む薄暗いその部屋には、主の姿は見当たらなかった。
綺麗に整えられたままのベッド。
脱ぎ捨てられたドレスやアクセサリーの跡もない。
ただ一つ、部屋の奥の大きな窓だけが開け放たれ、夜風が白いレースのカーテンを静かに揺らしていた。
シオンはゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れ、真っ直ぐにその窓辺へと向かった。
白い窓枠に手をかけ、眼下に広がる静かな街と、その上に広がる満天の星空を見上げる。
しばらくの沈黙の後、シオンの口元から小さく息が漏れた。
それは安堵の溜息のようでもあり、少し呆れたような響きも含んでいた。
「……そうか、行ったのか…」
その呟きを聞いて、リゼットも彼の隣へと並び立つ。
彼女もまた、開け放たれた窓から吹き込む夜風を受けながら、肩の力を抜いて「ふふっ」と小さく吹き出した。
「本当にあの娘は……。私たちがどれだけ心配して馬車を飛ばしてきたと思っているのかしら」
「全くだ。婚約破棄されて落ち込んでいるどころか、せいせいして飛び出していくなんてな。だが……まあ、いいさ」
シオンは夜空に浮かぶ満月を見上げながら、とても優しく、穏やかな声音で言った。
「久しぶりに、楽しんでおいで、セレーネ」
その言葉にリゼットも同意するように微笑み、二人はしばらくの間、満天の星空を並んで見上げていた。




