【第12話】深夜の火災事故
季節は夏を迎え、王都の夜風にも少しずつ湿り気と熱が混じるようになってきた。
私たち三人、いや一匹と二人の夜警団としての活動もすっかり板につき、夜の王都ではちょっとした有名人になりつつあった。
今日のパトロールは比較的平穏だった。
私たちは涼を取るために、街の小さな広場にある噴水のそばで休憩することにした。
私は噴水の冷たい石の縁に香箱座りをし、しっぽを揺らして水面を撫でる夜風を楽しんでいた。
「ふぅ、今日は少し蒸し暑いね」
隣で立ち止まったアランが、首元を少し緩めながらそう呟いた。
彼は懐から白いハンカチを取り出すと、目元を覆っている仮面を上に少しだけずらした。
仮面の下にかいた汗を拭うための、ほんの一瞬の動作。
少し離れた噴水の縁から彼を見上げていた私の目に、月明かりに照らされた彼の素顔が飛び込んできた。
……すごく綺麗な顔
それが私の第一印象だった。
軽やかな金髪の下に隠されていたのは、彫刻のように整った顔立ちと、気品のある涼やかな目元。
とはいえ、すぐにハンカチで顔を押さえて汗を拭き、仮面を戻してしまったため、本当に一瞬しか見えなかった。
まあ、彼がどんな素顔をしていようと、私にとっては過保護で少しうるさい、お菓子をくれる気の良い相棒であることに変わりはない。
私はそれ以上深く考えるのをやめにした。
「ノラ、どうしたの?じっと僕の顔を見て」
アランが仮面越しの目を細めて微笑みかけてくる。
「別に。今日は暑いわねって思っていただけよ」
「そうだね。そういえば、いつも夜にしか会えないけれど、昼間の君はどこで何をしているんだい?こんなに賢くて言葉も話せるんだから、きっと昼間はどこかの家で大切に飼われているお姫さまなんだろうな」
アランの素朴な疑問に、ジャックも少し興味深そうにこちらを見ている。
まさか、昼間は人間の姿で、貴族の令嬢として学園に通っているだなんて言えるはずがない。
「ふふっ、ないしょ」
私が尻尾を揺らしてはぐらかすと、アランは「君は本当にミステリアスだな」と笑って、いつものようにご褒美のお菓子を差し出してくれた。
「こんな日々がずっと続くといいな」
アランが夜空の月を見上げながら、ポツリと呟く。
「そうね、…でもいつかは終わりが来てしまうものよ」
私のこの夜のお散歩も学生の間だけ、…いや、新しい婚約者が決まったら、また以前のような生活に逆戻りだろう。
そうすればこの二人との夜の冒険も終わってしまう。それまでは今のこの生活を楽しんで、たくさんの思い出を作っておこう。
しかし、そんな私の言葉を、アランが強い口調で否定した。
「いいや、終わらない。いや、終わらせない。君がどこへ行こうとも、僕は必ず君を見つけ出し、ずっとそばにいると誓おう!」
いつものアランとは違う、まるでプロポーズのような真剣な言葉に、私は顔が真っ赤になるのがわかった。
この時ほど、顔が毛に覆われていることをありがたいと思ったことはなかった。
「さ、さぁ、今日のお菓子はなにかしら!楽しみにしてたの!」
私は、はぐらかすように話題をお菓子にすり替えた。
今日の報酬は、夏らしいフルーツのゼリーだった。
冷えていないことがちょっとだけ残念ではあるが、魔法でゼリーを浮かせて一つ口に放り込む。
美味しいはずなのに、頭でさっきのアランの言葉がぐるぐると繰り返され、味はよくわからなかった。
休憩も終わり、さて今日も解散しようかというタイミングだった。
カンカンカンカンッ!
夜の静寂を切り裂くように、けたたましい鐘の音が王都の空に響き渡った。
「火事の鐘だ!」
ジャックが鋭い声を上げる。
「アラン、ジャック、待ってて!」
私は噴水の縁を蹴って跳躍し、近くの建物の屋根へと一気に駆け上がった。
高いところから王都を見渡すと、少し離れた下町の集合住宅エリアから、夜空に向かって真っ黒な煙がもうもうと立ち上っているのが見えた。
赤い炎がチロチロと屋根を焦がしはじめている。
「あっちよ!ついてきて!」
私は屋根の上から二人に指示を出し、火元へと向かって全速力で走り出した。
地上ではアランとジャックが、私の黒い影を追いかけて石畳を蹴って走ってくる。
現場に到着すると、そこは五階建ての大きな集合住宅だった。
上の階から出火したのか、激しい炎と黒煙が建物を飲み込もうとしている。
周囲にはパニックになった住人や野次馬が集まり、騒然としていた。
「下がって!危ないですよ!」
「水を持て!消防隊はまだか!」
すでに多くの住人の避難は完了しているようだが、消防の到着を待っている間に火の手はどんどん勢いを増している。
その時、群衆を掻き分けて一人の女性が飛び出してきた。
「誰か!助けて!娘が、私の娘がまだ中にいるの!」
煤で顔を汚した女性が、燃え盛る建物に向かって絶叫した。
「落ち着いてください。娘さんはどこにいるんですか!」
アランがすぐさま女性の肩を掴み、冷静に状況を聞き出す。
「五階よ!私たちは五階の部屋に住んでいて……私が夜勤で出かけていたから、あの子、一人で寝ているはずなの!お願い、誰か助けて!」
五階。
見上げると、階段のある共有スペースの窓からはすでに真っ赤な炎が噴き出しており、通常の方法で上層階へ行くのは不可能な状態だった。
周囲の大人たちは絶望的な顔をして立ち尽くすことしかできない。
「私が行くわ!」
女性の悲痛な叫びを聞いて、私が迷う理由は一つもなかった。
私は体内の魔力を練り上げ、風ではなく、大量の水魔法を自身の周囲に展開した。
透明な水の球体が私の体をすっぽりと包み込む。
「ノラ!?」
驚くアランとジャックを背に、私は水のバリアを纏ったまま、燃え盛る建物の入り口へと一直線に飛び込んだ。
私が炎の中に飛び込んだ直後、アランが私の後を追い、燃え盛る入り口へと飛び込もうとした。
しかし、それをジャックが強い力で引き止めた。
「アラン、あなたにもしものことがあったらどうするんですか!」
ジャックの必死な声が響く。彼が案じるのも無理はない。彼らにはきっと、こんなところで命を落としてはならない重要な立場があるはずなのだから。
しかし、アランはジャックの手を振り払い、燃え盛る炎を真っ直ぐな瞳で見つめ返した。
「止めないでくれ。幼い頃に彼女がいてくれたからこそ、今の僕があるんだ。ジャック、君はここで待っていてくれ」
アランの迷いのない、確固たる決意を帯びた声。
その言葉に、ジャックは短く息を吐き、主君の覚悟を受け入れたように静かにうなずいた。
「……どこまでもお供しますよ、アラン」
「だめだ、君たち!行ってはいけない!」
野次馬の制止を振り切り、二人は上着で口元を覆い、私を追って炎と煙が渦巻く建物の中へと飛び込んできた。
火の勢いは凄まじく、木造の階段はすでにパチパチと音を立てて燃え上がり、視界は黒い煙で完全に塞がれている。
「ノラ、無事かい!」
煙の中を駆け上がってきた二人が、水のバリアに包まれた私に追いつく。
「馬鹿ね、あなたたちまで火傷したらどうするの!」
私は呆れながらも、自身の周囲に展開していた水魔法の球体を大きく広げた。
冷たい水の薄い膜がアランとジャックをもすっぽりと包み込み、迫り来る熱気と有毒な煙から一匹と二人を守る。
「すごい……熱くないし、煙も入ってこない」
「感心している場合じゃないわ、早く五階へ行くわよ!」
私たちは炎の壁を水のバリアで押し退けながら、崩れかけた階段を必死に駆け上がった。
二階、三階、四階。
階を上がるごとに炎の熱と勢いは増し、建物の骨組みが軋む不気味な音が絶えず響いている。
そして、ようやくたどり着いた最上階の五階。
煙が充満する廊下の奥、一番端の部屋から、微かに子どもの泣き声が聞こえた。
「あそこだ!」
アランが真っ先に声のする部屋の扉を蹴り破り、ジャックが続く。
部屋の隅のベッドの横で、小さな女の子が毛布を被って震えながら泣きじゃくっていた。
「大丈夫だよ、もう安心だ。助けに来たよ」
アランが優しく声をかけ、女の子をしっかりと胸に抱きかかえる。
女の子はアランの腕の中で安堵の涙を流し、小さな手で彼の服をぎゅっと握りしめた。
「よし、すぐにここから脱出するぞ!」
ジャックの掛け声と共に、私たちは女の子を囲むようにして再び廊下へと出た。
しかし、私たちが降りてきた階段の方へ目を向けた瞬間、絶望的な光景が広がっていた。
轟音と共に四階の天井部分が大きく崩落し、私たちが通ってきたはずの唯一の階段が、完全に炎の壁と瓦礫によって塞がれてしまっていたのだ。
「くっ……階段が崩れて、下へ降りられない!」
ジャックが顔をしかめ、アランも女の子を抱きしめたまま道を塞ぐ炎を睨みつける。
熱気はさらに勢いを増し、私たちがいる五階のフロア全体を完全に飲み込もうとしていた。
逃げ場を失い、炎の中に孤立してしまった一匹と二人。
迫り来る灼熱の炎が、水のバリア越しにもじりじりと伝わってくるのを感じながら、私はある決断を下すために窓の方へと視線を向けた。




