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【第11話】早く夜にならないかな

休日の朝。私はお出かけの準備を済ませ、屋敷のエントランスへと向かっていた。


「少し出かけてくるわ、アルフレッド」


「承知いたしました、セレーネお嬢様。それでは馬車をご用意いたしましょう」


今日は街の大きな図書館へ行く予定だ。


「セレーネ、出かけるのかい?」


背後から声をかけられ振り返ると、シオンお兄様が立っていた。


「ええ、お兄様。少し図書館で調べたいことがあって」


「奇遇だね。僕も街へ用事があるんだ。図書館なら途中だから、僕の馬車に一緒に乗っていくといい」


過保護で優しいお兄様の提案に甘え、私たちは一緒に馬車へ乗り込んだ。


ガタゴトと心地よく揺れる馬車の中で、シオンお兄様が少しだけ不満そうな顔をして口を開いた。


「最近、夜の散歩で男の二人組と行動しているらしいね。リゼット嬢から聞いたよ」


「ええ、ひょんなことから夜警団のようなことを手伝うことになって。二人ともとても親切でいい人たちよ。美味しいお菓子もくれるし」


「美味しいお菓子……なるほど、それが一番の目当てか。でも、兄としては少し心配だな。僕の可愛い妹が、どこの馬の骨ともわからない男たちと夜な夜な一緒にいるなんて。少しヤキモチを焼いてしまいそうだよ」


シオンお兄様が大げさにため息をつく。


「ふふっ。心配しないで、お兄様。私はただの黒猫として可愛がられているだけだから。それに、彼らはお兄様と同じくらい私のことを過保護に扱ってくるのよ。自分で歩くと言っているのに、危ないからとすぐに抱き上げてくるし」


「そうか。まあ、婚約破棄される前の退屈そうな君に比べたら、今の君はずっと生き生きしているからね。セレーネが楽しんでいるのなら口出しはしないでおくよ。でもくれぐれも気をつけるんだよ」


「ありがとう、お兄様」


窓の外を流れる昼間の王都の景色を眺めながら、私は穏やかな休日の朝を満喫していた。


ーー


一方その頃、王城の一室では、ルシアンが机に山積みになった書類と睨み合っていた。


「殿下、手が止まっていますよ。早く書類を揃えてください」


側近のクロードが、朝からずっと小言を言い続けている。


秋からの王立学園への編入手続きや、それに伴う身分証明などの膨大な書類準備に追われていたのだ。


「わかっているよ、クロード。でも、この家系図の記述について、手元の資料だけだと少し確認したい部分が出てきてしまってね」


ルシアンは万年筆を置き、小さく背伸びをした。


「少し調べたいことがあるから、気分転換に散歩がてら街の図書館へ行ってくるよ」


「……わかりました。くれぐれも目立たないようにしてくださいよ。そして寄り道せずに、すぐに戻ってきてくださいね」


クロードの渋い顔を背に、ルシアンは王城を抜け出して街へと歩き出した。


休日の王都は、昼間特有の明るさと活気に満ち溢れている。


市場からは威勢の良い声が響き、すれ違う人々は皆、太陽の下で楽しそうに笑い合っている。


しかし、一人で歩く昼の街は、夜のあの特別な時間と違ってなぜか少し寂しく思えた。


隣で小言を言うジャックもいないし、何より愛らしい相棒の黒猫がいない。


琥珀色の月明かりの下でしか会えない彼女のことを思い出しながら、ルシアンは図書館へと向かって歩みを進めた。


ーー


その頃、王都最大の図書館に到着した私は、目的の本棚へ直行し、分厚い本を何冊も抱えて閲覧机へと向かっていた。


机の上にドサリと積み上げたのは、参考書でも歴史書でもなく、すべてお菓子作りの本だ。


私は学園での勉強も、身体を動かすこともそつなくこなせる自信がある。


しかし、なぜか料理だけはてんでダメなのだ。


前に一度、家庭科の実習で、好きなお菓子づくりをするという授業があった。


私はお気に入りのお店のシナモンクッキーを自分で焼いてみようと挑戦してみた結果、出来上がったのはクッキーの形をした黒い炭のような物体だった。


だからこそ、今度こそ完璧なシナモンクッキーを焼き上げるため、こうして休日に図書館へ通い、レシピや材料の配合について入念な研究を重ねているのだ。


「ふむふむ……バターは室温に戻してから砂糖とすり混ぜる……なるほど、そういうことね」


真剣な眼差しで本を読み進めていた私だが、次第に活字の群れがぼやけ始めた。


昨夜も遅くまで夜警団のパトロールをしていたため、どうしても昼間は眠気が襲ってくる。


静寂に包まれた図書館の空気と、ポカポカとした窓からの陽光も相まって、私のまぶたはどんどん重くなっていった。


「少しだけ……休憩しようかしら……」


私は腕を枕にして机に突っ伏すと、あっという間に心地よい眠りの底へと落ちていった。


ーー


図書館の重厚な扉を開け、ルシアンは静寂に包まれた空間へと足を踏み入れた。


壁一面に広がる本棚の間を抜け、彼が向かったのは歴史書の区画だ。


春からの王立学園への編入に必要な書類には、数代さかのぼった詳細な家系図や、王家の歴史や建国の理念について自身の見解を記入する欄がある。


分厚い背表紙の中から目当ての文献を数冊抜き出し、空いている机に座って万年筆を走らせた。


幼い頃から王宮で厳しい教育を受けてきた彼にとって、この程度の調べ物は造作もないことだった。


歴史書を紐解きながら、必要な情報を手早く手帳に書き写していく。


「よし、こんなものかな」


書類の準備が一段落し、ルシアンは息をついて本を閉じた。


すぐに王城へ戻ればクロードの小言も少なくて済むだろうが、せっかくここまで来たのだ。もう少しだけ本を見ていこう。


そう思い立ち、彼は本棚の間をゆっくりと歩き始めた。


ふと、歴史書の並びの端にある『王国の食の歴史』というタイトルの本が目に留まった。


何気なく手に取り、パラパラとページをめくる。


彼が目を止めたのは、菓子作りの歴史について書かれた項目だった。


かつてこの王国では、砂糖は他国からの輸入に頼る大変貴重なものであり、甘い菓子は王族や一部の特権貴族しか口にできない贅沢品だったらしい。


しかし、気候に合わせた品種改良が進み、国内での砂糖の生産が本格的に始まると状況は一変する。


砂糖が安価で手に入るようになったことで、市井の人々の間でも飛躍的に様々な菓子が作られ、独自の豊かな食文化として発展していったのだ。


「お菓子の豊富な今の時代に感謝だな」


ルシアンはページを見つめながら、柔らかく微笑んだ。


彼の脳裏に浮かぶのは、自分が差し出したお菓子をふわりと浮かせ、美味しそうに食べる美しい黒猫の姿だ。


今度はどんなお菓子を持っていけば、彼女はあんな風に幸せそうに喉を鳴らしてくれるだろうか。


そんなことを考えながら、ルシアンは本棚のさらに奥、食文化や料理の実用書が並ぶ区画へと足を向けた。


その区画の隅にある閲覧机に差し掛かった時、ルシアンはふと足を止めた。


机の上に何冊もの本を積み上げ、それに突っ伏すようにして一人の少女が眠っていたのだ。


顔は腕に埋もれてよく見えない。


しかし、彼女の背中を覆う長く美しい黒髪が、ルシアンの目を強く惹きつけた。


「黒髪か…。王国では珍しいな…それにしてもなんて美しい…」


ルシアンは誰に聞こえるでもなく、小さく呟いた。


窓から差し込む初夏の陽光に照らされたその髪は、まるで上質な絹糸のように艶やかに輝いている。


太陽の光を浴びて輝くその美しい黒髪が、なぜかルシアンの心に深く焼き付いているある光景と重なった。


琥珀色の月明かりの下、しなやかに夜の街を駆けるノラの毛並みだ。


人間の少女と、一匹の黒猫。


なぜかルシアンの中で、目の前で無防備にすやすやと眠る少女と、愛おしい夜の相棒の姿が不思議なほどに重なって見えたのだ。


「それではお嬢さん、いい夢を…」


彼は少女の穏やかな眠りを妨げないよう、足音を忍ばせてその場を離れた。


図書館の扉を開けて外に出ると、眩しい昼間の太陽が王都の街を照らしている。


ルシアンの胸の中は、あの気高くて愛らしい黒猫に会いたいという思いでいっぱいになっていた。


「早く夜にならないかな」


彼は日が落ちるのを心待ちにするように空を見上げ、足早に王城への帰路についた。


ーー


「ん……」


私は腕の中で小さく伸びをして、ゆっくりと顔を上げた。


どうやら、お菓子のレシピ本を読んでいる途中で完全に眠ってしまったようだ。


重い瞼をこすりながら、ぼんやりとした視界で周囲を見渡す。


ふと、本棚の向こう側へと歩き去っていく人物の後ろ姿が見えた。


軽やかな金髪。すっと通った背筋。


まだ寝ぼけている私の頭に、夜の街を共に駆ける相棒の姿がフラッシュバックした。


「アラン……?」


思わず口からその名前がこぼれる。


私は慌てて目をパチパチと瞬き、もう一度しっかりと前を見た。


しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。


静かな図書館には、ただ本をめくる微かな音だけが響いている。


「寝ぼけてたのかな?……ふふっ、早く夜にならないかな」


私は小さく笑いながら、机の上の本を片付け始めた。


昼間のまどろみも悪くないけれど、やっぱり私は、あの独特の騒がしくて温かい夜の時間が待ち遠しくて仕方がない。


胸の高鳴りを感じながら、私は図書館を後にした。

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