【第14話】夜のお散歩はもうおしまい
王都の夜空に、琥珀色の満月が静かに浮かんでいる。
いつもなら、とっくに黒猫の姿へと変わり、開け放たれた窓から夜の風に乗って飛び出している時間だ。
心地よい夜風を全身に浴びて、どこまでも続く石畳の屋根を軽やかに駆け抜けているはずだった。
けれど今夜の私は、自室の窓枠に寄りかかったまま、ただぼんやりと夜空を見上げていた。
窓から吹き込む風はいつもと同じはずなのに、今の私には酷く冷たく感じられる。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように苦しい。
脳裏にフラッシュバックするのは、今朝の出来事だ。
鎮火し終えた火災現場から逃げるように駆け出した私を、山の稜線から顔を出した朝日が容赦なく照らし出した。
陽の光に包まれ、黒猫から人間の少女へと戻っていく私の姿を、アランは間違いなく見ていたはずだ。
彼にとっての私は、賢くて可愛い黒猫の相棒だった。
だからこそ、あんなにも優しく触れ、甘い声で名前を呼び、私のために美味しいお菓子を用意してくれていたのだ。
一緒に街の平和を守り、誰かのために奔走する時間は、退屈だった私の日常を鮮やかに彩ってくれた。
その正体が、ただの貴族の令嬢だったと知ったら、彼はどう思うだろうか。
「君もあんな軽率な女性たちと同じだったのか?」
以前、夜の街で軽薄に声をかけてきた貴族の令嬢たちを一蹴した時の、彼のあの冷たい声が耳の奥で蘇る。
夜更けに家を抜け出して街をふらついているという点では、私も彼女たちと何も変わらない。
きっと、軽蔑されたに違いない。
私がずっと黒猫のふりをして、からかっていたのだと激しく怒っているかもしれない。
もう二度と、あの優しい手で頭を撫でてはくれないだろう。
私を見つめてくれたあの温かい瞳は、もう私には向けられない。
嫌われてしまったかもしれない。
いや、きっと嫌われてしまったのだろう。
今まで、他人にどう思われようと気にしたことなんて一度もなかった。
婚約者だったマクシミリアンに大勢の前でどれほど理不尽に罵倒されようと、あくびを噛み殺せるくらいには心が動かなかったのに。
他人の評価なんて、私にとっては道端の石と同じくらいどうでもいいものだったはずなのだ。
なのに、アランに嫌われたかもしれないと思うと、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
自分の感情をコントロールできない、こんな苦しい気持ちは生まれて初めてだった。
コンコンコン。
不意に、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「セレーネ、いるかい?私だ、シオンだ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、兄のシオンお兄様の声だった。
「入って、お兄様」
私が声をかけると、扉が静かに開く。
部屋に入ってきたお兄様は、窓辺に立ち尽くす私を見て、心底驚いたように目を丸くした。
「どうしたんだ?散歩にはいかないのかい?」
「うん。しばらくはお休みしようと思って」
私が力なく答えると、お兄様の表情がスッと真剣なものに変わった。
彼はゆっくりと歩み寄り、私の顔を真っ直ぐに覗き込む。
「何かあったのかい?毎晩あんなに楽しそうに出かけていた君が、夜の街に行かないなんてよほどの事だ」
お兄様の優しくて心配そうな声に、胸の奥でつっかえていた感情が少しだけ揺れた。
誰かにこの苦しさを聞いてほしかったのかもしれない。
私は小さく息を吸い込み、意を決して口を開いた。
「ひょっとしたら、友達に人に戻るところを見られたかもしれないの」
それを聞いたお兄様は、驚きでわずかに息を呑んだ。
私が黒猫になれる一族の秘密が誰かに知られたことの重大さを、彼も十分に理解しているからだ。
場合によっては、国の機関に強制的に協力を要請される可能性だってある。
けれど、お兄様は私を責めることも慌てることもなく、大きな手で私の頭を優しく撫でてくれた。
「そうか。でもセレーネが思っているほど、心配はいらないと思うよ」
「え……?」
「だって黒猫のセレーネを大切にしてくれたんだろう?君の話を聞く限り、彼らは外見や種族なんかではなく、君の心そのものに向き合ってくれていたはずだ。ならきっと大丈夫さ」
温かく力強いお兄様の言葉が、冷え切っていた心にじんわりと染み込んでいく。
私が誰であろうと、あの夜を一緒に駆け抜けた時間を彼らが否定するはずがない。
そう思わせてくれる不思議な説得力が、お兄様の声にはあった。
「そう、…かしら」
「ああ、私が保証する。だからそんなに思い詰めなくていい。今日はもう、ゆっくり休むといい」
「ありがとう、お兄様」
お兄様の言葉に、ほんの少しだけ気が楽になった。
それでも、完全に胸のつかえが取れたわけではない。
私は窓枠から離れ、静かに窓を閉めてカーテンを引いた。
今夜はもう、あの騒がしくて温かい夜の街には行けない。
ベッドに潜り込んでも、頭の中を駆け巡る不安のせいでなかなか寝付くことができず、私はただ静かな自室で夜が明けるのを待った。
ーー
次の日の王立学園。
昼休みの中庭には、夏の強い日差しが照りつけ、私たちは日をよけるため、藤棚の木陰のベンチに座っていた。
いつもなら、この時間は私にとって絶好のお昼寝タイムだ。
夜通し街を駆け回っていたせいで、昼間はどうしても抗えない睡魔が襲ってきていたからだ。
しかし今日の私は、開いた教科書に視線を落としたまま、まったく眠気に襲われることなく起きていた。
夜の散歩へ行かず、ベッドで人間らしくぐっすりと眠ったおかげで、昼間だというのに頭が冴え渡っているのだ。
しかし、教科書の文字を追おうとしても全く内容が頭に入ってこない。
アランの顔が、声が、思考の隙間から何度も入り込んでくるからだ。
「セレーネ?今日は珍しく起きているのね」
隣に座っていた親友のリゼットが、不思議そうに私を覗き込んできた。
彼女のバラ色の髪が、夏の木漏れ日に照らされてキラキラと光る。
私が昼休みに寝ていないことに一番驚いているのは、長年付き合いのある彼女だろう。
「夜のお散歩は、やめたの?」
心配そうに尋ねるリゼットの言葉に、私は小さく息を吐いた。
「うん、夜のお散歩はもうおしまい」
私が静かに答えると、リゼットは読んでいた本をパタンと閉じ、真剣な眼差しで私に向き直った。
「何があったの?あんなに楽しそうにしていたのに」
私は少し迷ったが、彼女には隠し事をしたくなくて、正直に口を開いた。
「人に戻るところを見られたと思うの」
私が昨日の出来事を短く説明すると、リゼットは少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの涼やかな表情に戻った。
「あら。じゃあ、また一人でお散歩すればいいんじゃないの?」
リゼットの言うことはもっともだ。
マクシミリアンとの婚約が破棄され、自由な時間を取り戻したばかりの頃は、誰にも縛られない一人きりの夜が最高だと思っていたのだから。
一人に戻るだけ、ただそれだけのことだ。
なのに、どうしてこんなにも心が重いのだろう。
「そうかもしれないけど…」
「その二人のことが気になるの?」
リゼットの鋭い問いかけに、私は視線を泳がせた。
アランのキラキラとした笑顔も、ジャックの呆れたようなため息も、もう見られないのかと思うとたまらなく寂しい。
ただ、ジャックと会えないことよりも、アランと会えないと思うことの方が、なぜか私の心をざわつかせる。
「二人っていうか…」
「ふふっ。その内の一人が気になるのね?」
図星を突かれ、私はギュッと制服のスカートの裾を握りしめた。
「うん、自分でもよくわからないけど、その人のことを考えると胸が苦しくなるの」
私の拙い説明を聞いたリゼットは、少しだけ目を瞬かせた。
「息がしづらくて、熱があるみたいで。もし私の正体がただの人間だと知って、嫌われたかもしれないと思うと、どうしようもなく怖いの。今まで他人にどう思われようが気にしなかったのに、こんな気持ち初めてで」
ぽつりぽつりと溢れ出す私の本音を、リゼットは静かに聞いてくれた。
「私、何かの病気なのかな…?」
そして、戸惑う私を見て、彼女はこの上なく優しくて美しい微笑みを浮かべた。
「その病気はお医者様でも治せないわ。いい?セレーネ。それはきっと、恋の病よ」
「……こい?」
予想外の単語に、私は間抜けな声を出してしまった。
こい?濃い?鯉?……恋!
ふぅ、あまりに自分の辞書にない言葉で、探すのに苦労したわ。
しかし、これが恋というものなのだろうか?
初めて恋をした人は、それが恋だとどうやって気づくのだろうか?
恋なんて、私には縁のないものだと思っていた。
マクシミリアンとの婚約期間中も、一度だってそんな感情を抱いたことはなかったのだから。
「そう、きっと恋。たぶん、その人のことを好きになっているのよ。自分でも気づかないうちにね」
「これが恋…なのかな…」
私はゆっくりと、自分の胸に手を当てた。
トクン、トクンと、いつもより少し早く、そして力強く打つ心臓の音。
あの金髪の青年の、優しく甘い声。
私の頭を撫でる温かくて大きな手。
嬉しそうに差し出される、美味しいお菓子。
彼と一緒にいると胸の奥が温かくなって、ずっとこのままでいたいと願ってしまった。
彼を思い出すたびに感じるこの初めての感覚が、恋かどうかはまだわからなかった。
ただ、彼に嫌われたくない。
もう一度、会いたい。
そんな切実な願いだけが、夏の青空の下で静かに、けれど確かに芽生え始めていた。




