【第19話】逃げ出した黒猫とすれ違う夜
自室のベッドに倒れ込んだ私は、完全に容量をオーバーした頭を抱えて一人悶えていた。
ルシアン様が、あの時計塔で出会った泣き虫の少年。
そして、私を庇うあの身のこなしと過保護な態度は、夜の相棒アランそのもの。
もう何が何だかわからない。
頭がパンクしそうだった。このままベッドで悶々としていても、答えは出ないし頭が変になりそうだ。
冷たい風を浴びて、少し頭を冷やしたい。
私は窓を開け放ち、久しぶりに体内の魔力を解放した。
青い光に包まれ、しなやかな四つ足の黒猫の姿へと変わる。
火事の日から、正体がバレたかもしれない恐怖でずっと控えていた夜の散歩だけれど、今夜だけはどうしても外の空気を吸いたかった。
私は白い窓枠を蹴り、秋の終わりの冷たい夜風の中へとふわりと跳躍した。
いくら頭を冷やしたいとはいえ、夜警団としてアランたちと一緒にパトロールしていた運河沿いや繁華街に行くのは危険だ。
もし彼らに出くわしてしまったら、どんな顔をしていいかわからない。
私が向かったのは、普段は決してパトロールのルートに選ばない、王都の公共施設が立ち並ぶエリアだった。
役所や大きな図書館、公民館などが集まるこの区画は、昼間こそ仕事をする人々でごった返しているが、夜になればお店や酒場もないため、人っ子一人いない静寂に包まれる。
酔っ払いの喧嘩も泥棒も出ないこの場所なら、治安を守る夜警団のアランたちが来ることは絶対にないはずだ。
私はひっそりと役所の高い屋根の上に登り、冷たい瓦の上に香箱座りをした。
夜風が私の黒い毛並みを撫でていく。
目を閉じると、昼間に見たルシアン様の美しい碧い瞳が脳裏に浮かんだ。
本当に、彼がアランなのだろうか。
だとしたら、どうして彼は名乗ってくれないのだろう。
やっぱり、あの明け方に私だと気づいて、幻滅してしまったから……。
ネガティブな思考のループに陥りそうになった、その時だった。
「こんな静かな場所にも、夜の風は心地よく吹くんだね」
眼下の石畳から、聞き慣れた、そして今一番聞きたくなかった、けれど心の底ではずっと求めていた声が聞こえてきた。
ビクッとして下を見下ろすと、そこには見覚えのある二つの影があった。
目元を隠す仮面。月明かりを弾く軽やかな金髪と、後ろで束ねられたアッシュグリーンの長髪。
アランとジャックだ。
どうしてここに!?
私はパニックになりそうになるのを必死で抑えた。
まさか、彼らもたまには違うエリアをパトロールしてみようと、気まぐれでこの公共施設エリアにやってきたというのだろうか。
息を潜め、屋根の影に隠れようとした私の体が、瓦の端で小さく音を立ててしまった。
カタン。
その微かな音に、地上を歩いていた金髪の青年が鋭く反応し、弾かれたようにこちらを見上げた。
仮面の奥から覗く、美しい碧い瞳が限界まで見開かれる。
私の金色の瞳と、彼の碧い瞳が、夜の闇の中で真っ直ぐに交差した。
「ノラ……?」
アランの掠れた声が、静かな夜の街に響いた。
見つかってしまった。
正体を知られた。軽薄な令嬢だと呆れられたかもしれない。
彼から冷たい目を向けられるのが怖くて、私は考えるよりも先に屋根を蹴っていた。
「にゃああっ!」
短い悲鳴のような声を上げ、私は風魔法を足元に展開して、隣の図書館の屋根へと全速力で跳躍した。
「あっ、待って!ノラ!」
背後からアランの切実な声が響く。
以前、初めて彼らと出会った夜も、私はこうして屋根の上を逃げ回った。
あの時の彼は、嬉しそうに笑いながらどこまでも追いかけてきてくれた。きっと地の果てまで行こうとも、付いてきてくれただろう。
その記憶があったから、私は必死に逃げながらも、心のどこかで彼が追ってきてくれることを期待してしまっていたのだ。
少しだけ速度を緩め、私は逃げた先の屋根の上から、恐る恐る後ろを振り返った。
しかし、私の目に映った光景は、予想とは全く違うものだった。
アランは私を追って高いところに登ることも、石畳を走って追いかけてくることもなかった。
彼は私が逃げ出した役所の建物の下に立ち尽くし、ただギュッと拳を握りしめて、うつむいていたのだ。
隣のジャックが何かを話しかけているが、アランは一歩も動こうとしない。
私を追わないアランの姿。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
追ってきてくれない。
あんなに過保護で、どこまでも私を追いかけてきてくれた彼が、立ち止まっている。
やっぱり、私の正体を知って、軽薄な女性に幻滅して、嫌いになったんだわ。
だから、逃げる私をもう引き止めようともしないのね。
絶望的な思いが、私の心を黒く塗り潰していく。
「…ごめんなさい…さようなら、アラン」
私は誰にも聞こえない声で小さく呟き、滲みそうになる視界を誤魔化すように、再び夜の闇の中へと駆け出した。
後ろを振り返ることは、もう二度とできなかった。
ーー
逃げていく彼女の後ろ姿が夜の闇に溶けていくのを、僕はただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。
伸ばしかけた手は空を切り、鉛のように重くなった足は石畳に縫い付けられたように動かない。
「……アラン。追わなくていいのですか?」
隣で状況を見守っていたジャックが、静かに問いかけてくる。
僕は力なく首を振った。
「追えないよ……」
ギュッと拳を握りしめ、僕はうつむいた。
彼女があの火事の日以降、一度も夜の街に姿を見せなかった理由。そして今、僕の顔を見た瞬間に悲鳴を上げて逃げ出してしまった理由。
それは明白だった。
あの日の明け方、僕が彼女の正体を知ってしまったからだ。
彼女はずっと、自分の秘密を隠して夜の街を楽しんでいた。
それなのに、僕は彼女が人間に戻る姿を見てしまった。誰にも知られたくなかった秘密を暴かれたことで、彼女は僕を警戒し、嫌ってしまったのだ。
そう、きっと彼女は夜の街で、気ままな黒猫でいたかったのだろう。婚約破棄や、根も葉もない噂であふれた学園の日常から、この時だけは解放されたかったに違いない。
僕にはわかる。僕自身、孤児院でのつらい生活から逃げ出し、夜の街に救われたのだから。
逃げ出す直前、屋根の上からこちらを振り返った彼女の金色の瞳には、明らかな拒絶が浮かんでいるように見えた。
あんなにも怯えた目で僕を見る彼女を、これ以上無理に追いかければ、決定的に嫌われ、完全に心を閉ざされてしまうかもしれない。
それが怖くて、僕はただ立ち尽くすことしかできなかったのだ。
「やはり戻ってきてくれない。嫌われたんだ……」
ポツリとこぼれ落ちた僕の言葉は、秋の冷たい夜風に虚しく溶けていった。
学園でルシアンとしてアタックし続けても、彼女はいつもどこかで一線を引いている。
そして夜の街でアランとして出会っても、彼女は僕から逃げてしまう。
どちらの僕であっても、彼女の心に触れることはできないのだろうか。
「そんなに落ち込まないでください。女性の心は秋の空のように気まぐれなものです。時間が解決することもありますよ」
ジャックが不器用な慰めの言葉をかけてくれるが、今の僕の心には冷たい絶望しか広がっていなかった。
僕はただ、彼女が消えていった暗い夜空を、いつまでもいつまでも見上げることしかできなかった。




