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【最終話】はじまりの場所へ

学年末パーティーの熱狂と興奮から数時間が過ぎ、王都は深い静寂と夜の闇に包まれていた。


ドレスのまま、自室のベッドに腰を下ろした私は、窓から差し込む月明かりを見つめながら、今日の出来事をぼんやりと思い返していた。


ルシアン殿下からのプロポーズ。


大勢の前で愛を誓ってくれた彼。もちろん、そのプロポーズは心から嬉しかったし、私は彼と生きていくことを選んだ。


マクシミリアン様たちの顔面蒼白な様子は少し気の毒になるくらいだったけれど。


ルシアン殿下がアランであることはもうわかっている。彼自身も、私がノラだと気づいていたと言ってくれた。


けれど、私の心の中には、ほんの少しだけやり残したことがあるような、不思議な落ち着かなさが残っていた。


あの日、火事の現場から朝日に追われるように逃げ出して以来、仮面をつけた夜の相棒アランと一度も話せていないのだ。


昼間の四人での…いや、ルシアン殿下との学園生活が、いつの間にか大切なものになっていて、夜にちゃんと眠るのが当たり前になっていた。


ルシアン殿下とは結ばれたけれど、夜の街を共に駆け抜けたアランとしての彼と、きちんと向き合って話がしたい。


なぜだかわからないけれど、今夜、どうしても行かなければならない気がした。


彼がそこで待っていると、私の本能が告げているのだ。


私はベッドから立ち上がり、躊躇うことなく自室の大きな窓を開け放った。


冷たい春の夜風が部屋に吹き込んでくる。


目を閉じ、体内の魔力を解放すると、私の身体は淡い青色の光に包まれ、視界がゆっくりと沈み込んでいく。


目を開けると、そこにはしなやかな四つ足と、漆黒の毛並みを持つ黒猫の姿があった。


白い窓枠を蹴り、私は夜の空へと跳躍する。


久しぶりに感じる、重力から解放されたような身軽な感覚。


黒猫になるのは、アランから逃げ出したあの日以来だ。


王都の石畳を照らすガス灯の淡い光を見下ろしながら、私は足裏に風の渦を生み出し、屋根から屋根へと軽やかに駆け抜けた。


毛並みを撫でる、冷たい風が心地よい。


目指すのは、街の中心にそびえ立つ、一番高い時計塔。


七歳の頃に泣き虫の少年と出会い、ルシアン殿下と不器用なダンスを踊った、私たちのはじまりの場所だ。


長い階段を魔法の風を使って一気に駆け上がり、巨大な文字盤のすぐ上にある展望台へと駆けつけた。


そこには、琥珀色の満月を背にして立つ、一人の青年の影があった。


軽やかな金髪に、目元を隠す仮面。


少しラフな軽装の彼は、間違いなく夜の街の相棒、アランだ。


「こんばんは。こんなところでどうしたの?」


私は少年と出会ったあの日のように語りかけ、彼から数歩離れた場所で立ち止まった。


「来てくれると信じていたよ、ノラ」


アランが静かな、けれど確かな熱を帯びた声で私を呼んだ。


彼はゆっくりとしゃがみ込み、片膝をついて私と目線を合わせる。


「ずっと、君に謝りたかったんだ。あの日の明け方、君が人間の姿に戻るのを見てしまった。君がずっと隠していた秘密を知ってしまったせいで、君は僕を嫌って、逃げてしまったんだと思い込んでいた。ルシアンとして学園で声をかけても、君はいつも一線を引いていたから、やっぱり嫌われたんだって絶望していたんだ」


彼の痛切な言葉に、私は首を横に振った。


私の方こそ、彼に嫌われたとばかり思っていたのだ。


黒猫の姿のまま、私は人間の言葉を紡いだ。


「違うわ、アラン。私こそ、あなたが軽薄な令嬢を嫌っていたのを知っていたから。夜な夜な家を抜け出している私の正体を知ったら、幻滅されて嫌われるのが怖かったの。役所の屋根の上であなたに会った時、あなたが私を追いかけてこなかったから、本当に見限られたんだと思って、すごく悲しかった」


私の言葉を聞いて、アランは少しだけ目を丸くした。


そして、やがて全てを理解したように、困ったような、それでいて心底愛おしそうな笑みを浮かべた。


「なんだ。僕たちは二人とも、本当のことを伝えたら相手に嫌われてしまうんじゃないかって、勝手に勘違いしてすれ違っていたんだね」


「ふふっ。ええ、本当に馬鹿みたいね」


私もつられて、小さく笑い声を漏らした。


お互いに相手のことが大切すぎたからこそ、失うのが怖くて臆病になっていたのだ。


保護者同盟を結成していたリゼットやクロード様が見たら、呆れてまた深いため息をつくことだろう。


アランはゆっくりと、目元を覆っていた仮面に手をかけた。


そして、迷いなくその仮面を外し、傍らの石の床へと置いた。


月明かりの下に現れたのは、昼間の完璧な王子様であるルシアン殿下の顔。


けれど、その表情は王族としての威厳や、学園で見せるような作られた笑顔ではなく、ただ一人の青年としての、純粋で真っ直ぐな愛情に満ちていた。


「セレーネ。いや、僕の愛しいノラ。改めて、君に伝えさせてほしい」


ルシアン殿下は、夜風に金色の髪を揺らしながら、私に向かってそっと右手を差し出した。


「七歳の頃、暗闇の中で絶望して震えていた僕を、この時計塔で救ってくれたのは君だった」


ルシアン殿下は、差し出した手をゆっくりと、自らの胸にそっと当てた。


静かな夜の空気に、彼の誠実な声が溶け込んでいく。


「君がくれたシナモンクッキーの甘さと、ただ隣にいてくれた温もりが、当時の僕にどれほどの救いと生きる希望をくれたか……君には想像もつかないだろう。異国へ留学していた数年間も、君の金色の瞳とあの味を忘れたことは一度もなかったんだ」


彼は少しだけ私に近づき、愛おしそうに目を細めた。


「だから、帰国してすぐに夜の街を探し回った。そしてあの夜、君と再会できた時の喜びは言葉では言い表せないほどだった。君は昔と変わらず優しくて、誰かのために一生懸命で……そんな君の隣にいられる夜の時間が、僕にとって何よりの宝物になった」


彼の碧い瞳が、月の光を受けて優しく潤んでいる。


「僕は愛する黒猫と学園で再会し、そしてやがて美しい黒髪の君にどんどん惹かれていったんだ。気がつけば、幼い頃の悪夢も見なくなっていた。運命なんて言葉は信じていなかったけれど、君と出会うためのものだったなら、信じてもいいと思えたんだよ」


その温かい言葉の数々に、私の胸の奥でつかえていたものが、静かに溶けていくのを感じた。


彼はずっと、私のことを見つめてくれていたのだ。


「私も……あの時出会った、泣き虫だった少年のことを、ずっと大切に思っていたの」


私はルシアン殿下を見上げ、ゆっくりと思いを紡ぎ出した。


「いつかまた出会えたらって、この時計塔から街を見下ろしては思い出していたわ。そして、夜の街で出会ったアランに、私は自分でも気づかないうちに恋をしていた」


自分の口から「恋」という言葉を出すのは少し恥ずかしかったけれど、今は全てを素直に伝えたかった。


「だからこそ、昼間の学園でルシアン殿下から優しくされるたびに、心が揺れる自分が嫌だったの。アランに惹かれているはずなのに、ルシアン殿下に惹かれていく自分の心に戸惑って、躊躇してしまったのよ」


私が正直に打ち明けると、ルシアン殿下は少し驚いたように目を見開き、やがて心底嬉しそうに、ふわりと微笑んだ。


「そうか…。君は、アランと僕の間で揺れてくれていたんだね」


「からかわないで。でも……私が好きになったアランがルシアン殿下で、ルシアン殿下があの時の少年だった。それがわかった時……私も初めて運命ってものを信じてみたの」


私の言葉を聞いたルシアン殿下は、もう一歩、私の前に歩みよった。


そして、自分の胸のポケットから、小さな紙の袋をそっと取り出した。


袋の口が少しだけ開いており、そこからふわりと、香ばしいバターとシナモンの甘い香りが夜風に乗って漂ってきた。


私たちが初めて心を通わせた、あの思い出の香りだ。


「君がどこへ行こうとも、僕は必ず君を見つけ出し、ずっとそばにいると誓おう。……僕と結婚してくれませんか、セレーネ」


婚約指輪でもない、でも私たちだけの絆のシナモンクッキー。


今日、パーティーの会場で大勢の生徒たちに見守られながら受けたプロポーズも最高に幸せだったけれど。


誰の目もないこの夜の時計塔で、二人きりで向かい合い、思い出の香りに包まれながら受けるプロポーズは、私の心の一番深い場所を、優しく、強く満たしてくれた。


その時だった。


東の空の境界線が白く輝き始め、山の稜線から眩しい太陽が顔を出した。


黄金色の朝日が王都の街並みを照らし出し、時計塔の展望台にいる私たちを暖かな光で包み込む。


「あっ……」


朝日を浴びた私の身体が、青い光の粒子に包まれた。


視界が急速に高くなり、しなやかな黒猫の四肢が人間の手足へと変わり、長い黒髪が背中へとファサリと落ちる。


光が収まると、私は黒猫ではなく、ネイビーブルーのドレスを纏ったセレーネ・アシュフォードの姿で、彼を見下ろすように立っていた。


ルシアン殿下は私が人間の姿に戻ったことに驚く様子もなく、ただ片膝をついたまま、愛情に満ちた碧い瞳で私を真っ直ぐに見上げている。


私は彼の前に静かにしゃがみ込み、差し出された彼の手を、今度こそ迷うことなく両手でしっかりと握りしめた。


「はい、喜んで。あなたがどこに行こうとも、私は必ずあなたを見つけ出し、ずっとそばにいると誓います」


私がはっきりとそう答えると、ルシアン殿下は太陽のように眩しい笑顔を咲かせた。


彼は私の手を取って立ち上がり、私の腰をそっと引き寄せる。


私も自然と背伸びをして、彼の首に腕を回した。


朝の冷たい風を忘れさせるほどの温もりが、お互いの触れ合った唇から伝わってくる。


眼下に広がる王都の街が、新しい一日の始まりを告げるようにキラキラと輝き始めていた。


暗闇に震えていた少年と、退屈な昼間に息を潜めていた令嬢。


夜の魔法が解けた朝日の中で、私たちは本当の絆で結ばれた。


これから先、どんな困難が待ち受けていようとも、彼と一緒ならきっと乗り越えていける。


昼も夜も、彼と過ごすこれからの長い時間は、きっと甘くて、騒がしくて、最高に幸せなものになるはずだから。




黒猫の令嬢は今日も眠たい

〜夜に恋した青年と、昼に出会った王子様が同じ人だなんて知りません〜

(完)

本作を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!

皆様の応援のおかげで、無事に物語を完結させることができました。


もし少しでも楽しんでいただけましたら、「★」での評価や、フォロー、おすすめレビューをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります!


この物語はここで幕を閉じますが、またどこかで皆様に新しい物語をお届けできれば幸いです。

改めまして、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました!

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