【第24話】ルシアンの告白
冬の寒さが和らぎ、学園の中庭に植えられた早咲きの桜がほのかに色づき始めた春の日。
王立学園の大広間は、一年前と同じように、豪奢なシャンデリアが眩い光を放ち、着飾った生徒たちの熱気と華やかな楽団の調べに包まれていた。
今日は私たち二年生が、もうすぐ卒業を迎える三年生を送るための学年末パーティー。
私、セレーネ・アシュフォードにとっては、一年前のこの場所で、マクシミリアン様に婚約破棄を突きつけられた因縁の行事でもある。
けれど、今の私の胸の中には、あの時のような退屈さも、居心地の悪さも存在していなかった。
「セレーネ、そのドレス……本当に素敵だよ。夜空に輝く月そのものだ」
隣に並び立つルシアン様が、優しく微笑みかけてくれる。
今日、私が身に纏っているのは、深いネイビーブルーを基調としたシルクのドレス。繊細な金糸の刺繍が施され、動くたびに星屑のようにきらめいた。
胸元には、あの日、幼いリゼットが私にくれたあのネックレスが輝いている。
そんな私をエスコートしてくれるルシアン様は、いつもの学園の制服とは違う、高位貴族としての威厳を示す気品に満ちた正装姿だった。軽やかな金髪がきれいに撫でつけられ、碧い瞳が私だけを真っ直ぐに映している。
「ありがとうございます、ルシアン様。今日のあなたも……とても素敵です」
慣れない賛辞を口にすると、私の頬が熱くなった。ルシアン様は嬉しそうに私の手を取ると、その甲にそっと唇を落とした。
会場の少し先では、親友のリゼットが、クロード様にエスコートされて歩いている。
真紅のバラのようなドレスを着こなす彼女と、アッシュグリーンの髪を整え、眼鏡の奥で少し照れくさそうにしているクロード様。
あの保護者のようだった二人も、今ではすっかり息の合った素敵なパートナーに見える。私と目が合うと、リゼットは「バッチリよ」と言わんばかりに極上のウインクを送ってきた。
「シオンお兄様、ご卒業おめでとうございます」
私たちが最初に向かったのは、本日の主役の一人である兄、シオンお兄様のところだった。
「ありがとう、セレーネ。……うん、今日の君は本当に綺麗だ。兄として誇らしいよ」
明るい茶色の髪を整えたお兄様は、少し目を細めて私の頭を優しく撫でてくれた。
その隣には、お兄様の婚約者であるフローラ様が上品に微笑んで立っている。お兄様は終始デレデレとした様子で、過保護でシスコン気味だった普段の威圧感はどこへやら、幸せオーラを全開にしていた。
リゼットからもお兄様へお祝いのプレゼントが手渡され、私たちは会話を楽しむ。
周囲の生徒たちも、私たち四人を見て「なんて華やかなグループなのかしら」「セレーネ様、見違えるように幸せそう……」と羨望の眼差しを向けている。
一年前、この広場で厄災の魔女と罵られ、孤立したあの日の忌まわしい記憶が、目の前の温かくて幸せな景色によって、上書きされていくのを感じていた。
楽しい時間は穏やかに過ぎていったが、パーティーが中盤に差し掛かった頃だった。
ルシアン様がふと、懐から取り出した銀の懐中時計に目を落とし、少しだけ真剣な顔を私に向けた。
「すまない、セレーネ。僕はちょっと席をはずす用事ができた。すぐに戻ってくるので、少しだけここで待っていてほしい」
「え?……ええ、わかりましたわ」
少し急いだ様子の彼に私が頷くと、ルシアン様は「絶対にすぐ戻るからね」と念を押すように私の肩を優しく包み込み、そのまま会場の奥の扉へと足早に消えていった。
クロード様も彼を追って席を外したため、一時的に私とリゼットの二人がその場に残されることになった。
「あら、ルシアン様たち、急にどうしたのかしらね?」とリゼットが不思議そうに首を傾げた、まさにその時だった。
「皆の者!少し私に注目してほしい!」
楽団の演奏を掻き消すような、耳障りで自信に満ちた大声が広場に響き渡った。
声の主を探して生徒たちがざわめく中、会場の中央に堂々と進み出てきたのは、私の元婚約者である侯爵家嫡男、マクシミリアン様だった。
彼の隣には、ふわふわの金髪を揺らし、これ見よがしに彼の腕に抱きついている男爵令嬢、イザベラ様の姿がある。
本来であれば、今日は卒業する三年生を祝い、送り出すための場だ。
それなのにマクシミリアン様は、主役である先輩たちを完全に差し置き、まるで自分が世界の中心であるかのように胸を張って宣言した。
「今日という晴れの日に、皆に素晴らしい発表がある!私、マクシミリアンと、ここにいる聖女イザベラ・バートンは……本日をもって、正式に婚約を結ぶこととなった!」
広間が一瞬、しんと静まり返る。
それは祝福の静寂ではない。「なぜ今この場で?」という、周囲の生徒たちの呆れと戸惑いが入り混じった空気だった。
しかし、そんな周囲の冷ややかな反応に全く気づいていないマクシミリアン様たちは、満面の笑みで人垣を掻き分け、わざわざ私が立っている場所へと一直線に歩み寄ってきた。
「やあ、セレーネ。久しぶりだね」
マクシミリアン様は私を見下ろし、口元に嘲りの笑みを浮かべた。
「一年前は私に捨てられて惨めな思いをしただろうが、今日は君にも私たちの幸せな門出を祝わせてあげようと思ってね。なにせ、君が嫉妬に狂っていじめた聖女様が、ついに未来の侯爵夫人になるんだからな!」
「マクシミリアン様ぁ、そんな風に言ってはセレーネ様が可哀想ですわ。彼女、今日はルシアン様にエスコートされて浮かれていたみたいですけれど……肝心のお相手に、途中で逃げられて今は一人ぼっちなんですもの」
イザベラ様がクスクスと下品な笑いを漏らし、私をあざけり見る。
「はっ!リゼット様の遠い親戚だというだけでデカい顔をしているだけの奴にエスコートされて、喜んでいるとは相変わらず安っぽい女だな!侯爵家の嫡男である僕と比べれば、そんな男……」
彼がそこまで言いかけた、その瞬間だった。
ギィィィィィ。
と、会場の最奥にある、王族や国賓のみが通行を許された巨大な正門の重厚な扉が、荘厳な音を立てて左右に大きく開け放たれた。
「第三王子ルシアン・ド・オレリア殿下の御入場です!」
近衛騎士の威厳に満ちた声が響き渡ると同時に、ピタリと止まった楽団に代わり、王家専用のファンファーレが高らかに奏でられた。
広間にいた全生徒、そして教師たちまでもが驚愕に息を呑み、一斉に扉の方へと視線を向ける。
そこに立っていたのは、先ほどまで私の隣にいた、あのルシアン様だった。
しかし、その出で立ちは先ほどの正装をはるかに凌ぐ、王国の紋章が意匠された最高位の王族の礼服。肩からは深い緋色のマントが流れるように垂れ、その佇まいには、見る者すべてを自然と跪かせるような圧倒的な王者のオーラが満ちていた。
「だ、……第三王子……?」
マクシミリアン様の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。隣のイザベラ様も、あまりの衝撃に開いた口が塞がらない様子で呆然と固まっている。
ルシアン様、…いえ、ルシアン殿下は、会場のざわめきなど一切意に介さず、静かな、けれど誰もが道を譲る足取りで、真っ直ぐに私の元へと進み出てきた。
そして、私の目の前で足を止めると、ゆっくりと片膝を床についたのだ。
「身分を隠していたことをどうか許してほしい。僕は……この学園に、ただ一人、我が王家の未来を託すにふさわしい最愛の女性を探しに来た」
ルシアン殿下はそっと手を差し出し、私の瞳を見上げた。
「セレーネ・アシュフォード伯爵令嬢。私の婚約者になってもらえませんか」
公衆の面前での、これ以上ないほど熱烈でロマンチックなプロポーズ。
周囲の女生徒たちから、ため息とも悲鳴ともつかない歓声が上がる。
伸ばされたその手を、今すぐ取りたい。私の心臓は早鐘のように鳴り響き、歓喜に震えている。
けれど、私の指先はほんの数ミリ進んだところで、ピタリと止まってしまった。
『もしも、彼がアランじゃなかったら……?』
この場面になって、ほんのわずかな一抹の不安が心をよぎってしまった。
私はルシアン殿下とアラン、そして時計塔の少年が同じ人物だと確信している。
でも、…ルシアン殿下からその事実を告げられたわけではない。
今までの彼の言動から、そうに違いないと私が勝手に推測したにすぎないのだ。
もし万が一、私の勘違いで、彼がアランとは全くの別人だったとしたら?
私が夜に黒猫になって街を飛び回っていることを知らず、ただ純粋にアシュフォード家の令嬢としての私を愛してくれているのだとしたら?
私のあの夜からの初恋は、永遠に叶わなくなってしまう。
私の瞳に浮かんだわずかな躊躇と不安を、ルシアン殿下は見逃さなかった。
彼は驚くことも焦ることもなく、ただ愛おしそうに目を細め、私の耳元に届くだけの優しい声で、魔法のような言葉を囁いた。
「僕は十年前からずっと君を探していたんだ、ノラ」
「ーーっ!」
その名前が呼ばれた瞬間、私の胸に仕かけられていた最後の鍵が、カチリと音を立てて開いた。
ノラ。それは私が黒猫の時だけの、彼らと私だけが知る特別な名前。
ルシアン殿下はあの時計塔の泣き虫の少年であり、夜のパトロールの相棒アランであり、そして今目の前にいる私の王子様なのだ。
疑念の霧は完全に晴れ渡った。
「はい……!よろしくお願いいたします、ルシアン殿下」
私は溢れそうになる涙を堪え、とびきり幸せな笑顔を浮かべて、彼の手をしっかりと握り返した。
「うおぉぉぉぉぉっ!」
「セレーネ様!おめでとうございます!」
広間が割れんばかりの大歓声と祝福の拍手に包まれる。
三年生のシオンお兄様も「やってくれましたね、殿下!ですが、たとえ王族であろうと、私の可愛い妹を泣かせたらただじゃおきませんからね!」と目を鋭く光らせながら拍手を送り、リゼットは「ちょっと遅すぎですけど、当然の結果ですわ!」と誇らしげに胸を張っている。
一方、完全に蚊帳の外に置かれたマクシミリアン様とイザベラ様は、顔面蒼白になってガタガタと震えていた。
「侯爵家の嫡男である私と比べれば、そんな男」と先ほど言い捨てた相手が、この国の王位継承権を持つ本物の王子だったのだ。不敬罪すら適用されかねない圧倒的な身分差を突きつけられ、二人は後悔と絶望に顔を歪ませ、ただ床にへたり込むことしかできなかった。
「さあ、一緒に踊りませんか?僕のお姫さま。今日は上手に踊ってみせますよ」
立ち上がったルシアン殿下が、私の腰に手を添える。
楽団が最高潮の祝福のワルツを奏で始める中、私たちは光の真ん中へと滑り出した。
軽やかなステップを踏みながら、彼と視線が交差する。
「やっと捕まえたよ、ノラ」
「もう逃げませんわ、アラン」
二人だけの秘密の暗号を交わし、私たちは幸せに微笑み合った。
ふとフロアの横を見ると、正装に身を包んだクロード様が、真っ赤になってうつむくリゼットの前に片膝をつき、恭しく手を取ってダンスを申し込んでいるところが見えた。
「クロードたちも、なかなかお似合いだね」
「ええ、本当に」
黄金のシャンデリアが照らす大広間で、私たち四人の幸せなワルツの旋律は、いつまでもいつまでも優雅に響き続けていた。




