【第22話】迷子の二人と時計塔
年末の活気に満ちた市場のど真ん中で、ルシアン様と繋いだ手からじんわりと温もりが伝わってくる。
吐く息は白いけれど、彼の手のひらに包まれた私の右手だけは、ストーブのそばにいるようにポカポカと温かかった。
「はぐれないようにね、セレーネ」
ルシアン様が振り返り、優しく微笑む。
「はい……ありがとうございます、ルシアン様」
周囲は冬の味覚を求める買い物客でごった返している。普通なら人とぶつかってしまいそうなほどの混雑だけれど、ルシアン様は繋いだ手を引いて少し前を歩き、すれ違う人々の波から私を自然に守るようにエスコートしてくれていた。
そのスマートな身のこなしと、私を気遣う過保護な背中。
夜の街で私を抱き上げ、危険から遠ざけてくれたアランの姿が、またしても鮮明に重なる。
こうして手を繋いで歩くのは初めてなのに、不思議と居心地が悪くない。むしろ、ずっと前からこうして隣を歩いていたような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
「あそこの屋台、温かい林檎の果実水が売っているみたいだ。少し休んで飲んでいこうか」
ルシアン様が指差した先には、湯気を立てる大きな鍋を置いた屋台があった。シナモンと一緒に煮込んだ林檎の甘い香りが、冬の冷たい空気に乗って鼻をくすぐる。
私が頷くと、彼はすぐに二杯の果実水を買い求め、一つを私の両手に持たせてくれた。
「ありがとうございます。……すごく甘くて美味しいです」
ふーふーと、湯気を吹きながら一口飲むと、冷えていた体にじんわりと甘さが染み渡っていく。
「君が喜んでくれてよかった。甘いものを食べている時のセレーネは、本当に幸せそうな顔をするね」
ルシアン様が私の顔を覗き込み、目を細めて嬉しそうに笑った。
ふと、私は手元のカップから視線を上げ、賑わう大通りの景色を見渡した。
そしてそのまま、建物の高い屋根へと視線を移す。
赤茶色のレンガの屋根。煙突の影。運河沿いに続く石畳の塀。
夜になれば、私は黒猫のノラとして、風を纏ってあの屋根の上を飛び回り、眼下に広がる街の景色を見下ろしていた。
孤独で窮屈だった昼間を抜け出し、一人きりで自由に駆け回る夜の時間は、私にとって何よりもかけがえのないものだった。
でも、今はどうだろう。
人間の姿のまま、ルシアン様と並んで歩く昼間の街。
夜の自由な散歩とは違うけれど、彼の温かい体温を感じながら歩くこの時間は、胸の奥が満たされるような、不思議な幸せに包まれていた。
「屋根の方を見て、どうしたんだい?何か面白いものでもあった?」
私の視線を追って、ルシアン様が不思議そうに首を傾げる。
「いえ……ただ、こうして下から見上げる王都の景色も、とても素敵だなと…」
「僕もそう思うよ。でも、君と一緒だから、この街がもっと美しく見えるんだと思う」
息をするように甘い言葉を囁かれ、私はまたしても顔に熱が集まるのを感じた。本当に、彼はアランと同じくらい真っ直ぐで、私のペースをあっさりと崩してくる。
「……ルシアン様は、本当に口がお上手ですね」
私が少しだけ顔を背けて誤魔化すと、彼は「本心だよ」と笑って、再び私の手を取った。
その後も私たちは、リゼットたちが戻ってくるのを待つという名目で、市場のあちこちを見て回った。
冬の夜長を照らすための綺麗な細工が施されたランタンの店や、異国から輸入された珍しい織物を扱う店。
ルシアン様は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、私が興味を持ったものがあれば立ち止まって、楽しそうに話を聞いてくれた。
今までマクシミリアン様と歩いていた時は、彼の自慢話を聞かされるばかりで、私が何に興味があるかなんて聞かれたこともなかった。
でもルシアン様は違う。私の言葉に耳を傾け、私の小さな感情の変化を絶対に見逃さない。
まるで、迷子になった私を絶対に見失わないように、大切に扱ってくれているようだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、気がつけば冬の短い太陽は西の空へと傾きかけていた。
空がオレンジ色に染まり始め、市場の屋台にもぽつぽつと明かりが灯り始める。
「リゼットたち、遅いですね……。どこかで迷ってしまったのでしょうか」
私が少し心配になって周囲を見回すと、ルシアン様は小さく苦笑いを浮かべた。
「クロードがついているから迷子にはならないと思うけれど……きっと、気を利かせてくれたんだろうね」
「え?」
「セレーネ。もし君がまだ疲れていないなら……これから、君を連れて行きたい場所があるんだ。一緒に行ってくれるかい?」
ルシアン様が立ち止まり、真剣な碧い瞳で私を見つめた。
夕暮れの光に照らされた彼の表情は、いつもの爽やかな笑顔とは違う、どこか切実な思いを秘めているように見えた。
「連れて行きたい場所、ですか?」
「うん。僕にとって、とても大切な場所なんだ。そこで、君に伝えたいことがある」
彼の真っ直ぐな視線から、目が離せなくなる。
ドクン、ドクンと、私の心臓が早鐘を打ち始めた。
彼が私に何を伝えようとしているのか。
不安と期待が入り混じったぐちゃぐちゃの感情が渦巻くけれど、彼から差し出されたその手を取らないという選択肢は、私の中にはもう残っていなかった。
「はい。……お供いたしますわ、ルシアン様」
私が頷くと、ルシアン様は心底ホッとしたように微笑み、私の手を引いて歩き出した。
彼が私を導いていく先は、王都の中心部。
オレンジ色に染まる空へ向かって高くそびえ立つ、街で一番高い時計塔だった。
ルシアン様に手を引かれながら、私たちは王都の中心にそびえる時計塔の中へと足を踏み入れた。
最上階へと続く長い階段は、魔法が使えない昼間の人間の身体には少し骨が折れる。
「大丈夫かい?無理しないで、僕のペースに合わせなくていいからね」
息を切らしそうになる私を気遣い、ルシアン様は何度も振り返っては私の手を引く力を優しく調整してくれた。その気遣いが嬉しくて、階段の辛さなど全く気にならなかった。
彼の手を握っていられるなら、このまま階段が終わらなくてもいい、そう思えるほどだった。
やがて、巨大な文字盤のすぐ上にある小さな展望台へとたどり着くと、冷たい冬の風が頬を撫でた。
眼下に広がっていたのは、燃えるようなオレンジ色に染め上げられた王都の街並みだった。
「うわぁ…綺麗……」
私は思わず感嘆の声を漏らした。黒猫の姿で見る夜景は見慣れているけれど、夕暮れの光に照らされた無数の屋根が黄金色に輝くこの景色は、夜とはまた違った温かさと美しさにあふれている。
ルシアン様は冷たい石の手すりに寄りかかり、夕日に染まる遠くの空を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「ここは、僕を暗闇から救ってくれた大切な友達との思い出の場所なんだ」
その声はとても優しく、どこか遠い記憶を愛おしむような響きを帯びていた。
「幼い頃、僕は深い孤独の中にいた。誰にも本当の自分を明かせず、毎晩のようにここまで逃げてきては、一人で泣いていたんだ。でも、そんな時に僕を見つけて、寄り添ってくれた友達がいた。甘いお菓子をくれて、僕を絶望から救い出してくれたんだよ」
彼の言葉を聞いて、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「私にとっても、ここは特別な場所よ」
私はルシアン様の横顔を見つめながら、はっきりとそう返した。
「昔、ここである男の子と出会ったの。少し寂しそうだった彼に、私が大好きだったシナモンクッキーを分けたのよ。彼と過ごした時間は、私にとっても大切な宝物だわ」
もはや、間違いない。
私の目の前にいるルシアン様は、あの時、時計塔で出会った泣き虫の少年であり、夜の街を共に駆け抜けたアランなのだ。
すべてが繋がった。
彼が私にシナモンクッキーをくれた理由も、孤児院で語った言葉も、あの夜の過保護なエスコートも。
彼はずっと私を探してくれていて、そして今、目の前にいる。
ならば、私からも逃げずに伝えなければ。私が、あの時の黒猫であり、ノラなのだと。
「あの、ルシアン様……」
「セレーネ、実は僕……」
私が勇気を出して口を開いた瞬間、彼もまた、何かを決意したような真剣な顔で同時に言葉を発した。
「あっ……」
「ご、ごめん。君から先に話して」
「いえ、ルシアン様からどうぞ」
お互いに言葉を譲り合ってしまい、少しだけ気まずい沈黙が流れる。ピンと張り詰めていた緊張の糸が緩んでしまい、せっかくの正体を明かすタイミングがふわりと冬の空へ逃げていってしまった。
肝心なところで不器用になってしまうのは、どうやらお互い様のようだ。
ルシアン様は小さく咳払いをして、姿勢を正した。
そして、私の正面に立ち、両手で私の右手を取った。
「セレーネ。次の学年末パーティー、もしよかったら僕と一緒に参加してもらえないか?」
真っ直ぐに見つめてくる、熱を帯びた碧い瞳。
学年末のパーティー。それは一年前、私がマクシミリアン様に婚約破棄を突きつけられ、大勢の前で理不尽に糾弾された、あの因縁のパーティーだ。
そして、王立学園において、特定の相手をそのパーティーにエスコートするということは、単なる友人以上の、正式なパートナーになりたいという明確な意思表示を意味している。
夕日の光を受けて輝く彼の顔に、十年前の寂しそうだった少年の面影と、夜の街で私を守ってくれた仮面の青年アランの笑顔が、寸分の狂いもなく完璧に重なり合った。
私の心に、もう迷いはなかった。
ルシアン様という一人の青年の、その不器用で真っ直ぐな優しさに、私はとっくに恋に落ちていたのだから。
「はい。よろしくお願いいたします」
私が迷わず、はっきりとそう答えると、ルシアン様は目を見開き、やがて今日一番の、太陽のように眩しい笑顔を咲かせた。
「ありがとう、セレーネ!絶対に、君を世界一幸せなパートナーにしてみせるよ」
彼は最高の笑顔で私の両手を手にとり、不器用なダンスのように、くるくると回りはじめた。
冷たい冬の風が吹く時計塔の展望台だったけれど、私の心の中は、春が訪れたように温かな幸福感で満たされていた。
遠くの空に輝き始めた一番星が、笑い合いながら回り続ける私たちを、いつまでも見守るように見つめていた。




