【第17話】あなたはあなた?
秋の気配がすっかり深まり、王立学園の木々も鮮やかな赤や黄色に色づき始めていた。
隣のクラスに編入してきた転校生のルシアン様は、あの日以来、隙あらば私に話しかけてくるようになった。
「セレーネ、おはよう。今日も君の黒髪は夜空のように美しいね」
「セレーネ、次は移動教室なのかい?途中まで一緒に行こうか」
私の親友であるリゼットの親戚という立場を最大限に利用して、彼は息をするように甘い言葉を囁きながら私にまとわりついてくる。
最初は「私がリゼットの親友だから、親切にしてくれているだけだわ」と自分に言い聞かせ、適当に塩対応でかわしていた。
けれど、彼の言葉はいつも真っ直ぐで、私を見つめる瞳には一切の嘘や打算が感じられない。そのあまりにも誠実な態度に、私の心は少しずつ揺れ始めていた。
気がつけば、昼食や休み時間など、私とリゼット、そしてルシアン様と付き人のクロード様の四人で行動することが当たり前になっていた。
「でん…おほん、ルシアン様。あまりセレーネ嬢を困らせないでください。リゼット嬢も呆れていますよ」
「僕はただ、セレーネともっと仲良くなりたいだけだよ。ね、リゼット?」
「私はセレーネが嫌がらないなら構いませんわ。でも、節度は守ってくださいね」
苦労性のクロード様がたしなめ、リゼットが笑顔で釘を刺す。このやり取りも、すっかり見慣れた日常風景になりつつある。
圧倒的な美貌を持つルシアン様と、公爵令嬢であるリゼット。そしてクールなクロード様に囲まれているせいで、私たち四人は学園内でひときわ目立つ存在になっていた。
遠巻きに見てキャーキャーと黄色い声を上げる生徒たちも増え、それに反比例するように、これまで学園で一番目立っていた元婚約者のマクシミリアン様とイザベラ様の存在感は嘘のように薄れていった。
二人が何か言いたげにこちらを睨んでいることもあるが、ルシアン様たちの圧倒的なオーラの前に近づくことすらできないようだ。
そんな日常を過ごしながらも、私は心のどこかでずっとアランのことを考えていた。
ーー
ある日の昼休み。
私たちは四人で中庭のベンチに座り、穏やかな歓談の時間を過ごしていた。
少し離れた芝生の広場では、男子生徒たちが集まってボールを使った遊びに興じている。
「楽しそうね」とその光景を眺めながら、心地よい秋の風に吹かれ、私はうとうとと、まどろみそうになっていた。
「危ないっ!」
突然、男子生徒の焦ったような声が響いた。
ハッとして目を開けると、蹴り損ねたらしいボールが、ものすごい勢いで私の顔面に向かって飛んでくるところだった。
避ける暇もない。私が思わず目を閉じた、その瞬間だった。
バシッ!
鈍い音が響き、しかし私に痛みは走らなかった。
恐る恐る目を開けると、私の目の前にルシアン様の広い背中があった。
彼は私が瞬きをするほどのほんの一瞬でベンチから立ち上がり、私の前に立ちはだかって、飛んできたボールを片手で軽々と受け止めていたのだ。
高度な訓練を受けた騎士のように、しなやかで無駄のない身のこなし。
「ルシアン様……」
私が呆然と見上げると、彼は私を気遣うように片腕を肩に置き、ボールを拾いに駆け寄ってきた男子生徒たちに向かって、爽やかな笑顔を向けた。
「気をつけてくれたまえ。怪我人が出なくてよかったよ」
彼は怒ることもなく、ポンと軽くボールを投げ返してやった。
男子生徒たちは恐縮したように何度も頭を下げて戻っていく。
「セレーネ、大丈夫かい?怪我はない?どこかに当たったりはしてないかい?」
ルシアン様はすぐさま私に向き直り、私の顔や肩を心配そうに覗き込んでくる。
その瞳の揺れ方、そして今見せた圧倒的な運動神経。
ドクン、と私の心臓が大きく跳ねた。
この身のこなしと、私のこととなると周りが見えなくなるほどの過保護な態度。
それは、夜の街で私を抱き上げ、危険から守ってくれた相棒のアランそのものだった。
『もしかして、ルシアン様はアランなの?』
夜警を共にしていたアランとジャックの二人組。そして、ルシアン様とクロード様の二人組。
髪色や顔立ちの雰囲気も似ているし、辻褄はいくらでも合う。
私は彼の碧色の瞳をじっと見つめ返した。今ここで「あなたはアランなの?」と聞いてしまえば、全てがはっきりするかもしれない。
けれど、私の喉の奥でその言葉はピタリと止まってしまった。
もし彼がアランだとしたら、なぜ学園で最初に出会った時にアランだと名乗ってくれなかったのだろう?
あの日の明け方、私は自分の後ろ姿を、彼に見られたと思っていた。そしてこの黒髪から、私とノラが結びつくのは必然だ。
でもひょっとしたら、彼は私がノラだと気づいていないのだろうか?
それとも、軽薄な令嬢と同じように夜の街をふらついていた私に幻滅して、気づいていない振りをしているのだろうか?
ならどうして、こんなに積極的に、優しく接してくれるのだろうか?
優しくしてくれるのは、ただリゼットの親友だから、なのだろうか?
疑念と不安がブレーキをかけ、私はどうしても核心を突くことができなかった。
「……ありがとうございます、ルシアン様。私は無事です」
「そうか、よかった」
私が静かに視線を逸らすと、ルシアン様は心底ホッとしたように微笑んだ。
その笑顔すらもアランに重なって見えて、私の胸の奥はぐちゃぐちゃにかき乱されていった。
ーー
その日の放課後。
私たちはいつものように、学園のサロンにある窓際の席に集まっていた。
秋の夕暮れが近づき、サロン内は落ち着いた空気に包まれている。
「さて、少し休憩にしましょうか。私がお茶を淹れましょう」
リゼットが優雅に立ち上がり、ティーセットの準備を始める。
すると、向かいの席に座っていたルシアン様が、自分の鞄をごそごそと漁り始めた。
「実はティータイムにちょうどいいと思って、差し入れを持ってきたんだ」
彼がそう言ってテーブルの上に置いたのは、見覚えのある小さな紙製の包みだった。
中から取り出されたのは、素朴な形をした数枚の焼き菓子。
「これ……シナモンクッキー?」
私は思わず身を乗り出してしまった。
それは王都の高級菓子店のものではない。私が学園の帰りによく立ち寄る、あの下町の小さなパン屋の片隅で売られている、素朴で甘いシナモンクッキーだった。
何より、夜の公園でアランがお礼だと言って私に差し出してくれたものと、全く同じものだ。
驚いて目を見開く私を見て、ルシアン様はとても優しく、そしてどこか懐かしむような瞳で微笑んだ。
「僕の思い出の味なんだ。君の口に合うといいのだけれど」
その言葉と表情に、私の心臓はまたしても早鐘を打った。
夜の公園で、おばあさんの鍵を探してあげたお礼にと、アランが私に差し出してくれたあのクッキー。そして何より、七歳の頃に私が時計塔で泣いていた少年にあげた、大好きなシナモンクッキーだ。
「……いただきます」
私は震えそうになる指先を隠し、クッキーを一つ手に取ってそっとかじった。
サクッとした食感と共に、シナモンとバターの甘く優しい香りが口いっぱいに広がる。間違いない。あの時計塔で少年に渡し、夜の公園でアランからもらった、あのお店の味だ。
「どうだい?美味しいかな」
ルシアン様が、まるで私が喜ぶのを確信しているような、期待に満ちた目で覗き込んでくる。
「はい。とても……美味しいです。私も、このクッキーが大好きなんです」
私が正直に答えると、ルシアン様はパッと花が咲いたように顔を輝かせた。
「本当かい?よかった!君なら絶対に気に入ってくれると思っていたんだ」
彼は本当に嬉しそうに目を細め、自分もクッキーを一つ口に放り込んだ。
その横で、クロード様がやれやれと小さく息を吐き、リゼットが紅茶を注ぎながら楽しそうにくすくすと笑っている。
温かいお茶の香りと、甘い焼き菓子。そして、私を真っ直ぐに見つめる優しい碧色の瞳。
心地よいサロンでの時間は、かつて夜の街のベンチでアランたちと過ごしたあの温かい時間に、酷く似ていた。
それからの日々、私は少しずつルシアン様のペースに巻き込まれていった。
彼は相変わらず息をするように私を甘やかし、過保護に扱ってくる。その一つ一つの仕草や身のこなしにアランの面影を感じ、その度に疑念は確信へと近づいていく。
けれど、どうしても核心を問いただすことができない。
ルシアン様、いや、アランとの関係が壊れてしまうかもしれないという恐怖が、私の唇を重く塞いでしまうのだ。今まで誰に何を言われても平気だった私が、彼の拒絶を恐れて身動きが取れなくなっている。
「セレーネ?どうしたんだい、難しい顔をして。どこか具合でも悪いのか?」
私が考え込んでいると、隣を歩いていたルシアン様が立ち止まり、私の顔を心配そうに覗き込んできた。
彼の碧色の瞳には、私への純粋な気遣いと、隠しきれないほどの熱烈な好意が浮かんでいる。その瞳を見るたびに、私の心は甘く溶かされそうになる。
「いいえ、なんでもありませんわ。少し、今日の夕食のデザートのことを考えていただけです」
私が咄嗟に誤魔化すと、ルシアン様は安堵したようにふっと微笑んだ。
「ふふっ、君は本当に甘いものが好きなんだね。今度、王都で一番美味しいと評判のケーキ屋に案内するよ。一緒に行ってくれるかい?」
「……リゼットたちも一緒なら」
「もちろんさ。君が嫌がることは絶対にしないよ」
彼は私の塩対応にも全くめげることなく、嬉しそうに頷く。
真実を聞き出せないもどかしさを抱えながらも、私は彼が与えてくれる優しくて甘い時間に、少しずつ溺れていくのを感じていた。




