【第13話】朝日の中の黒猫
崩落した階段。迫り来る炎の壁。
逃げ場を失った五階の廊下で、私は窓の方へと視線を向けた。
残された脱出ルートはあそこしかない。
しかしここは五階だ。このまま飛び降りれば、私以外の三人はひとたまりもないだろう。
「アラン、ジャック、私から絶対に離れないで!」
私は注意を促すと、体内の魔力を限界まで練り上げた。
先ほどから私たち四人を包み込んでいた水のバリアに、さらに大量の魔力を注ぎ込む。
薄かった水の膜がみるみるうちに分厚さを増し、まるで分厚いガラスのような、強固で巨大な水球へと変化していく。
「ノラ?一体何を……」
アランが驚いたように私を見るが、説明している暇はない。
部屋の中はすでに酸素が薄くなり、不完全燃焼の炎がくすぶり始めていた。
「お願い、私を信じて付いてきてほしいの」
「わかった、どこへだって君の後についていくよ!」
アランは一切の躊躇なく、言葉を返してくれた。
私は鋭い爪で床を蹴り、窓に向かって跳躍すると同時に、風魔法で窓ガラスと木枠を外に向かって一気に吹き飛ばした。
パァンッ!という音と共に窓が砕け散り、夜の冷たい空気が室内に一気に流れ込んでくる。
その瞬間だった。
空気を食らった炎が爆発的に膨れ上がり「ドォォォン!」という腹の底に響くような轟音と共に、凄まじい爆発『バックドラフト』が発生した。
「うわぁっ!」
「くっ……!」
すさまじい爆発の衝撃波が、私たちの背後から襲いかかる。
しかし、分厚く強化した水球がその衝撃と熱を完全に相殺し、私たちを守り抜いた。
そして、その爆風を強烈な推進力に変え、私たちは巨大な水球ごと、五階の窓から夜空へと大砲のように勢いよく打ち出されたのだ。
炎を背に受けて宙を舞う私たちの姿は、下で見ていた群衆の目にどう映っただろうか。
放物線を描いて落下していく中、私はさらに別の魔法を展開する。
「風よ!」
落下地点に向けて強烈な上昇気流を生み出し、巨大な見えない空気のクッションを作り上げた。
猛スピードで落下していた水球は、その風のクッションに受け止められ、まるで羽毛が舞い降りるように速度を緩めていく。
そして、野次馬たちが遠巻きに囲む通りの安全な場所へと、ふわりと音もなく着地した。
着地と同時に私が魔力を解くと、分厚い水球はパシャァッと弾け、ただの水しぶきとなって石畳を濡らした。
「……助かった、のか?」
アランが信じられないというように周囲を見渡す。
ジャックも仮面の位置を直しつつ、深い安堵の息を吐き出していた。
「マリア!ああ、マリア!」
群衆の中から、先ほどの母親が泣き叫びながら飛び出してきた。
「お母さん……!」
アランの腕の中にいた女の子が母親の胸に飛び込み、二人はしっかりと抱き合って涙を流した。
その光景を見て、周囲を囲んでいた野次馬たちから、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
「あんな高いところから飛び降りて無事だなんて!」
「お兄さんたち、よくやった!あんたたちは英雄だ!」
次々と人々がアランとジャックの元に駆け寄り、口々に称賛と感謝の言葉を浴びせる。
二人は少し照れくさそうにしていたが、やがてアランが真剣な表情になって群衆に向かって声を張り上げた。
「みんな、聞いてくれ!さっきの魔法はこの黒猫ちゃんのものです。僕たちはただのお飾りだ。この子がいなかったら、僕たちは全員、あの炎の中で焼け死んでいたんだ」
アランはそう言って、足元にいた私をしゃがみ込んでそっと抱き上げ、皆に見えるように掲げた。
人々の視線が一斉に私に集まる。
黒い毛並みは、この国では厄災の象徴として忌み嫌われてきた。
最初は驚きと戸惑いの表情を浮かべていた人々だったが、母親に抱きしめられている女の子が無事であることを確認すると、その表情は次第に柔らかいものへと変わっていった。
「そうか……この黒猫ちゃんが魔法で……」
「なんて賢くて勇敢な猫なんだ」
口々に感嘆の声が漏れる中、群衆の後方から誰かが大きな声で言った。
「黒毛は厄災の色だなんて誰がいったんだ。こんなにすごい魔法で助けてくれたじゃないか!黒は、救済の色なんだよ!」
その言葉は、静かな波紋のように人々の間に広がっていった。
「ああ、そうだ。その通りだ!」
「この子が絵本の妖精なんじゃないか?」
「黒猫ちゃん、ありがとう!助けてくれてありがとう!」
人々が口々に私に向かって感謝の言葉を投げかけてくる。
厄災の象徴。不吉な存在。
今まで当たり前のように向けられていた偏見の目が、今この瞬間、確かな温もりと敬意を持った眼差しへと変わっていくのを感じた。
私が昼間にお別れした、小さなびわのタルトが種となり、それが今、この場所で大きな花を咲かせようとしている。
アランの腕の中で、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「よかったね、ノラ。君は本当にすごいよ」
アランが私の額にそっと自分の額をすり寄せて、嬉しそうに囁く。
私は彼に顔を擦り付けながら、心からの喜びを込めて喉をゴロゴロと鳴らした。
群衆の歓声と熱気が冷めやらぬ中、ようやく遅れて王都の消防団が現場に到着した。
「遅くなってすまない!すぐに消火にあたる!」
「まだ火の勢いは強いぞ!隣の建物への延焼を防ぐんだ!」
消防団の号令と共に、男たちが手押しポンプで運河から汲み上げた水を放ち始める。
しかし、五階建ての集合住宅を飲み込んだ炎を鎮めるには、まだ人手も水も足りていないようだった。
「ジャック、僕たちも手伝おう!」
「ええ、承知しました!」
アランとジャックはすぐさま上着を脱ぎ捨て、バケツリレーの列に加わって必死に消火活動を手伝い始めた。
もちろん、私も黙って見ているわけにはいかない。
私は屋根の上に飛び乗り、炎の勢いが強い場所を狙って、空から大量の水を生成しては滝のように降らせていった。
もう少し……ここを抑えれば延焼は防げるわ!
自分の魔力の限界も忘れ、私は無我夢中で水魔法を展開し続けた。
アランたちも煤だらけになりながら、声を張り上げて水を運び続けている。
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。
懸命な消火活動の甲斐あって、パチパチと燃え盛っていた炎は徐々にその勢いを弱め、やがて黒い煙と水蒸気を上げるだけの焼け跡へと変わっていった。
「ふぅ……なんとか、鎮火したな」
アランが額の汗を拭いながら、大きく息を吐き出す。
私も屋根の上からふわりと飛び降り、彼らの足元へと戻って安堵の息をついた。
その時だった。
ふと、周囲の景色が妙にはっきりと見えることに気がついた。
今まで私たちを包んでいたのは、炎の明かりと、深い夜の闇だったはずだ。
しかし今、石畳の輪郭も、人々の顔も、すべてが薄青い光の中に浮かび上がっている。
ハッとして東の空を振り返ると、山の稜線がうっすらと白み始めていた。
夜明けだ。
消火活動に夢中になりすぎて、時間が経つのを完全に忘れていた。
「しまった……!」
夜が明けて太陽の光を浴びれば、私の魔力は失われ、強制的に人間の姿に戻ってしまう。
私は咄嗟に身を翻した。
「ノラ?どうしたんだい、急に」
アランが不思議そうに私を呼び止める。
けれど、返事をしている暇などない。
私は彼の言葉を無視して、石畳を蹴って全速力で走り出した。
お願い、待って太陽よ。まだ昇らないで。
必死の願いも虚しく、王都の建物と建物の隙間から、ついに朝の太陽が顔を出した。
キラキラとした黄金色の光が、私の背中を容赦なく照らし出す。
「あっ……!」
走りながら、私の体が淡い光に包まれるのを感じた。
視界が急速に高くなり、しなやかな四肢が人間の手足へと変わり、長い黒髪が背中にファサリと落ちた。
完全に人間の少女の姿に戻ってしまったのだ。
振り返ることはできない。顔を見られたら、もう取り返しがつかない。
アラン、ごめんなさい……!
私は心の中で短く謝罪し、ただ前だけを見つめ、朝日の中を必死に駆け抜けていった。
ーー
鎮火の安堵も束の間、ノラが突然弾かれたように走り出した。
「ノラ?どうしたんだい、急に」
僕が呼び止めるが、彼女は全く振り返ることなく、真っ直ぐに路地を走っていく。
怪我でもしているのだろうかと心配になり、後を追おうと足を踏み出したその時だった。
建物の向こうから朝日が昇り、キラキラとした眩しい光が王都の街並みと、走るノラの小さな背中を照らし出した。
次の瞬間、信じられない光景が僕の目に飛び込んできた。
朝日に照らされた美しい黒猫の姿が、光の粒子に包まれたかと思うと、歩を進めるごとにみるみるうちに人の形へと変わっていったのだ。
「え……?」
僕は息を呑み、その場に釘付けになった。
夜が明けた後、そこにいたのは黒猫ではない。
ワンピースのような服を身に纏い、艶やかな黒髪を風になびかせる、一人の少女の後ろ姿だった。
少女は一度も振り返ることなく、朝日の中を風のように駆けていき、やがて街角の向こうへと姿を消してしまった。
「…………」
僕はただ呆然と、彼女が消えた曲がり角を見つめ続けることしかできなかった。
朝風にふわりとなびいていた、絹糸のように美しい黒髪。
それは、休日に街の図書館で見かけた、机に突っ伏して眠っていたあの少女の後ろ姿と、あまりにもよく似ていた。
「まさか……あの娘が、ノラ?」
鼓動が激しく打ち始める。
あの日、図書館で無防備に眠っていた黒髪の少女。そして、人語を話し、魔法を使い、僕の心を満たしてくれた夜の相棒。
人間と猫。あり得ないはずの二つの存在が、僕の中でピタリと重なり合った。
「アラン、どうしました。ノラ殿はどこへ行ったのです?」
遅れてやってきたジャックが不思議そうに歩み寄ってくるが、僕の耳にはその声はほとんど届いていなかった。
「…見つけた、僕の運命の人……」
黒い髪をなびかせながら駆けていくあの後ろ姿が、僕の瞳に、いつまでもいつまでも強く焼き付いていた。




